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大道寺の真意がわからないまま、理子はカントの伝記を読み進める。
と、今度は、食事にまつわるエピソードが次から次へと出てきた。
味気ないとも揶揄される文体で知られるカントだが、非常に社交的な人物で、頻繁に友人を自宅に招いて会食していた。一人で食事をすることは哲学する学者にとって不健康である、という言葉まで残している。
また、カントはチーズが大好物で、亡くなる数ヶ月前にも、削ったチェダーチーズ入りのサンドイッチを欲しがった。世話をしていたヴァジアンスキー牧師は、チーズが身体の害になると考え、与えるのを渋った。興奮したカントは、いままで見せたことのない敵意を彼に向けた。結局、ヴァジアンスキーが根負けして、カントはチーズを食べ、さらに追加のチーズまで用意しなければならなかった。
翌朝、妹に付き添われて家のなかを歩いていたカントは、昏倒して、床に倒れた。カントは数日寝こみ、回復後はヴァジアンスキーの言うことを聞いてチーズを我慢するようになった。
理子が本を閉じて、腕組みをする。夜の図書館は、すでにひとがまばらになっていた。
(……長く続いた漫画なら、チーズが出てくる話があってもよさそうだけど……もしかして大道寺先生も同じ漫画を読んでたとか? うーん、わからない……)
理子は読み終えたカントの伝記を書架に戻して、図書館を出た。帰宅してからも理子の理性の働きにさしたる進展は見られず、さらなる有力なアイディアも浮かばなかった。
(……こうなったら両方の漫画を読んでみるしかないか……でも明後日には間に合わないな……ひとまずマスターに相談してから考えよう……)
一日空いた木曜日、理子はいつものように午後一時に喫茶店「クレール」を訪れた。小山内に伝えるべき答えは用意できていなかった。お盆に水を載せてテーブルに近づいてきた小山内に理子は、
「すみません、どっちの漫画だったのか、結局わかりませんでした」
と言おうと身がまえていた。しかし、理子が「す」と言うよりもさきに、口を開いたのは小山内のほうだった。
「あ、理子ちゃん。例の田中さんのことなんだけど」
理子のテーブルに水を置いた小山内は、普段よりも少しうわずった声で言った。今日も理子のほかに客はおらず、会話を遠慮する必要はなさそうだ。
「このあいだ、裏の花屋の奥さんとしゃべったんだけどさ……田中さん、うちを出たあとにいつも寄ってたみたいなんだ、花屋に」
南郷通りに面した喫茶店「クレール」の横の脇道を奥に入っていくと、右手に花屋「フローラ」がある。こじんまりとした店内に、豪華な鉢植えから可憐な一輪花まで、文字どおり色とりどりの花が所狭しと並んでいる。
小山内は店に飾る鉢植えを定期的に「フローラ」に買いに行っている。梅雨どきの暗鬱な気持ちを励ましてくれる青い紫陽花も、小山内が「フローラ」で仕入れてきたものだ。
「近くにお花屋さんがあるんですね。知りませんでした。田中さん、いつもお花屋さんに寄ってたんですか」
「そうみたい。毎週火曜日の昼頃に来るお客さんだから、はっきり覚えてた。こっちが一年なんだから、向こうにも一年通ってたんだろうね。奥さんも心配してたよ。急に来なくなったから」
「そうですよね。なにか買ってたんでしょうか」
「一年間だから、もちろん色々みたい。おまかせのブーケのときもあれば、シクラメンとかベゴニアの鉢植えとか? 花は詳しくないから俺もよくわからないけど」
花のことはわからないと自嘲気味に言いながらも、一昨日の別れ際に話したときの小山内とは明らかに口調が違う。そのときの小山内は、田中が火曜日発売の漫画雑誌を読む「ため」に来店していた可能性にショックを受け、軽く落ちこんでいた。だが、田中が「クレール」でコーヒーを飲んだあとに必ず「フローラ」で花を買っていたとすれば、田中には漫画雑誌を読むのとは別の目的があったかもしれないのだ。
田中は最終的に花屋を訪れる「ため」に、途中で喫茶店に寄っていた。だとすれば、問題は花を買うのがなんの「ため」だったのか、ということだ。
「毎週、花を買う用事ってなんでしょうね」
「そうだな、普通に考えれば……」
理子と小山内の言葉が重なった。
「「お見舞い」」
南郷通り沿いには、理子の通う城京大学の附属病院がある。
「そうか、田中さん……毎週火曜日に城京大病院にお見舞いに来てたのか」
小山内は深いため息をついてから続けた。
「じゃあ、毎週誰かのお見舞いに来たついでに寄ってくれてたんだ……感謝しないとな」
「あ、でも」
しみじみとし始めた小山内に、思わず理子が語気を強めて言った。
「……もしそうだとして、田中さんが来なくなったってことは」
小山内にもすぐに、理子のかすかな動揺が伝わったようだった。
「……ああ……治って退院したんならいいんだけどな」
それから小山内は、ごめん遅くなって、と言って理子の注文を聞いてから、テーブルを離れていった。
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