半月
どうすることも出来ない。
南西へ航行を続け、そのまま陽が傾いた。
機銃もロケットも、全弾を撃ち尽くした。
ただ追い縋り、飛ぶ。この時間こそ、苦痛であったろう。
「——やめろ」
何度目かの、呟き。無論、龍がそれを聞き届けるはずもない。
もう、国境無き翼の本拠は、目前である。
アイシャは、ただ見ているしかない。
龍の来襲に気付いた国境無き翼が鐡翼を緊急離陸させてきた。
橙の海に沈もうとする原野に浮かぶようにして、それらが向かってくる。
次々と鐡翼が龍にまとわり付き、その進行を妨害しつつ、翼を破壊しようとロケットや機銃を乱射している。
一体の行動が鈍り、それが
別の龍が放った火球。
それが、複数の鐡翼を空の橙に溶かす。
「——狙っている?」
龍も、学習するのであろうか。あの両翼から突き出た筒が、己にとって危険なものであると。
だが、そのようなことは、今のアイシャにとってはどうでもよい。
鐡翼は、一体をどうにか通常兵器で墜とそうと集中攻撃をかけている。アイシャが見ていて苛立つほど、それらは
余り物のようにして解放された一体が、翼を大きく広げた。
「——やめろ」
それは、叫びに。
「やめろ!」
閃光。
それは紅く、熱量を持ち、放たれた。
肌に出来たかぶれのようにして地に建てられた幔幕の並びを、停められたままの鐡翼を、武器を運搬するための龍晶で動く荷車を、そこで必死に行き交う人を飲み込み、破砕し、焼き払った。
一瞬で、全てが終わった。
ただ飛ぶ。
それならば、鳥でよい。
鳥はただ飛ぶだけで季節を、種を運び、地を潤す。今のアイシャは、それですらない。ただ何をすることも出来ずに鳥を真似て飛び、鳥ではないにも関わらず啼き喚くしかない彼女を、何と形容すべきか。
あそこに、リーランが。
ユーリが。
幾多の死線をくぐり抜けてきた、仲間が。
この戦いを終わらせるという、大義が。
志が。
意味が。
理由が。
アイシャを育んだゆりかごの全てが、閃光と炎熱と黒煙と夕の橙の中に溶けて消えた。
残ったものは、黒く、禍々しい龍と、眼下の紅を呆然と見下ろすしかない数機の鐡翼と、空に取り残されたように頼りなく浮かぶ己自身と、そしてその空の向こう側の風景。
——アイシャ。何のために、お前は戦う。
——この戦いを、終わらせるためよ。
——果たして、そんなことが、出来るものだろうかと、俺はこのところ思う。戦うことでしか、己の存在を感じられぬような俺達が、それをすることが出来るのかと。
——戦いが終われば、あなたはどうするの?
——俺か。さあな。どこか、誰も知らないところに行って、俺の国を作るか。そのための、戦いを始めようかな。
——冗談で言っているのよね、ゼムリャ?
——半分はな。もし、それが出来るようになれば、そのときは俺はもう爺だ。俺の跡を、お前が継げばいい。
——わたしを、どこまでも縛るのね。
弾薬を納めるために使っている幔幕だろうか。眼下で、また火が立った。分厚い硝子や鐡翼の機体を通し、それはまるでアイシャの胎内に別の命が宿っているようにその腹を突き上げた。
それで、アイシャは空の向こうのものを見失った。
眼下の惨劇が、ただそこに放り出されていた。
龍は、なお一体が墜ちずに、まるで始めから空が己のものであったかのようにそこに存在している。
「また、わたしに噛み付いた」
アイシャの歯が鳴る。そのまま、操縦桿を思い切り倒す。
急降下。地すれすれで姿勢を戻し、着陸。もう、燃料にしている龍晶は殆ど底を尽きているのだ。
日没。
残光と火炎に照らし出される原野に、降り立った。
地にあれば、身体のあちこちが痛む。傷を受けていたことを、そこで思い出した。
弾薬を納めている幔幕。
先ほどの爆発は、恐らく火薬。それならば、今アイシャが求めているものは、無事であるはずだ。
停められたままの、鐡翼。
その一機の操縦席を、アイシャは開いた。
飛び立つわけではない。
その翼に載せられたものが目当てである。
「墜ちろ」
アイシャは、怒りとも悲しみとも違う、眼前を覆い尽くす紅に似た感情をその眼にも宿しながら、呟いた。
操縦桿に備えられた安全装置を外し、その覆いの中から現れる
地で眠る鐡の翼から、真っ直ぐにそれは放たれた。
放たれて、飛んだ。
飛んで、上がり、目当てを付けたように龍の方へ向け加速を始めた。
龍と、眼が合った。
なにごとかを訴えかけるような。
「お前は」
アイシャは、それに向かって、何故自らが今打ち砕かれるのかの理由を述べてやった。
「わたしに、噛み付いた」
閃光。アイシャの影さえも吹き消すような。
それが空を染め、アイシャと同じ高さへと向けて龍を墜とした。
生き残った者は。
空にあった者は鐡翼で降りてきて、アイシャのもとに集まってきた。本拠にもともとあった者の中で動ける者は、怪我人の救助や消化に奔走した。
「こんなの、ひどい」
リーラン。無事であったらしい。
「ひどい」
アイシャの胸に顔を埋め、啜り泣いている。
「ひどい——」
何人、死んだのか。
ここから再起することは、出来るのか。
今は、何も分からない。
分からないし、どうにも出来ない。
燃え盛る火炎を避けるようにして、無事である食料や武器だけを荷車に積み、ここを離れる以外にない。
少し離れた場所で、一旦、休息を入れた。
そこで人数を数えると、百ほどしかいなかった。
三百の人間が、国境無き翼で暮らしていた。
じつに、二百名が死んだことになる。
ユーリの姿もなかった。無論、アイシャは食料などを集めている最中にユーリの幔幕を確認しに行ったが、それは焼けて跡形もなく、そしてそこに居るはずのユーリの姿も見当たらなかった。
死んだと見るのが、妥当であろう。
無論、アイシャもまた普通の人間と同じように、まさかユーリが死んだなどと俄かに信じることは出来ない。だが、本来ならばアイシャの無事を確認しようと真っ先に駆け寄ってくるはずのユーリの姿が無いのだ。
このようなときに限って、ユーリの何気ない言葉や仕草や、曖昧に笑う顔や柔らかな髪の感触や、肌の熱が頭の中で再生される。
それをして、どうなるわけでもないことを知りながら、それを止める手立ては分からない。
そのまま、夜を迎えた。
夜になって、その風に吹かれて、星に見下ろされて、アイシャは始めて喪失感に襲われた。
ただ、泣いた。
兵にその姿を見られようが、どうでもよい。
もう、国境無き翼は無いのだから。
鐡を纏い、空をゆく翼は折れ、地に墜ちたのだ。
シュナーが次にどうするかなど、どうでもよい。
この戦いがどこへ向かってゆくのかも、アイシャには関わりがない。ただ、だからといって、今この場で死んでやろうとも思わない。そういう矛盾すら、認知することが出来ない。
だから、アイシャは、ただ乾いた土を染める夜に包まれて、涙を流すしかなかった。その涙すら、土に吸われてすぐ消えた。
今、この世に、アイシャの存在を示すものは、なにひとつとして無い。
それだけは、この夜に浮かぶ半月のようにはっきりとした事実として、存在した。
月は、満ち、欠ける。それは、恐らく、月が無くなったり増えたりするものではなく、もともとあるものが隠されているからだ。では、もし、月がその半分を完全に失ったとしたら、それは、果たして月と呼べるのだろうか。
自らの存在は消え、ただ肉体だけがそこにある。
アイシャは、そんな心地であるのかもしれない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます