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「こちら、新しい先生。大道寺哲だいどうじてつくん」


「……はい…………はい?」


「ああ、あなたはさっきの。奇遇ですね」


 大道寺と呼ばれた男は、図書館で理子と会ったことを柳井に説明した。驚愕と恐怖の再来で、その話は理子の耳にはまったく入ってこなかった。


「大道寺くんは新年度が始まってからの着任でね。授業は秋からなんだけど、大学に慣れるために早く来てもらってるんだ。もう色々と仕事もお願いしてて、ずいぶん助かってる」


 大道寺はあらためて理子に頭を下げてから、にこりと笑顔を見せた。理子のほうは、笑顔をつくったつもりが口元がゆがんで、むしろ変顔をさらしてしまった。


「大道寺くん、こちら東雲理子さん」


 大道寺の顔が一瞬、引き締まる。が、すぐにまた人懐っこい笑顔に戻った。大道寺の細かい表情の変化に、理子も柳井も気づかなかった。


「東雲さんですね、よろしく」


「……あ……は、はい……」


「今日、東雲さんと面談だから、大道寺くんにも来てもらったんだ。大道寺くん、時間いい?」


「大丈夫です」


「そしたらあとは大道寺くんが直接、東雲さんの話を聞いてくれる? 共同研究室でいいかな。今日は勉強会とかやってないでしょ」


「わかりました」


 理子たちがいる九号館の建物には、教員の個人研究室とは別に、哲学専攻の「共同研究室」がある。共同研究室には「助教」が在室するほか、哲学専攻の学生たちが授業の合間にやってきては、自習をしたりおしゃべりをしている。四限以降の、おおむね放課後にあたる時間には、学生が自主的に集まって勉強会をやることもある。

 理子は柳井に挨拶をしてから、さきに部屋を出た大道寺のうしろをついて、同じ階にある共同研究室に向かった。そのあいだ二人はまったく口を利かなかった。

 助教の丸山聡まるやまさとしはもう帰宅していて、共同研究室には誰もいなかった。二人きりになってよいものかと少しためらったものの、共同研究室は広いし、なんといっても「先生」なんだから大丈夫、と理子は自分を励まして、大きな丸テーブルの手前側の隅に腰を下ろした。


「さて」


 大道寺は反対側に回り、理子の正面の椅子に座ると、テーブルのうえで両手の指を組み合わせた。


「東雲……理子さんでしたね。修論のテーマはどうされるんですか」


「……あの……そのまえに、お聞きしてもいいでしょうか」


「なんでしょう」


「さっき図書館で『あなたでしたか』っておっしゃったのは、指導教員のことだった

んですね」


「どういうことですか?」


「どうして指導学生が私だってわかったんですか? 哲学やってる女子なんて少ないから、私だと思ったんですか? それとも……あの辞書……」


「えーと、なにを言っているのか、よくわからないんですが」


「だいたい、どうしてあの辞書使ってたんですか? 私が返したばっかりだったのに」


「それですよ、僕が言ったのは。『辞書を返したのはあなたでしたか』という意味で聞いたんです」


「……え?」


 理子は目をパチパチさせた。


(……返したのはたしかに私だけど、なんでまたすぐに戻ってたんだろう……図書館に一冊しかない辞書なのに……?)


 眉間に皺を寄せて黙りこくっている理子を、大道寺が不思議な笑みを浮かべながら見つめている。


「なにかおかしなことがありましたか?」


 長い沈黙のあと、大道寺が口を開く。このままでは埒が明かないと思った理子は、覚悟を決めて、辞書の謎を大道寺にぶつけてみることにした。


「……あの辞書なんですが」


「はい」


「アンチノミーというか……あってはいけない場所にあったんです」


「アンチノミー? カントのですか?」


「まあ、カント先生を持ち出す必要はないんですが……あまりに奇妙だったので驚いてしまって」


「理哲社の『哲学大辞典』のことですか? そこにある?」


「えっ!?」


 大道寺は、共同研究室の壁に据えつけられた書架をツンツンと指差した。理子の目は驚きで丸くなった。そこには図書館にあったのとまったく同じ『哲学大辞典』が収まっていたのだ。


(……ということは……先生はこれを図書館に持ちこんで使ってたってこと……?)


 理子の推理はこうだ。

 大道寺が図書館地下一階の閲覧室にやってきたのは、理子が最初に『哲学大辞典』を返しに行っているときだった。戻ってきた理子は、大道寺が共同研究室から持ちこんだ『哲学大辞典』を無意識に使っていただけでなく、自分が返し忘れたのかと思って勝手に戻しに行ってしまった。辞書がないことに気づいた大道寺は、誰かが返してしまったのかと思い、ふたたび辞書を取りに戻った。

 大道寺が向かった参考図書コーナーの棚には、本来は同じ『哲学大辞典』が二冊あるはずが、一冊しかなかった。もう一冊は誰かが使っている最中なのかと思った大道寺は、仕方なくその一冊を持って地下に戻った。そのあいだ理子はというと、大道寺が持ちこんだ辞書を持ったまま、一階の休憩ルームでのんびりミルクティーを飲んでいた。飲み終えた理子は、空いている棚に共同研究室のほうの『哲学大辞典』を収めて、地下一階に戻ったのだった。


「……あの、すみません……先生がここの辞書を閲覧室に持ちこんでらっしゃったのを知らなくて、私、勝手に返しちゃったみたいで……だから『あなたでしたか』っておっしゃったんですね」


「えっ!?」


 今度は大道寺が驚いた声を上げる。形の良い眉毛がきゅっと持ち上がった。


「え、違うんですか?」


「ええ。図書館に置いてあるのに、わざわざ持って行きませんよ。重いですし。私が『あなたでしたか』と言ったのは……」


 そのとき、共同研究室のドアをノックする音が響いて、ガチャという音ともに女性が部屋に入ってきた。理子がさきほど図書館のカウンターで見た職員である。

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