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「ほんと、誰に似たんでしょうねえ」


「あの、つかぬことを伺いますが……」


 理子がいなくなった機を捉えて、大道寺が良子を正面から見据えて言う。


「東雲さんのお父様は……今日はどちらかにおでかけでしょうか」


「あ、いえ……実はあの子が小さいときに別れていまして」


「そうでしたか……ぶしつけなことをお尋ねして、申し訳ありません」


「いいんです。あの子が哲学が好きなのも、父親の影響でしょうから」


「えっ」


「実は主人も大学院で哲学を研究してたんですよ。博士課程にいたときに理子が生まれて……でも彼は本場で哲学を勉強する夢を諦めきれない様子だったので、私が自分で育てるからって、無理やり送り出したんです。きっといまもヨーロッパのどこかで哲学を教えてると思うんですが」


 大道寺がなにも言えずにいたところに、ティーポットに新しい茶葉とお湯を入れた理子が戻ってきた。さきほどとは打って変わった張りつめた空気に、理子が戸惑いを見せる。


「あれ、どうかしたんですか?」


「いまね、理子に見込みがあるかどうか、先生にお聞きしてたのよ」


「え、なにそれ……こわい……」


「ははは、大丈夫ですよ。将来性は十分にありますから」


「あ、そうだ、先生、色々と教えていただきたいことがあって……」


 それから理子は、面談のために準備していたメモを取り出して、大道寺を質問攻めにした。真剣ながら生き生きとしたその横顔を、良子は妙に懐かしそうな表情で眺めていた。



 夕方、大道寺を駅まで送った理子は、リビングの専用ベッドで眠るキタローに手を伸ばした。嫌われないように優しく、しなやかな背中に手をはわせる。「今日はありがとね」と呟きながら、首元から尻尾の付け根までを三往復ほどなでたころだろうか、理子の指にかすかな異物感が走った。


(ん? なんだろ?)


 理子は尻尾のあたりの毛を、両手でそっと分けてみた。そこには乾いたばかりと思われる小さなカサブタが隠れていた。


(ああ……だから帰ってこなかったのか……様子が変なのもきっとそのせいだ)


 名誉の負傷かどうかはわからないが、外でほかの猫と喧嘩をした傷跡なのだろう。喧嘩のあと、どこかに隠れて、傷が癒えるのをじっと待っていたのかもしれない。とりあえず生傷が乾き、さすがにお腹も空いて、ようやく家に帰ってきたとはいえ、本調子と言えるほどの元気が戻らないのは自然なことに違いない。


「もう、キタにゃん……ケンカしちゃダメっていつも言ってるじゃん。あんたは毛針も出せないんだから」


 卵を持ち上げるような形をした理子の手が、キタローの狭い額をぞわぞわとなでる。丸くなっているキタローは、目を閉じたまま前脚をぐぐぐっと伸ばして、舌で鼻先を一、二度ペロペロしたあと、また動かなくなった。



 同じころ。東雲家を辞して、帰途についた大道寺の心を占めていたのは、五年前、国際学会に参加するために訪れたミュンヘンでの出来事だった。現地のドイツ人研究者に、「面白い日本人哲学者がいる」と聞き、彼が講義しているというカルチャー・スクールに見学に行ったときのことだ。

 大道寺が他の参加者と一緒に席に着いて待っていると、ドアが開いて、男が入ってきた。

 ウェーブがかかった長い黒髪、口元に密集するひげ、初夏なのに冬物の黒い厚手のコートを脱ごうともせず仁王立ちする異様な姿に、まず圧倒された。年齢は五○歳前後で、活火山のようなエネルギーのほとばしりが全身から感じられる。

 しかし、いざ講義が始まると、ギリシア語やラテン語の引用も散りばめつつ、ネイティヴよりも早口なドイツ語で近代ドイツ哲学を講じるこの「シノノメ」なる人物に、大道寺は完全に魅了されてしまった。自分のものとはまったく異質な、哲学への「熱」が伝わってきたのだ。

 すべてを飲みこむ火砕流にも似た講義が終わると、シノノメはすぐに部屋を出ていった。慌てて追いかけた大道寺は、熱に浮かされたような気分のまま、思い切ってシノノメに声をかけた。


「あの……すみません!」


「……はい?」


 振り返ったシノノメは、上目遣いで大道寺を凝視した。


「私、大道寺と申します。今日のご講義、とても感動しました」


「……そうですか」


「私の専門はアリストテレスです。学会でこちらに来たんですが、先生のことを伺いまして……よろしければ、またお話を……」


 そう言いかけて、大道寺が一瞬ひるむ。シノノメのうつろな目に、講義の最中には見られなかった底知れぬ諦念と厭世感が漂っていたからだった。彼は大道寺から目をそらすと、静かに言った。


「私は、哲学に絶望しています」


「え……」


 答えを返せずにいる大道寺に、シノノメは「あなたにもいずれわかるでしょう」と付け加えると、軽い会釈を残して立ち去った。


(……幸い僕はまだ哲学に絶望してはいない……が、しかし……どういう意味だったのか……)


 大道寺の頭のなかで、理子の顔とシノノメの顔とが近づいたり離れたりを繰り返していた。郊外から一時間ほど電車に揺られ、乗り換えのためにターミナル駅で電車を降りるころには、ふたつの顔はほぼ重なり合って、最後にはひとつになっていた。



※以降は書籍をお買い上げのうえ、お楽しみくださいませ。

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【書籍版試し読み】ミネルヴァの梟は飛び立ちたい~東雲理子は哲学で謎を解き明かす~ 草野なつめ /「L-エンタメ小説」/プライム書籍編集部 @prime-edi

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