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その日は夕方から哲学専攻の主催で、イギリスの著名な哲学者の講演会が予定されていた。大学院生には運営の手伝いのための招集がかかっており、二限に授業が入っていない学生は、助教の丸山と一緒にその準備をすることになっていた。
理子はいつもの習慣で、大学に行くまえに本を読むつもりで「クレール」を訪れた。マスターの小山内は理子が開店直後の時間に来店したことに少し驚いたものの、催しのための準備があるという説明ですぐに納得したようだった。客は理子一人だった。
ほどなくしてカランカランとドアが鳴り、客が入ってきた。
「いらっしゃい……ま……せ……」
普段と様子が違う小山内の挨拶が耳に入り、読んでいた本から顔を上げた理子は、驚きのあまり理性が口から飛び出しそうになった。
中折れ帽をかぶった上品な老年男性が、ラックから漫画雑誌を一冊手に取り、ゆっくりとカウンターに進んでいったのだ。
かつての常連・田中であることは間違いなかった。
「いつもの。『ピック・ドゥブル』」
「は、はい、かしこまりました」
さすがの小山内も少なからず緊張しているようだ。一方、混濁した理子の理性は、もはや理性の体をなしていなかった。
コーヒーが出されても、田中は黙って漫画雑誌『アーベント』のページをめくっている。理子と小山内の緊張感が張りつめた店内で、サイフォンのコポコポという音だけが時間を刻んでいた。
カウンターのなかの小山内と、テーブルの理子の目が合う。小山内は覚悟を決めたようだった。
「……あの、田中さん……お久しぶりですね」
田中が雑誌から目線を外し、小山内のほうを向く。
「……ああ、そうなるかな」
「最近、どうかなさったんですか。なにか変わったことでも?」
小山内が慎重に言葉を選んでいるのが理子にも伝わってきた。カウンターから離れたテーブルに座る理子の神経は、すべて右耳のあたりに集結している。
いぶかしむ様子で「んん」と声にならない音を鳴らしたあと、田中は意外なほど穏やかに言った。
「いや、特になにも。たまたまだよ」
奥のテーブルで、あやうく理子はコーヒーを噴きそうになった。
「……え、たまたま?」
「そう、悪いかな」
「い、いや、別に……ただ急にいらっしゃらなくなったものですから」
「変なマスターだねえ。なにか理由がなくちゃいけないのかい? 来ても来なくても、自由じゃないの」
それから田中は、小山内にこれまでのことをぽつぽつと話し始めた。
田中が「クレール」を訪れるようになったのは、定年退職後まもなくのことである。仕事を辞めた田中は毎日家にいることになったが、田中の妻は引き続きパートに出ていた。妻は、パートが休みである火曜日の午前中、田中に家を空けてくれるように頼んだ。これまでも家中の掃除を火曜日にまとめてしていたからだ。
「ずっと働きづめで、趣味という趣味もないしねえ。とりあえず家を出たのはいいんだけど、なにしていいのかわからなくてね。なんとなく入ったのよ。ここに」
それ以来、田中は火曜日の朝に「クレール」に来るのが習慣となった。手持ち無沙汰で、読み慣れない漫画雑誌を読み始めた。二時間程度を「クレール」で潰したあと、花好きの妻の機嫌をとるために、近くの花屋「フローラ」に立ち寄った。思いのほか妻が喜んでくれたので、毎週違う花を選ぶのが楽しみになった。これも習慣となった。
「……で、なんで来なくなったんだっけ。あ、そうそう、思い出した」
五月二○日の火曜日、田中が家を出て「クレール」に向かっていると、いつも通る狭い道がたまたま工事中で通行できなくなっていた。迂回した道沿いに別の喫茶店があり、なんとなくそこに入った。そこでも「クレール」にいるときと同じように『アーベント』を読んでいた。工事はすぐに終わったが、新しい店に新鮮味を覚え、しばらくはそこで火曜日の午前中を過ごしていた。
静かに話を聞いていた小山内が田中に尋ねる。
「じゃあ今日いらしたのは? また、なんとなく?」
「ああ、いやいや。こっちのほうがコーヒー美味しいから」
田中は小山内を見てニッコリと笑った。不意を突かれた小山内は、
「あ、ああ、ありがとうございます」
と言うのが精一杯だった。
理子が立ち上がって、カウンターのほうへ歩いた。
「あの、私、お花屋さんに行ってきます。心配してると思うので」
驚いて理子のほうを振り返った田中に、小山内がことの経緯を簡単に説明した。
「ああ、そうだったの。僕の気まぐれで、あなたにまで心配かけてたなんて知らなかったよ。すまなかったね」
「いえ、私たちが勝手に……」
「花屋にもあとで寄るから大丈夫だよ。やっぱり花買って帰らないと女房の機嫌が悪くてね。バラの花束でも買ってこうか」
田中はおどけたように舌を出して見せた。
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