手
アイシャが戻らぬということで、本営では大変な騒ぎになっていた。どうも、ラハン王都に向け、新たに攻撃が始まったものらしいという情報も合わせて入った。
「アイシャ——」
ユーリは、空ばかりを見て、呟いている。
「大丈夫ですって、ユーリさん」
リーランが、ユーリの背に手を当てた。
「アイシャさんは、きっと戻ってきます。ラハン王都の戦いのことについて、情報収集をしてから戻るつもりなんですよ、きっと」
それは、あり得ない。ユーリは、知っている。アイシャが、作戦予定にない行動を取ることなど、決してないということを。
だから、何かがあったのだ。
ユーリから見たアイシャというのは、不思議な女であった。はじめて会った頃は、ユーリよりも少し年下の彼女は、まだほんの少女であった。しかし、長じるにつれ、年の差というのは気にしなくなっている。今は、彼女がこの国境無き翼を率いているのだ。
どの戦地にも趣き、確実に作戦を遂行する彼女は、彼女自身がそう呼ばれるのをひどく嫌っている——以前、彼女をそう呼んでしまった者が、次の瞬間に前歯を折られたことをユーリは記憶している——が、英雄視されていた。どのようの困難な作戦にも、彼女はいつも淡々と取り組んだ。そして、最大限の結果を残してきた。その彼女に限って、作戦を失敗し、戻らぬというのはあり得ぬことなのだ。
銃を構えれば狙いは精密で、体術ももちろん出来る。その戦闘服の下の柔らかな身体のどこにそんな力が秘められているのかと思うほど長い距離を駆けることが出来、鐵翼の操縦、射撃の腕も創始者であるゼムリャと同じか、下手をすれば上回っているかもしれない。彼女は、優れた戦士であった。
だが、ユーリは、他の構成員よりも、アイシャのことをやや知っている。その内側の危うさも。
アイシャは、不意に、ユーリの幔幕を訪ねてくる。決まって、深夜だ。無言で着衣を解き、裸体を晒し、ユーリを床に押し倒してくる。その行為のとき、アイシャが嬌声を上げることはない。任務に取り組んでいるときと同じように、ただ淡々とその作業を終え、帰ってゆくのだ。だが、たまに、アイシャが言葉を発することがある。
「どうして、こんなことをするの」
ユーリが、その背に問うとき、アイシャは、答える。
「自分がまだ生きていると、思っていたいからよ」
そういうとき、アイシャはいつもそのまま立ち去ってしまうから、ユーリからはその表情は見えない。だが、ユーリは、アイシャが涙を流しているのだと思っている。実際に涙を流すことはないだろう。しかし、ユーリは、感じるのだ。彼女の背を通して、根拠のない寂寞を。
だから、いつも、ユーリは、彼女が立ち去ったあと、彼女に知られぬよう、代わりに泣いてやるのだ。
彼もまた、気付けば戦場にいた。長く続く戦乱の世であるから、少年兵など、珍しくもなんともない。ただ命じられるままに戦い、ただ命じられるままに殺した。それが、ユーリの日常であった。
しかし、所属している部隊が壊滅したとき、ユーリはふと世界を見た。
世界の中に、自分がぽつりと浮かんでいるということを知った。
帰る家もなく、迎えてくれる人もない。自分の名を知る者すら、世界の中にはいない。
噂を聞き付け、国境無き翼に加わった。
そこには、自分の働きを認めてくれる仲間があり、戦う目的があった。
大人に殴られたり、殺されたりせぬよう、敵に銃を向け、引き金を引くような戦いは、そこにはなかった。この戦乱の終息という大義があり、志があった。ユーリは、夢中で銃を取り、鐵翼の操縦方法も覚えた。兵としての力を磨き、伸ばすほど、国境無き翼は彼にとっての家になった。
アイシャ。
まだほんの少女であったとき、首領ゼムリャの身の回りの世話をしていた。身の周りの世話というのがどこまでのことを指すのか、彼も戦場に生まれた身であるから、よく知っていた。べつに、可哀想だとも思わなかった。一度、ゼムリャに激しい叱責を受けたアイシャが、頬を腫らし、泣きべそをかいていたことがある。
「どうしたの、アイシャ」
「お前には、関係ない」
アイシャは、昔からそんな調子だった。
「銃の訓練が、辛い?」
アイシャは、答えない。
「自分が引き金を引くことで、誰かの命が終わる。そんな風に、感じるのかい?」
アイシャの震える肩が、止まった。ユーリはどうした?という顔を穏やかに作り、向けてやった。
「そんなこと、考えたこと、なかった」
きょとんとした顔をしている。それがなんだかおかしくて、愛らしくて、ユーリは笑った。
「それでも、引き金は、引かれるために、ある」
アイシャの隣に、腰かけた。
「俺たちと、一緒だな」
戦うために、存在する。ユーリは、自分達のことをそう表現した。
「お前と、一緒にするな」
アイシャは、泣き止んでいる。
「なあ、教えてくれないか」
アイシャの黒い瞳が、ユーリの方を向いた。
「どうして、泣いているんだ」
「ゼムリャが、わたしに噛み付いた」
「噛み付いた?」
そういう行為の最中に、物理的に噛み付き、どこかに傷を受けたということなのか、もっと別のことを言っているのかは、分からなかった。
そうか、とだけ言い、空を見た。
そこには、星があった。
「なあ、知ってるか、アイシャ」
アイシャも、同じようにそれを見上げた。
「あの、星が並んでるところ。あれは、かつて、龍が飛び、空に散らせた鱗が、そのまま夜に張り付いてしまっているんだそうだ」
点々と規則的に並んでいる星を指さし、ユーリは言った。
「その龍は、悪い龍ではなかったらしい。だけど、人が、龍を恐れた。何も悪いことをしていないのに、龍は人に追われ、逃げ、そして矢か何かを受け、鱗を散らした。そのことを可哀想に思った神様が、その鱗を星にして、そのままあそこに残し、その龍が死んでしまったのと同じ頃、人に見せているんだ」
アイシャは、興味があるのかないのか分からぬような顔で、それをじっと見ている。
「殺された龍のお母さんは、怒った。お父さんも、怒った。友達も、怒った。彼らは、人を恨むようになった。だから、龍は、人を傷付けるんだってさ」
夜よりも黒いアイシャの瞳が、
「人は、恨むことが出来る。そして、赦すことも出来る。痛みを受け、それをどうするかは、その人次第なんだ」
「あなた」
アイシャが、頬に手を添えられたまま、ユーリの方を向いた。
「どこで、そんな話を覚えたの」
「さあ――」
ユーリは苦笑し、頬にあてがった手をそっと放した。
「戦場でずっと生きてきた。そういう話を仲間とする以外、救いがなかった」
しばらく、星を見ていた。
ふと、アイシャが言葉を発した。
「ねえ、あなた」
ユーリが、アイシャを見た。
「あなたは、優しい人ね」
急に恥ずかしくなって、ユーリはちょっとアイシャから身体を遠ざけた。その手を取り、アイシャは自らの頬に持っていき、先ほどと同じようにしてあてがった。
「――アイシャ」
ユーリの目が、柔らかな光を帯びた。それとは正反対の冷たい光が、走った。アイシャが刃物を握っていて、それをユーリの喉元にあてがっていたのだ。
「あなたは、優しい人。だから、きっと、こんな風にして死ぬわ」
そう言って、アイシャは自分の幔幕に戻っていった。
そのあとをユーリが追い、幔幕の前で呼びかけると、いきなり幕の中から腕が伸びてきて、ユーリを引き込んだ。
それが、最初であった。
同じ星が、なんとなく本営の中を歩くユーリの頭上にあった。
アイシャの鐵翼が、停まっていた。アイシャが帰ってきたのかと思い、駆け出しそうになったが、アイシャはそもそも鐵翼に乗らずに馬で出かけたのだと思い、足を止めた。
便宜上、保有する鐵翼には番号を振っている。
アイシャのものには、番号は無い。代わりに、ユーリとアイシャの間でだけ、それに名前を付けていた。
決して、誰にも呼ばれることのない名。
それを駆り、アイシャは、龍の鱗を散らせ、夜に星を生むのだろうか。
この戦いが終わる頃には、夜は星で埋め尽くされてしまっているかもしれない、と思い、自分でも馬鹿なことを考えていると苦笑を漏らした。
その鐵翼の向こうの闇に、影が滲んだ。
ユーリは、とっさに腰の拳銃を抜いた。身体が、そういう風になっているのだ。安全装置を解除し、薬室に弾を装填し、構えた。
その銃口が、影から外れた。
「――アイシャ?」
馬。
その首にうつ伏せになるようにして、跨っている。
「アイシャ!」
駆け寄った。馬から降ろすとき、痛みが走ったのか、薄く開けた眼が苦痛に歪んだ。
「しくじった。済まん」
「そんなことは、いい。手当てを」
「龍が」
アイシャが、手を伸ばした。
「追わなければ」
伸ばした手が、ユーリの手を掴んだ。そのままそっと持ち上げ、自らの頬にあてがった。
「龍を、追わなければ。ユーリ」
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