ハディートという男
バルサラディードが、また龍を呼び、今度はヴァーラーン帝国に向けて放った。
いよいよ、この百年に渡る戦いに終止符を打とうとしているのだろう。
応じるヴァーラーンも、鐡翼や龍を用い、バルサラディードの侵攻を食い止めようとしている。
古の頃、人は同じことをした。そのときはまだ文明は薄弱であったが、各地の人は同じように龍を呼ぶことが出来た。
龍と龍が空を往き交い、地を紅に染めた。そして、そのときの人口の三分の二が死んだという。
残ったのは、焦土と、全てを失って呆然とするしかない人々。
それゆえ、龍は失われた技術として、長く封じられてきたのだ。
だが、時間の経過とは、人に自らが受けた傷を忘れさせる。
いや、人は学習する。ゆえに、自らが傷を受けたことを完全に忘れ去ることはない。だが、人の心が生み出す欲は、痛むはずの傷を覆い隠し、過去と現在とを分離して捉えさせる。そして、未だ来たらぬ時についての思考を鈍らせる。
バルサラディードとヴァーラーンの戦いは、始まった。生き残っている小国どもは、どちらかに参加し、生存を賭けなければならない。
戦いを終わらせるための戦いが、始まったのだ。そしてそれがいつ終わるのか、知る者はない。
シュナーの目的は、この地上から、あらゆる武力を消滅させること。そのために武力を用いている。まずバルサラディードを縛り付けていたシャブスを消し、力を付けていたラハンを滅ぼし、その構成員の力によって圧倒的な武力を誇っていた国境無き翼を壊滅させた。
龍があれば、国力も兵力も要らぬ。
特別に精製した龍晶を用い、人を贄としさえすれば、簡単に強大な武力を得られる。
その代償が重いと感じるか手軽と感じるかは、国家の置かれる状況による。
もし、人命の尊さと重みを、大義や志と天秤にかけることが出来るような世界であれば、人を贄として得る力というものの恐ろしさを問う向きが生じたであろう。
しかし、バルサラディードにそれを測る意思はない。
大義のためなら、何人の人間を贄としても構わぬ。少なくともシュナーは、そう考えているものらしい。
また、人は滅びの道をゆく。
そして、ほんとうの滅びを得て、再び気付くのかもしれぬ。
過ちと、ほんとうに守らねばならなかったものが何であったのかを。
そうなるかどうかは、この戦いが終わってみないと分からない。そういう段階に、人は至っている。
「カアラムは、間もなく陥落します」
「そうか。お前の作戦立案の能力は本物だな、ハディート」
シュナーと、幔幕の中でいつも密談をしている男である。ハディートと名乗っている。この憂いのある新参者を、シュナーは重用していた。
カアラムというのはヴァーラーン側に付いた小国で、その僅かな領地とそこにある武力を焼き尽くしたという報告である。小国であるが、それがためにまとまりの良い精鋭空軍を持っていたから、まずそれを潰したのである。
「これで、ヴァーラーンを守る鎧は、また剥がれたことになります」
やはり、ハディートは物憂げである。何が彼をそうさせるのか、シュナーには分かりすぎるほど分かっていたが、彼自身の選択により背負ったものであるから、それについては何も言わない。
ハディートは、見ているのだ。自らが背負ったものの先にある、救いを。
「カアラムが落ちれば、次はどうする」
「ヴァーラーン国境の拠点、クスルを」
「ふむ」
クスルという軍事要塞を攻撃し、ヴァーラーン本土襲撃の糸口を掴む。そう考えているらしい。シュナーも、異存はない。
この新参者に大きな作戦の立案を任せれば、古参の者などから反発が出る。だが、ハディートはそこも含めて上手く立ち回っているらしい。
あるときは古参の者の機嫌取りをし、あるときは恫喝し、自らの立場を守っている。そういう者が、シュナーは好きである。だから、余計にハディートを重用した。
「人とは、信じるに値せぬものだ」
と、常々彼は言う。
「昨日立てた誓いを、今日には覆す。今日の契りを、明日には破る。人とは、そういう者だ」
とハディートに述懐したことがある。
「だから、私は、お前を買っている。志のために自ら立てた誓いを破り、全てを失ったお前のことを」
そのとき、ハディートは、何も言わなかった。
「お前には、失うことの出来ぬものがあった。それを自ら壊し、お前はここに来た。私にとって重要なのは、今お前がここにいるという事実なのだ。それが、お前という裏切者が、信じるに値する者であるということの何よりの証だと思っている」
ハディートは、黙って少し俯いた。やはり、その憂いの影は濃い。
「お前は、私を信じるか、ハディート」
問いかけられたわけであるから、ハディートも答えざるを得ない。
「私があなたを信じることは、無い」
と彼は断言した。シュナーは、哄笑した。
「そうだろうとも。それでよい。お前にとって信じるべきものは、己の立てた誓いであり、己の志。それを自ら打ち砕き、なおそれを信じる。やはり、お前は本物だ」
また、ハディートは黙った。
そのまま自分の銃を取り、幔幕から出た。
「おい」
そのハディートを、呼び止める者があった。シュナーの幕僚で、古参の者である。
「何か」
「いい身分だな、よそ者」
この地域を構成する人種は複数あるが、長く続く戦乱によりそれは離散、融合を重ね、民族意識は薄れている。彼らにとって重視すべきは
ゆえに、その所属集団への帰属意識が強く、新参者やよそ者を嫌う。
「いい身分というわけでは、ありません」
深く被った麻の外套のフードの下で、ハディートは言った。
「お前は、自分のしてきたことが、分かっているのか。どうせ、我らのことも裏切るつもりであろう」
古参の幕僚は、そう言って詰め寄った。
「私がどのような
「いいや、ある。お前が、今度はヴァーラーンに付かぬという保証はどこにも無いではないか」
面倒だな、とハディートは思った。
「何が狙いだ」
と、古参の幕僚はハディートに何事かの企みがあり、シュナーに取り入っているものと決めつけているらしい。
「この戦いの、終息を。人の、救いを」
ハディートは、心のままのことを言った。それが受け入れられ、理解されることはないと知りながら。
「抜かせ。大義や綺麗事をかざす前に、お前は自分を知るべきなのだ」
そう言って、唾を吐き捨てた。
その瞬間、喉に冷たい感触が伝わった。
刃物。
瞬時に抜き、突き付けていた。相当な腕前であるらしい。
「俺は、全てを投げうち、ここに来た」
ハディートの眼に、炎が燃えている。
「俺の全てを。俺が、生きてきた証を。大切なものを。信じた人を」
刃物を突きつける力が、強まった。
「そうまでして、俺には為さねばならないことがあるんだ」
古参の幕僚の首の薄皮が破れ、血が滲んだ。やめろ、と言いたいが、それで刃物が食い込み、死ぬのが分かった。
「だから、俺には、お前ごときのような、己の立場を守ることしか考えぬ木偶と、関わっている暇などないんだ」
普段、口数少なく、大人しいハディートが、このように感情を剥き出しにするのを、この古参の幕僚は初めて見た。分かった、と両手を挙げようにも、片方はハディートの身体によって、もう片方は刃物を持たぬ腕によって固められており、それすらも出来ない。
「ここでお前を殺してやりたいところだ。だが、それによって生じる面倒を、俺は嫌う。だから、殺しはしない」
ハディートの静かな声が、古参の幕僚に染み込んだ。助かった、と思ったのだ。
「だが、俺の邪魔はするな。俺は、お前などとは、背負うものも失ったものも、そして求めるものも、違うのだ」
それを言い、ハディートは古参の幕僚を解放した。
古参の幕僚は、尻餅をつきながら、立ち去るその後ろ姿をただ見送った。
ハディートが何者であるのか、シュナー以外のバルサラディードの者は知らぬ。だが、ただ己の欲のために戦いをする者とは、明らかに異なる存在であることは紛れもないらしい。
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