春が近い
鎖と手枷を付けたまま、アイシャは駆けた。そのまま引きずっていれば地に蛇が這ったような跡を残してしまうから、鎖を短く両腕に巻き付けながら走った。しかし、全身を這う痛みはどうにもならないため、耐えるしかない。
野営地を出たときには、既に空は青になっている。その姿を見られぬよう、兵らの視線をかいくぐり、慎重に原野へ出た。騒ぎを大きくすればするほど、自らの姿を認められてしまう危険が大きくなる。兵どもは、アイシャ自身を追っているのだ。だから、出来るだけ静かに行動した。
途中接触した兵といえば、物陰からアイシャが身を乗り出した瞬間に行き合った一人くらいであろう。
その者はアイシャの姿を認めるや否や声を上げようとしたが、落ちていた石でもって何度も殴打され、頭を砕いて死んだ。
ライルーと共に馬を停めたところまで来れば、もう追跡の心配はない。アイシャは、全身を苛む痛みと疲労が自らの体を地に吸いつけようとするのに対抗し、馬に飛び乗った。
ラハン王都は、陥落したのだろうか。
この短期間で、シャブスに続き、ラハンまでバルサラディードの龍の攻撃を受けて陥ちたとすれば、地図上の勢力図が大きく塗り替えられたことになる。
ヴァーラーン帝国の放つ龍が、かつてそれをした。
ただ、ヴァーラーン帝国は積極的膨張主義を取っているから、バルサラディードのように敵の王都を直接攻撃したり国土を焼き尽くそうとはせず、軍事や経済における重要な拠点を攻撃し、国を弱らせ、吸収するということを続けてきた。その結果、百年ほど前まではいち小国に過ぎなかったヴァーラーンは、こんにちではこの地域で最大の領土、勢力、軍事力を持つに至っている。
それに対抗するためには、たとえばまだ生き残っている各国が連合し、ヴァーラーンの動きを封じるようなことが必要になる。ラハンを叩こうとすればバルサラディードが黙っておらず、バルサラディードに手を伸ばせばシャブスが噛み付く。そういうような抑止の構図を構築する以外、ヴァーラーンの侵食は止められぬというのがもっぱらの見方である。
バルサラディードが龍を得たのであれば、それを杭として打ち込み、周辺諸国を糾合し、反ヴァーラーンの旗頭にならなければならない。
だが、その宰相シュナーが行ったのは、周辺諸国に対する攻撃。いかにバルサラディードが龍を手に入れたと言っても、それだけでヴァーラーンに対抗するには小さすぎるのだ。
実際、龍を手にしてからラハン王都に向けて複数回それを放ってはいるが、精強な空軍によってことごとく墜とされている。今回呼んだ龍も、もしかするとその効果を発揮する前に墜とされてしまったかもしれない。
全く、狙いが分からない。
意味のない戦いを行い、意味のない結果に終わる。そのことに、何の意味があるというのか。
アイシャは、馬に揺られながら、眼を閉じてしまうのを必死にこらえ、思う。
そもそも、戦いというもの自体、意味があるのか、と。
ずっと、そこで育った。気付けば、ゼムリャの身の回りの世話をしていた。初潮を迎える頃、それに抱かれた。そういうものなのだと思うことにした。
そして気付けば、銃を握っていた。
「お前には、才能がある」
そう、ゼムリャは言った。
はじめ、拳銃であった。それがガルサング銃になり、やがて鐡翼となるのに時間はかからなかった。
空は、アイシャを束縛から解き放った。そこは、ときに天が足元に、ときに地が頭上にあるような世界で、上も下も生も死もなかった。
その規範も定義もない世界で、ただ追い、墜とす。それだけの存在になることが出来た。
そうするうち、アイシャの戦績を称える者が現れた。はじめ、若い娘が空で戦うということについて、良い顔をしない者もあった。しかしゼムリャがそれをさせ、こいつは俺の後を継ぐ、と言うものだから、誰もが従った。
何人もの仲間が出来た。ユーリとも出会い、リーランとも出会った。誰もが、国境無き翼に加わる理由を持ち、居場所を見つけていた。ユーリはかつてラハンの少年兵であったが、所属する部隊が壊滅し、一人生き残った身で参じてきた。自分だけ、生き残ってしまった。そう彼はまだ子供の匂いを残す声で言った。さすがに少年兵として実戦の経験が豊富であるだけに、優秀だった。しかしその人間性は破綻することなく、よくものを見、考えることが出来たし、痛みも情も知っていた。ときに冷酷な判断を下さねばならないとき、彼はいつも辛そうだった。アイシャが始めて彼を求めたとき、戸惑っていた。だが、アイシャのするままに任せるうち、彼もまた生物としての習性のままの行動を取るようになった。そして、そのことが終わったあと、いつもばつが悪そうに言うのだ。
「どうして、こんなことをするの」
と。
散々に腰を振っておきながら、よく言う。とアイシャはいつも心の中で苦笑していた。
リーランは、孤児であった。戦火により帰るべき家も迎えてくれる者も無くし、野垂れ死にかけていたところを、拾われた。既に少し触れたが、彼女は機械に興味を示した。
単に、子供ながらの好奇心によるものであったのかもしれないが、もしかしたら、自分から全てを奪ったそれらの道具が、一体どのような構造になっていて、どのようにしてそれたのか、知りたかったのかもしれない。そうすることで、彼女は自分が全てを失ったという事実を理解し、噛み砕き、飲み下すことが出来ると考えているのかもしれない。
アイシャの居場所も、そこであった。しかし、少し違った。やはり、空だった。
そこには、龍。それを見れば、アイシャはまず追った。そして、墜とした。
龍を透して、空の向こう側に、何かが見えるような気がした。
龍は、アイシャを、人を、苛むものであった。その恐ろしく、禍々しい存在を感じることで、アイシャは生を知ることが出来た。
アイシャは、戦いそのものであった。戦いこそ全て、という大層な思想はない。アイシャは、戦い以外のものを知らぬのだ。
それならば、自分の存在に、意味はあるのか、と思った。その答えはない。ただ全身をべとべととした、あるいは火で焼かれるような苦痛が蠢くのみである。
これを喰い、龍は飛ぶ。
一体、何のために。
ラハン王都の方を振り返った。
ただ薄く青い空に、頼りない雲が浮かんでいるだけであった。
春が、近いのだ。
そう思った。
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