第四章 均衡

均衡が向かうその先

「どうということはなかった」

 シュナーは、安堵の中にいた。

「これで、つまらぬ横槍も、入らぬようになる」

 傍らにいる者と、話しているのだ。

「それにしても、良かったのか」

 その者の表情は、篝を背負っているために、よく分からない。だが、戦闘服を着込み、ガルサング銃を携えていることから、軍の者であるらしいことは分かる。

「良かったのです」

 その者が、言葉を発した。穏やかな声色であるが、少しだけ揺れていた。

「人とは、恐ろしいものだな」

 シュナーが、感心したような、それでいて諦めたような顔をした。

「恐ろしいものだと思います」

「だが、それでも、やらねばならぬことがある、か」

「そうです。私には、やらねばならぬことがある」

 どんな手段を用いてでも、とその者は付け加えた。

「龍を呼ぶ、か。これでヴァーラーンと私の、一騎打ちに持ち込むことが出来る。感謝するぞ」

 その者は、答えない。

「戦いを、終わらせるのだ。この世の人は、思い違いをしている。龍だけが、呪われた力であると思っている」

「実際、私もそうでした」

「そうだろう。だが、違うな」

「そうです。あらゆる武力こそが、呪われた力。どんな小さな銃でも剣でも、それが人を苛む限り、この世にあってはならないものだと思います」

「いい意見だ。私も、同感だな」

 シュナーは、満足そうである。その顔のまま、

「国境無き翼が力を取り戻す、というようなことは、あるか」

 と問うた。

「無いと思います」

 その者は、断言した。

「保有する鐵翼のうちの多くを失い、あれだけの龍雷ティニラエドを使い、兵も死に、本拠も失った彼らが、再び立ち上がることはありません」

「そうか。あの首領のアイシャという女は、どうだろうか」

「同じです。再び立ち上がることは、ありません」

「それでよい。この世にあるには、余りある力だ」


 実際、アイシャの働きは凄まじい。その育ての親であるゼムリャの後を継いだわけであるが、空にあっては、恐らくそれ以上の才を持っている。地にあっては先に触れたバルサラディードの野営地での生還劇の通り、信じられぬほどの体力と精神力を持つ。

 銃も力。鐵翼も力。龍雷ティニラエドも、龍も力。その理屈でいけば、アイシャも、力。そして、力とは、世の人にとって害悪でしかないということになる。

 あの日、国境無き翼を滅ぼすために用いられた力は、アイシャ自身をも滅ぼしたことになる。

 力をこの世から消し去るための力。それを、シュナーは用いていると言う。

「シュナー」

 その者が、頼りなげな声を発した。

「その先は。その先の人は、どうなるのでしょう」

 シュナーは答えず、立ち上がり、その者の肩に手を置き、幔幕から去った。

 残されたその者は、しばらく篝の火を背負ったまま、そこにただ座していた。



「アイシャさん」

 リーランが、草の茎を煮た飲みものを差し出してくる。

 アイシャは、うつろな瞳で、それを受け取った。素焼きの器を通して伝わってくるその熱すら、鬱陶しいと感じた。

「おいしいですか?」

 リーランが、無理に作ったような笑顔で、そう訊いてくる。美味いとも不味いとも答えず、アイシャは二口目を啜った。

「わたし、茎汁アーチャルを淹れるのが、上手いんですよ」

 リーランが、アイシャの隣に座った。二人が手にしているのは茎汁アーチャルという飲み物で、この乾燥した地域の、岩場などに生える草の茎を狩り、その堅い皮を剥いて煮詰めた汁のことであり、我々で言うところのコーヒーに相当するかもしれぬ。その味のほどがどのようなものなのかは分からぬが、リーランはそれを作るのが上手い。

「誰にでも、才というものはあるのね」

 アイシャは、その茶褐色の薄い液体に目を落とし、呟いた。

「ひどい、その言い方」

 リーランが、苦笑する。彼女の黒髪は、いつも鐵翼や他の機械の油にまみれているから、それが美しい艶を出していた。しかし、あの日以来、ほとんど機械に触れることがなくなっているから、その髪は砂埃によって艶を失っていた。

 今、リーランが出来ることのうちで最大のことは、アイシャに心をこめた茎汁アーチャルを作ってやることなのだ。

「アイシャさん」

 自分も一口それを啜り、困ったような顔をして言った。

「元気、出して下さい」

 アイシャは曖昧に頷き、そして思い出したように、

「ありがとう」

 と言った。


 身体の傷は、癒えた。あてもなく原野を彷徨う国境無き翼の生き残りは、ただ生きるために日々を過ごした。

 壊滅状態にある彼らに、武器を供与してくれる者はもうないだろう。あったとしても、それを求める金もない。

 だが、彼らには、国境無き翼として戦う以外、どうしてこの世を生きてゆけばよいのか分からない。

 故郷を持つ者は、勝手にそこへ帰っていった。日に日にその人数は減ってゆき、あの春が進み、夏を前にした頃になると、もう三十ほどにまでなっている。

 アイシャが、ユーリと共に、密かにユラガンと名付けた鐵翼は、あの場所に置いてきた。

 龍晶が無ければ、飛べぬ。それにこだわっても、どうしようもないのだ。

 申し訳程度のガルサング銃と拳銃。それが、彼らの保有する最大の武力であった。

 それを使うこともなく、罠を作ったりして乾燥した草原や岩場にいる生き物を捕らえ、糧とする。その先に何があるのかは分からない。ただ、生をやめることは出来ない。だから、彼らは、ただ生きるために日々を過ごした。

「これから、どうする」

 と声を出す者もない。ただその日の生を喜び、分かち合う。それだけの集団に、彼らはなっていた。


「ねえ、アイシャさん」

 リーランが、アイシャの顔色を気にしながら、言った。

「アイシャさんは、どこで産まれたんですか?」

「答えないと、いけない?」

「嫌なら、いいです」

「――べつに、いいけど」

「じゃあ、教えて下さい」

 ずっと、思い出さないようにしてきた。アイシャが国境無き翼の一員として生きるのに、それは必要ない記憶であったからだ。だが、国境無き翼は、もうない。だから、アイシャは今、ただの人なのだ。だから、それを思い出し、語っても、何の問題もないと思ったのだ。


「バルサラディードで、わたしは産まれた」

 小さく、彼女は言った。

「じゃあ、故郷を――」

 攻め滅ぼそうとした。そう言いかけて、リーランは口を噤んだ。

「故郷なんてものじゃないわ。幼いころ、わたしの親は、戦いで死んだ。その頃、バルサラディードには何の力もなく、シャブスの言いなりになっていた」

 つい先ごろまで、そうであった。

「身寄りの無くなったわたしを、男が連れ出した。誰なのかは、分からない。どこに連れて行かれようとしていたのかも、分からない。だけど、わたしは、抗った」

「逃げ出したんですか?」

 恐らく、孤児を連れ去り、どこかに売ることを生業としている者であろう。この戦乱の続く地域には、そういう者がある。

「ええ。男の手を噛み、股間を蹴り上げ、突き飛ばし、転んだその男の頭を、石で砕いた」

 そうして、幼いアイシャは、自らを束縛することしかない生から、逃げ出した。そして、その先にあるのは、死だった。

 原野に幼い少女が一人である。夜は寒く、食い物が無くて飢え、彼女はすぐに死の淵に至った。

 産まれたくて、バルサラディードに産まれたわけではない。

 死なせたくて、両親を戦いで失ったわけではない。

 彼女には、どうすることも出来なかった。

 彼女にとっての生とは、束縛そのものであった。

 また見知らぬ男により、その束縛は形を変え、この先も続いてゆく。

 そのことに対する漠然とした不安と焦りは怒りに変わり、彼女に開放を求めさせた。


 そして得た開放は、死。

 眼を開けているのかどうかも分からぬ彼女の前に、人影が立った。

 それは彼女を抱き起こし、また新たな束縛の中へと運んでいった。


「それが、ゼムリャ?」

 アイシャは、頷いた。

 ゼムリャは、彼女に役目を与えた。料理を、武器の手入れを教え、彼女に身の回りの世話をさせた。

 ゼムリャは、戦っていた。元、ヴァーラーンの軍人であったらしいが、軍を脱し、仲間を集め、どの勢力に依ることもなく、ただこの戦いの終息のためだけに戦っていた。

 国家が、その名において表立って行えぬようなことを、国境無き翼は行ってきた。そして、それを行う中で、それぞれの勢力の力の均衡を調整し、持つものからは奪い、持たぬものには与えるという役目を自ら生み出してきた。

 その先にあるものを、ゼムリャも知らなかった。


 ゼムリャは、言った。

「お前には、才能がある」

 と。アイシャはその頃には既にゼムリャの身の回りの世話を行うようになっていた。その最中に、不意に発せられた言葉であった。

 その翌朝から、アイシャは自ら銃を撃ち、鐡翼の操縦を学んだ。誰もが、驚くほどの腕前であった。無論、若い女の身でありながらそれをするアイシャに反発する者も多かったが、ゼムリャは丁寧に、そして厳しくアイシャを鍛え上げ、共に戦場に立つ頃には、誰もアイシャの腕を疑わぬようになっていた。


 アイシャは、リーランに乞われ、自らのことを話し出した。

 だが、それをするうちに、自分の内側から、次々と言葉が出てくることに気付いた。

 誰かに、話したかった。そのような気持ちではなく、ただ、言葉が湧くようにして出てくるのだ。

 語ったところで、もう、今のアイシャにもリーランにも、関わりのないことなのだ。


「龍が、父と母を殺した」

 そうアイシャは言った。シャブスの肩代わりとして戦いに引っ張り出されたバルサラディード軍を、龍が襲ったのだ。父は軍人、母は医師であり、共に戦場に出ていたのだ。

「だから、アイシャさんは、龍を墜とすんですか?」

 それに答えることは出来なかった。龍が空にあること自体、あってはならぬのだ。あれは、人に滅びしかもたらさぬ。だから、父母が龍の火の中に消えたという事実があるから龍を墜とすのかどうかは、分からない。だが、その事実が無くても、アイシャはなおあれほどに龍にこだわり、それを執拗に追い、墜としただろうか。


「龍が、噛み付いた」

 そう、彼女は言う。

 それは、龍に自分の何かを奪われたということの例えなのだろうか。

 では、彼女がかつて、ユーリに語った、

「ゼムリャは、わたしに噛み付いた」

 というのは、どういう意味なのだろうか。

 ゼムリャは、彼女に与えることしか、してこなかった。彼女を拾い上げ、生を与え、武器を与え、技を与え、その才を磨かせた。そしてアイシャに鐵翼を与え、生きてゆく道を与え、アイシャ自身を与えた。


 そのゼムリャは、戦場において、にやられ、死んだ。

 そのことについては、語らなかった。

 アイシャの手元の椀の中からは、知らぬうちに茎汁アーチャルが無くなっていた。

 時とは、このようにして、何者かに知らぬ間に吸い上げられてゆくものなのかもしれぬ。

 だが、往々にして、それをするのは、自分自身であったりするものだ。

 己の力ではどうにもならぬこと。それに対してどうにか働きかけをしようと、人は力を求めるのかもしれぬ。


 今、この地域において、力の均衡は、大きく崩れた。

 それが向かう先は、調和か、破綻か、あるいは、もっと別のものか。

 アイシャには、それを見定めるだけの力はもうない。

 ただ、空になった椀に残る、茎汁アーチャルの滴を見つめるしかない。

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