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 二限の時間中、理子は助教の丸山を手伝って、講演会で配布する資料の印刷をしていた。英文のオリジナル原稿と、その日本語訳の計二部である。日本語訳は講演会のテーマと専門が近い博士課程の学生が翻訳したものだった。


「どう、東雲さん、うちにはもう慣れた?」


 作業のあいだ、丸山が気さくに声をかけてくる。「うち」とは理子が在籍する哲学専攻のことだ。

 助教の丸山聡はちょうど三○歳になったところだ。中肉中背で、太い黒縁の眼鏡をかけている。普段はラフな格好で共同研究室に在室しているが、今日は海外の哲学者の講演会があるということで、いわゆる「オフカジ」に分類される格好をしている。

 丸山は今学期は授業を一コマ担当しているが、どちらかと言えば授業よりも、哲学専攻の教員との連絡調整や学生の相談といった事務的な役割のほうが大きい。教員と比べて歳がそう離れていないこともあって、学生たちにとっては良い兄貴分のような存在だ。


「はい、もうけっこう慣れました」


「それならよかった。今年は東雲さんだけだもんね、外部進学者」


 今年の四月に城京大学大学院・人文学研究科の哲学専攻の修士課程に入ったのは、理子を含めて五人である。そのうち理子を除く四人は城京大学文学部からの「内部進学者」であり、英央大学から城京大学大学院にやってきた理子だけが「外部進学者」である。

 もちろん全員が同じ大学院入試に合格しているわけで、「内部」「外部」という言葉は便宜的なものにすぎないが、それでも若干の差別的な響きを持ってしまうのも事実である。実際、学部から知り合いどうしである内部進学者たちと自分を比較して、勝手に劣等感を抱えこんでしまい、次第に姿を見せなくなる外部進学者も少なくない。

 この外部進学者の心のサポートも、助教の重要な仕事である。


「どちらかと言うと、指導教員の先生が急にかわったのに驚きました」


「そうだよね。相当にイレギュラーなことだもんな。でも大丈夫だよ。大道寺さんは本当にすごいひとだから」


 丸山が大道寺「先生」ではなく大道寺「さん」と呼ぶのは、同じ三○代で歳が近いせいだろうか。あるいは以前から面識があるのかもしれなかった。


「そうなんですか?」


「そうだよ。もちろん柳井先生も良い先生だけど、大道寺さんに指導してもらえるなんて、かえってラッキーじゃないの。あ、いまのは柳井先生には言わないでね」


 ハハハと丸山が笑って、印刷が終わった配布物の束をすべて重ねて持ち上げた。

 四時半からの講演会は、ジョージ・エドワード・ムーアのメタ倫理学をめぐるものだった。大道寺が司会として講演者のとなりに座っている。講演はすべて英語でおこなわれ、理子は英語原稿を目で追いながら話を聴いていた。


(うーん、やっぱりもう少し英語もできたほうがいいよな……まあ、それよりドイツ語が問題だけど……)


 卒論でフランスの現代思想を扱った理子はフランス語にはある程度の自信があったが、カントを研究しているいま、とにもかくにもドイツ語のレベルアップが至上命題である。


(やっぱり毎日ドイツ語やらないと……「継続は力なり」って言うし……)


 心に浮かんだ「毎日」という単語が、自然と田中のことを思い出させた。

 田中はたまたま「クレール」を訪れたのがきっかけで、毎週火曜日に通い続けていた。

 マスターの小山内も、小山内から相談を受けた理子も、常連の田中が急に来なくなったことには「理由」があると考えた。逆から見れば、来ていた「理由」がなくなった、ということになる。

 本人に大した「理由」はなくても、事情を知らないほかの人間はそこに強い「理由」を探してしまう。小山内の場合のように、自分に直接関わることであればなおさらだ。


(私だってそうだよね……火曜と木曜の授業のまえにクレールに行ってるけど……)


 今日、講演会の準備のために朝「クレール」を訪れた理子に、小山内は驚いた顔を見せた。理子からすると、大学に行くまえに「クレール」で勉強するのは習慣になっていたから、少し時間が早いだけで「クレール」に立ち寄るのは特別な行動ではない。だが小山内のなかでは、「開店直後」と「理子が来る」というふたつの事柄が結びついていなかった。だから驚いた。

 田中の件も同じである。毎週火曜日に田中の接客をしていた小山内にとって、「火曜日」と「田中が来る」というふたつの事柄が必然的に結びついていた。今日は火曜日だから田中が来る。火曜日であることが田中が来ることの「理由」になっていたのだ。

 講演会は質疑応答に移っている。司会の大道寺がフロアに質問の有無を問うと、ぱらぱらと手が挙がった。理子の同期の学生がマイクを持って走っている。日本語での質問は大道寺が流暢な英語で講演者に伝え、講演者からの答えも大道寺がすらすらと日本語に直した。ときどき日本語の哲学用語を間違えて、前方の座席に陣取っていた丸山に突っこまれていたが、聴衆もほとんどが同業者であるにもかかわらず、誰もが息を飲むほどの英語力だった。


(……先生、すごい……)


 ふと、田中の件で大道寺に言われたことを思い出した。


(……そう言えば、先生……なにかに気づいてた様子だったけど……あのとき、どうして「カント」って言ったんだろう……?)


 その瞬間、理子の理性に、過去二三年間の六月における観測史上最大の電流が放電された。

 カントは規則正しい生活を送った哲学者として知られる。いや、規則正しすぎる生活と言ったほうがよい。起きて、コーヒーを飲み、本を書き、大学で講義し、昼食を食べて、散歩に出かけた。時間はきまって午後三時半。カントは菩提樹の並木道を、どの季節でもきっかり八回往復した。近所のひとたちは、散歩中のカント先生と出会うと、親しく挨拶し、懐中時計を三時半に合わせた。時計をカントに合わせたのである。

 ある日、いつもの時間になってもカントが散歩に出ていないことがあった。カント先生になにかあったのかと、みんなが心配した。なんということはなかった。カントはたまたま、ジャン=ジャック・ルソーの『エミール』を読みふけっていて、散歩に出るのを忘れたのである。


(カントって、そういう意味だったの? 先生はそこまで見越してて? うう、あやうく「独断論のまどろみ」で眠り続けるところだった……)

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