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「僕ね、秋からお休みに入るんだ」
「……え?」
「それで東雲さんの指導教員をかわってもらおうと思ってね」
「……え!」
『哲学大辞典』のアンチノミーからまだ復活していない理子の理性を、柳井の言葉が容赦なく襲った。理子の指導教員を交代する、というのだ。
「先生そんな〜。私を見捨てるなんて」
「そういうわけじゃないんだけど。うちに入ったばかりなのに、本当に申し訳ない」
柳井は両手を顔のまえでぺしゃっと合わせて、頭を下げた。頭頂部はやや薄くなっているものの、穏やかで渋い雰囲気の柳井は学生にも同僚にも人気がある。入学してすぐに開かれた哲学専攻のオリエンテーションで、受け持ちの学生数などを考慮し、理子の指導教員に決まった。
柳井の専門は、カントを端緒とする「ドイツ観念論」と呼ばれる潮流である。フランス革命の動乱を背景に、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルといった綺羅星のごとき哲学者たちを輩出したドイツ哲学の花形だ。
「お休みって、サバティカルですか?」
「そうそう。急に秋から取れることになって」
「サバティカル」とは「研究休暇制度」のことだ。
大学教員の仕事は、講義や入試、会議といった校務からなる。
だが大学教員は同時に研究者でもある。多くの大学は「裁量労働制」を取っているから、教員は校務のない時間に自分の研究をおこなうことになる。
研究には時間の縛りがないかわりに、基本的に休みというものがない。土日祝日も関係なく仕事をしている「研究の虫」のようなひとさえいる。反対に校務が多すぎて、授業のある学期中はほとんど研究時間が取れない教員も少なくない。
そのため一年間なり半年間、校務が免除されて研究に専念できるサバティカルの制度があるのだ。
柳井はおよそ十年ぶり、二回目のサバティカルである。当初サバティカルに入る予定だった教員の事情が変わり、同じく取得を希望していた柳井が急遽、秋学期から取れることになったのだ。
「で、修論のテーマは決まったの?」
「……それが……カントで書いてみたいと思ったんですけど……」
「あ、そうなの? じゃあ、ますます悪いことしちゃったな……フランス現代思想だと踏みこんだ指導はできないけど、カントならね」
「…………」
「まあ、メールでも相談は受けつけるし。いずれにしても修論審査には入ると思うからさ」
修士課程では、基本的に二年間で修士論文を書き上げる。修士論文は、指導教員を含む複数の教員によって審査される。いま理子は一年生だから、順調に修士論文を提出できれば、再来年の二月に「口頭試問」を受けることになるだろう。
「それで、指導教員はどなたになるんでしょう……」
「ああ、それなんだけどね。新しい先生にお願いしようと思ってね」
「新しい先生なんて、いましたっけ……?」
柳井が口を開こうとしたちょうどそのとき、ドアをノックする音が二度響いた。「どうぞ」という柳井の声でゆっくりドアが開く。振り向いた理子は、思わず「あっ」と声を出してしまった。
そこには理子が図書館で不審者の疑いをかけた、銀縁メガネの白シャツ男が立っていたのだ。
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