第三章 空

確かめる

 アイシャは、文字通り三日三晩眠り続けた。バルサラディードの野営地への潜入任務によって受けた傷は、かなりのものであったのだ。その身体で彼女は野営地を抜け、馬のところまで駆け抜け、気を失わぬよう精神力を保ち、ここまで戻ってきたのだ。

 おおよそ、常人のわざではない。


 ユーリは作戦失敗の事後処理や、他にもたらされる依頼の処理に忙しいから、整備士であるリーランが付きっきりでアイシャの看病をしてやっている。

「龍を、墜とさねば」

 アイシャは、ときおり、そう呟くという。

「今は、無理です」

 リーランは、そのたび、アイシャが伸ばそうとする腕をそっと捉え、寝具の中に収めてやる。


「アイシャの様子は、どうだ」

「相変わらずです」

 毎日、リーランはユーリのもとへ行き、アイシャの容体を伝えてやる。国境無き翼の中でアイシャを慕わぬ者はないが、やはり一番心配しているのはユーリであることを彼女は知っているのだ。

「あんなひどい傷を受けて。それでも、まだアイシャさんは戦おうとしている」

 リーランが、ほとんど泣きそうになりながら、言った。

「アイシャらしいな」

 ユーリも、困ったように眉を下げた。

「ユーリさん」

 リーランは、腰に提げた袋の中に手を入れ、中のものに触れた。そこには整備のための道具が入っていて、それを触るのが癖らしい。

「そこまでして、戦わなければならないんですか」

 彼女には、戦いのことは分からない。ただ機械に魅せられ、それに触れているのだ。だから、彼女は、アイシャが何に支配されているのか分からないらしい。

「どうだろうな」

 ユーリは、曖昧に頷き、視線を少し逸らした。

「俺たちは、この戦いを終えることが出来るのは、アイシャしかいないと思っている」

「皆で力を合わせれば──」

「リーラン」

 ユーリは、この移民の子の黒い瞳を、再び見つめた。

「アイシャが、どう考えているか、だと思う。違うか?」

 リーランは、戦いのことは分からなくとも、ユーリの言う意味は分かるらしい。

「だって」

 と、ついに涙をこぼした。

「可哀想じゃないですか」

 彼女は言う。

「アイシャさんが、可哀想じゃないですか」

 ユーリは、その震える肩にそっと手を添えてやり、優しく言った。

「それは、俺たちが決めることじゃない」


 リーランは、アイシャの眠る幔幕に戻る前に、なんとなく、アイシャの鐡翼の様子を見に行こうと思った。

 アイシャは無口で、口を開いたと思えばぶっきらぼうで棘があり、何を考えているのか分からない。しかし、リーランが整備しているこの鐡翼を気にいって、大切にしているのだ。

 それが、リーランには嬉しかった。

 その鐡翼を見ることで、少しでも自分の気持ちが落ち着くことを期待したのかもしれぬ。


 夜の中に無造作に置かれた月を鈍く溶かしながら、それは横たわっていた。

 触れると、冷たい。

 しかし、しばらくそうしているうちに、だんだんと暖かくなってくるのだ。

 それが、自分の体温のためであることくらい、分かる。だが、リーランは、そうするのが好きだった。いのちを持たぬ鉄に人が触れ、それを温めるという行為に何ほどの意味もないが、何かを象徴しているような、意味を探すことが出来そうな、そんな気がするのだ。


 操縦席の分厚い硝子を開ける。龍晶を混ぜて精錬された硝子であるから、普通の硝子よりも遥かに強度がある。

 操縦桿の動作は、問題ない。圧力弁も、調整したばかりである。

 しかし、照準器の高さが、アイシャの座高に合っているのかどうか気になった。

 その高さを調整するため、アイシャがいつも座るようにして操縦席に腰掛け、アイシャのように操縦桿を握ってみる。

 そこに龍は見えない。標的とする国の空軍の鐡翼も見えない。

 だが、それを僅かに眼を細めながら見るアイシャを見ることが出来た。

 ほんの少し、照準器の位置を調整した。

 操縦席を降り、動力機エンジンの蓋を開き、上半身を突っ込み、ガスの龕灯を脇に置いてその暗がりを照らし、隅々まで異常がないか確認する。


「また、勝手にいじくり回しているのね」

 不意に、声がかかった。リーランは驚いてガスの明かりから月の明かりの下へと飛び出した。

「──アイシャさん」

 ぼろぼろと涙をこぼしながら、リーランがアイシャに抱き付いた。

ね、本当に」

 アイシャはそれを無造作に引き剥がし、少しだけ笑った。

「ごめんなさい。だって、このまま死んじゃうんじゃないかと思って」

「馬鹿ね」

「ごめんなさい」

 そのまま、泣き崩れた。

「勝手に人の鐡翼をいじくりまわす。怪我人にいきなり飛び付く。泣きわめく。本当に、面倒な整備士ね」

 リーランは、そう言われて泣きながら笑った。アイシャのこういう物言いはいつものことで、彼女は、こういうアイシャが大好きなのだ。

「もう、起き上がって大丈夫なんですか」

 今さら問うことでもないが、立ち上がってアイシャを気遣うように背に手を差し伸べながら言った。

「大丈夫なわけないじゃない。あちこちが、馬鹿みたいに痛むわ」

 それでも、アイシャは起き上がり、自分の鐡翼を見に来た。

「ユーリさんに、知らせてあげないと」

「別に、いい」

「どうして。とても、心配していましたよ」

「誰かの心配をしている暇なんて、わたし達には無いはずよ」

 アイシャは、乾いた土の上を歩き出した。

「どこを、直してくれていたの」

 その背が、小さく問うた。

「照準器を。それと、動力機に異常がないか

 確認していました」

「そう」

「ごめんなさい、勝手に」

「いつも、助かっているわ。ありがとう」

 リーランは、また泣き崩れた。それに、また面倒くさそうな笑いを投げ、アイシャは夜の中に消えた。



 目覚めたアイシャがまず行ったのは、鐡翼を見ること。その次に、武器庫を守る兵に姿を見せてそれを驚かせ、ガルサング銃や拳銃を持ち出した。それを自分の幔幕へ持ち込み、分解し、また組み立てた。痛みをこらえながら分厚い戦闘服──と言ってもこれが彼女にとっての平服のようなものであった──を身に付け、幔幕の外へ出る。

 そこで初めて、ユーリの眠る幔幕へと足を向けた。


 まだ朝は遠いが、夜はもう過ぎ去ろうとしている。

 その名前のない時間に寝息を立てるユーリの傍らに、アイシャは座った。

 その動作をするのに、戦闘服や武器は必要ない。

 だが、もしかすると、ユーリが目覚めたとき、出来るだけ彼のよく知る自分を見せてやりたい、と思ったのかもしれない。

 もし、彼女にも可愛げというものがあるならば、だ。


 規則的に、とても規則的に、ユーリは寝息を立てている。その整った寝顔を見ても、べつにアイシャは何とも思わない。

 ただ無表情にそれを眺め、傍らに座しているのみである。

 ライルーが取り込まれた龍が、どうなったのか。ラハンは。シャブスは。バルサラディードは。その宰相シュナーは。ヴァーラーンは。それらが互いに削り合う、戦いは。

 今すぐにこの優秀な副官を叩き起こし、確かめたいことがある。

 だが、その前に、アイシャは、自らがまだ生きているということを、この男の寝顔を眺めることで確かめようとしたのかもしれぬ。

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