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一晩明けた日曜日の午後、理子が扇子台駅前の時計台で待っていると、三時ぴったりに大道寺がロータリーへとつながる階段を降りてきた。涼し気な理子の白いレースブラウス姿とは対照的に、大道寺は黒い細身のジャケットを羽織っている。軽い靴音を響かせて、大道寺が理子のもとへまっすぐ歩いてきた。
「こんにちは、東雲さん。お迎え、ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ、ご無理を言ってすみません。ありがとうございます」
二人は頭を下げて礼儀正しく挨拶を交わすと、徒歩で東雲家に向かった。
「娘がいつもお世話になっております。どうぞお上がりください。大したおかまいもできませんが」
玄関でうやうやしく出迎えた良子が、大道寺を応接間に促してから理子にこっそり耳打ちする。
「ちょっと……哲学の先生って言うから、てっきりおじさんかと思った。こんなに若い先生なのね」
まんざらでもない様子の母を見て、理子も得意気な気持ちになる。
応接間では理子と大道寺が向かい合って座り、そこに良子が淹れたての紅茶と大道寺の手土産のマドレーヌが載ったお盆を運んできた。
「先生、学会って哲学関係の学会ですか?」
「そうです。今回のは割と大きな学会で……と言いつつ、恥ずかしながら僕は日本の学会事情に疎くて。それもあって今回はじめて参加してみたんですが」
「春にイギリスから戻られたんでしたっけ」
「ええ。最近ようやく研究室が片づいてきたところです。だから日本の学会もほとんど入っていないんですよ。よかったら秋の大会には東雲さんも一緒に行ってみましょうか」
二人が話しているところを、廊下からやってきたキタローがのぞきこんで、そのまま堂々と応接間に入ってきた。不審がった鋭い目で、見定めるように大道寺をにらむ。
「猫、飼ってらっしゃるんですね」
「はい。キタローっていいます」
「さすが、東雲さんのお宅。猫まで哲学者の名前みたいですね」
「え、ええ、まあ……」
「日本人で『哲学研究者』の枠にとどまらない『哲学者』というのはほとんどいません。その意味で西田幾多郎はとても偉大ですね。それでいて西洋哲学にも造詣が深いですし」
(……ほんとは違う「キタロー」なんだけど……まあいっか……)
二人がキタローを見下ろしていると、突然キタローが、ぴょん、と大道寺の膝に飛び乗った。
「あ! こら、だめ!」
理子と良子が慌てて立ち上がる。
「ふふふ、別にいいですよ。猫、大好きですから」
大道寺は動じる様子もなくにっこり笑うと、太ももを両足でフミフミしているキタローの首のうしろを静かになでる。キタローは少しふらつきながらも、右の前足、左の前足と順番に膝を折り、器用に香箱を組んで目を閉じた。
「猫というのは不思議な生き物です。わがままなのに、一緒にいると気持ちが落ち着きませんか」
「わかります……ほんと、そうですよね」
「マルセル・モースという民族学者の有名な言葉にこういうのがあります。『人間は犬を飼いならした。だが、人間を飼いならしたのは猫である』。猫を飼っていると、どっちが飼い主なのかわからなくなるときがあります」
「先生も飼ってらっしゃるんですか?」
「いえ、いまは飼っていませんが……日本に帰ってきたので、また飼いたいですね」
優しい表情でキタローを見つめる大道寺に、良子がぽつりと言う。
「でも先生、珍しいんですよ。この子が男性に懐くなんて……」
「えっ」
理子がかすかな声を上げる。胸がドキンと打った。
「雄猫なのに……」
(……あ、キタローのことか……びっくりさせないでよ、もう……なに言い出すのかと思った……)
「そういうものですか。キタロー先生に認めていただけたなら光栄です」
「お母さん」
理子が語気を強めて言う。
「なに、理子」
「やっぱりさ、別の猫と入れ替わってるんじゃない? 性格が違うんだから」
「やめなさいよ、先生いらっしゃるのに」
理子が大道寺に事情を説明した。
「なるほど……実は見知らぬ猫だというのは、奇抜ですが面白いアイディアですね」
興味を惹かれた大道寺の身体が自然とまえに傾いた。「ベッド」が急に動いたのが気になったのか、キタローがむくっと起き上がり、床に飛び降りる。
「そもそもさあ、お母さん。帰ってきたキタローがなんで同じキタローだと思ったの」
「なに言ってるのよ」
「同じとか違うって、どういうことなんだろう?」
「どうしちゃったのよ」
「考えてみてよ、お母さん」
眉間に皺を寄せた良子が、淡い水色の模様の入ったウェッジウッドのカップで紅茶を口に含んだ。
「あそこにキタローがいますね」
「いるよ」
大道寺の太ももを去ったキタローは、窓際に移動し、左の前足をペロペロと舐めてから、ごしごしと念入りに顔をぬぐっている。
「ああやって顔を洗っていると、毛が抜けるじゃない」
「ああやらなくても刻一刻と抜けるけどね。掃除が大変よ。ほら、あんたも。取ったほうがいいんじゃない?」
いつのまにか、理子の着ているブラウスにも、ところどころキタローの細い毛がくっついている。
「いまキタローにh1、h2、h3からh1000までの一〇〇〇本の毛が生えているとします。あ、hはhairのhね」
「は?」
良子がぽかんと口を開けた。理子がかまわず続ける。
「いま、h1だけが抜けたキタローをk1と定義し、h2だけが抜けたキタローをk2と順に定義していって、h1000だけが抜けたk1000までのキタローを定義します。いい?」
「?」
「それらとは別に、h1からh1000までの毛がすべてそろっているキタローがいるから、合計一〇〇一匹のキタローがいることになる」
「だからどうしたのよ」
「この一〇〇一匹のキタローはすべて違う猫です」
「なんで? 全部キタローじゃない。同じ猫よ」
「全然違うでしょ。k1にはh1がないのに、k2にはちゃんと生えてるのよ。違うじゃん」
えらそうに胸を張る理子のとなりで、はあぁ、と良子が大きなため息をついた。
「……理子の理はいつから理屈の理になったのよ。しかも屁がつく」
「屁理屈じゃないよ。理性を用いて厳密に考えてるだけ」
「先生……哲学ってこういうものなんでしょうか?」
助けを求めるような良子の視線に、大道寺が笑って答える。
「そうですね。『論理的に考えられる可能性はすべて考える』というのは哲学の大事な作業です……まあ、ただの理屈屋だと思われることもありますが」
「はあ……私は聞いてるだけでも頭が痛くなってきます……歳でしょうか……」
良子が大げさに首をまえに倒してうなだれた。その足下を、十分に顔を洗い終えたとおぼしきキタローが黄色い目をキラキラさせながら通り過ぎ、理子から見下ろせる位置まで来ると、ぴょんと勢いよく、今度は理子の横の空いている椅子に飛び乗った。
「あなたはkいくつのキタローさん?」
理子の太ももに手をかけたknのキタローが、にゃあと大きく鳴いた。
「……ん? ちょっと待って」
屁理屈娘の攻撃から復活した良子が反論する。
「いまk1のキタローからはh1の毛だけが抜けてて、k2からはh2だけが抜けてるのよね」
「お、お母さんノッてきたじゃん」
「茶化さないでよ。じゃあ、h1とh2が両方抜けたキタローはどうなるの」
「どうなるんだろうね〜、ねえ、knのキタにゃん」
理子は甘ったるい声を出しながら、太もものうえで丸くなったキタローをなでている。キタローはわずかに薄目を開けただけで、また眠ってしまった。理子が手を動かすたびに、細い毛がふわっとキタローのなめらかな身体から飛び立っていく。
「やめなさいよ、先生のほうに毛が飛んでくでしょ」
「ああ、すみません」
理子がキタローをなでる手を止めた。二人のやりとりを楽しそうに聞いていた大道寺が、理子のかわりに言葉を継ぐ。
「h1からh1000までの一〇〇〇本だけを考えた場合、それぞれの毛に対して〈ある〉〈ない〉の二通りがありますから、全部掛け合わせて、2の一〇〇〇乗匹のキタロー先生がいることになります」
「2の一〇〇〇乗っていくつでしょう」
「おそらく、そんな大きな数を表す言葉は日本語にはないと思います」
日本語で最も大きい数の単位は無量大数であり、10の六八乗あるいは八八乗である。
「あ、でも、対数を使えば何ケタかはわかりますよね」
理子がスマートフォンで常用対数表を探した。
「えっと、2の常用対数が0・3010だから……10の三〇一乗。てことは三〇二ケタか。大きすぎてイメージわかないね。そんなにたくさん、うちに入りきらないよ」
「また頭が痛くなってきたわ……でも」
「うん」
「そもそも毛を区別するからいけないんじゃないの。抜けていく順に一〇〇〇本を数えていけば、一〇〇〇通りですむでしょ」
三〇二ケタのキタローの襲来から逃れる良いアイディアだと思った良子だが、良子がこの推論に至るのがまさに理子の思うつぼだった。
「ふーん……じゃあお母さんはキタローが一〇〇〇匹いるのは認めるんだ」
理子が不敵な笑みを浮かべて良子の顔を見る。
「あー、やだやだ。やめましょうよ、こんな馬鹿馬鹿しい話」
「キタローはどうするの? なんか様子が違ったんでしょ。一〇〇〇匹いたら、そりゃ色々違うもん。あ、毛が抜け始めるまえのキタローも入れて一〇〇一匹か」
「もうあんたの屁理屈に付き合うのはやめた。違いがわからなければ同じってことでいいわ」
「「えっ」」
理子と大道寺が同時に声を出し、顔を見合わせた。
「お母さん、自力でそのことに気づいたの? すごいね……もしかして一〇〇〇年に一人の天才?」
「とても筋がいいですね。いかがでしょう、お母様もうちの大学院にいらしたら。歓迎します」
「ちょっと理子……先生まで、なにおっしゃるんですか……」
思いがけず大道寺にまで褒められ、良子が照れくさそうに苦笑する。理子が紅茶のおかわりを淹れるために席を立って、キッチンに向かった。
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