空にある地獄
「噂を、知っているな」
「ええ、勿論」
国境無き翼の再興の話である。
「どうする」
「捨て置きましょう」
ハディートは、そう言った。シュナーは、そうか、とのみ答えた。ハディートの次の言葉を待っているものらしい。
「どのみち、一度滅んだものが再び力を得ることなど、不可能です。国境無き翼というのは、ただの名。そのものの本質を表すものではありません」
確かに、国境無き翼がいかに再興を掲げようとしても、実際、その武力も人員も資金も、全てが滅び去っているのである。そのことを、ハディートは冷静に見ている。
「お前は、どう思っているのだ」
というシュナーの問いに、ハディートは一瞬その動作を止めた。止めて、
「別に、何とも――」
と答えた。
「ただ、滅びを受けた者ならば、ありし日の己に理想を重ね、それを求めたくなるという人の心の働きは、分かります。ごく自然なことであると思います。それだけです」
「そうか」
「私もまた、多くのものを失った身。そして、私は、私だけが特別であるとは考えません。この世に生きる全ての人が、同じものに苛まれている。奪われたもの、失ったものの多寡を数えるのは、他人ではない。それが多いか少ないかを定めるのは、己でしかないのです」
「その通りだ」
「だから、私がどれほどのものを失っているかを、あなたに説くつもりはありません。言ったはずです、私がここにいることが、何よりの証明であると」
「疑うわけではないのだ、悪かった」
「いえ、別に」
「あの、アイシャという女」
シュナーは、同じ話題の中で、やや視点を変えた。
「あれは、お前と同じか」
ハディートには、その意味が分かるらしく、
「ええ」
と答えた。
「ならば、やはり、危険であることに変わりはないな」
「どうしますか」
「いや、今はまだいい。お前の言う通り、捨て置く。死に損ないに関わっているほど、暇ではない」
「死に損ないを放っておいて、それが妙なことにならぬとも限りません。引き続き、注意しておきましょう」
「頼む」
「いざとなれば」
ハディートの眼が、やや
「私自ら、出てもよいのです」
「最強の兵士、か。お前に討てるのか」
「さあ。最悪の場合でも、相討ちになるかと」
「それは困るな」
シュナーは、笑った。
「お前には、頼みたいことが山ほどあるのだ。一人の女のことに命を賭けられては、困る」
「分かっています」
「やはり、悲しいものだな、戦いというものは」
シュナーは、立ち上がった。密談は終わりということである。ハディートも、姿勢をやや崩した。ここから話すことは、いつも、ただの個人の考えを垂れ流すのみの内容であった。
「お前は、ほんとうに、人か」
「ええ、紛れもなく」
ハディートは、苦笑した。無論、シュナーが戯れにそう言っているということは分かっている。
「つまらぬな」
「何がです」
「戦いが、だ」
「つまる、つまらぬ、というようなものではないと思います」
「それは、そうだ」
「そのために、宰相は戦っておられる。私は、だからこそ、それを
「その通りだ」
「この世から、全ての力を。それが成った後、私は、ひとりでにどこへでも消えましょう」
「寂しくはある」
ハディートは、それを聞いて少し笑った。
「おらぬ方がよいのです。私のような者は、この世に。居てはならぬ者。私は、自らを、そのように思っています。だから、私にしか出来ぬことが、あるのです」
「頼りにしている」
「存分に、お使い下さい。あなたが道を誤らぬ限り、私は、それを佐ける」
「もし、私が道を誤れば――?」
それには答えず、ただ貴人に対する拝礼をし、ハディートは退室した。
ハディートは、このところ、自ら鐡翼を駆ることが多くなっている。あまりに拡大し過ぎた戦線を維持するには、それしかなかった。
シュナー直属の兵を任され、それを率いるハディートの戦いの能力は、相当なものであった。鐡翼を駆れば、誰もがあっと驚くような操縦を見せ、ヴァーラーンが放ってくる鐡翼や、龍を容赦なく墜とした。その飛行する軌跡には、一点の迷いもないようであった。
この日も、彼は、自ら鐡翼に乗り込み、空にあった。
ヴァーラーンの中でも、やや大きな街である。それを、攻略する。経済に打撃を与え、ヴァーラーンの戦闘維持能力を低下させるという目的がある。
当たり前のようにして、空にあった。
当たり前のようにして、ヴァーラーンの鐡翼が、迎え撃ってきた。
その弾の嵐を、風に舞う鳥のようにして避け、一機を墜とした。
どうせ、これらは、龍を呼ぶ間の時間稼ぎなのだ。
バルサラディードは、街や軍事施設を攻撃するのに、容赦なく龍や
今も、ハディートが遥か背後にしたバルサラディードの前線基地では、龍を呼ぼうとしている。
空に舞う、龍。それ同士が、意味もなくぶつかり合い、殺し合う。
はじめ、地を這うしかなかった人が手に入れた翼。
それが、鐡翼であり、龍であった。
翼を得た人は、空でも戦う。
空すら、火で焼かれるのだ。
なんとなく、ハディートは、自らのある空の向こう側に、そのような景色を見ていた。
自らの内側で、声がする。
それは、救いを求めていた。
悔悟と、悲しみ。そして、怒り。それが、紅くハディートの心を染め、そして空っぽにしてゆく。それは、渇きに似ている。
だから、ハディートは、空にある。
「――追え。墜とせ」
そう、呟いた。
目の前でぱっと火が上がり、ヴァーラーンの鐡翼が、地へと還ってゆく。
背後に、気配。
いのちそのもののような、強い気配。
バルサラディードが、龍を放ってきたものらしい。
そして、前方からも。
ヴァーラーンの龍。
ハディートは、操縦桿を押し倒し、高度を下げた。
頭上を、互いに龍どもが飛び違ってゆく。
十を超える龍が、空を生めている。
そして互いに紅い火を吐き合いながら、互いを焼いた。
力を失った龍が、乞われるようにして地へと墜ちてゆく。
何のために。何のために、龍どもは互いを焼くのか。
青くあるべき空を、紅に塗り替えてまで。
ただ飛び、壊し、焼くか、焼かれるか。そして、役目を終えれば、消えるのみ。
やはり、自分と変わらぬではないか、とハディートは改めて思った。
この世にもし地獄というものがあるとすれば、それは空のことなのかもしれず、あるいは地のことなのかもしれなかった。
その果てしなく続く地獄の中、ハディートは、バルサラディードの龍を狙い、墜とそうとするヴァーラーン空軍の鐡翼に狙いを付け、墜とした。そのハディートを、別の鐡翼が狙ってくる。
――いつまで。
――いつまで、これを続けるのか。俺は。そして、人は。
分厚い硝子の向こう側に広がるもの。そして、その先にあるもの。
それを、彼は求めている。
それをのみ、彼は求めている。
たとえ、この鐡の翼が引きちぎれようとも。
たとえ、彼の全てを引き換えにしたとしても。
彼は、そのために産まれ、孵ったのだ。
――来るなら、来い。
――俺は、龍も俺も変わりがないということを、否定はせぬ。抗いもせぬ。そうしてまで、人は救われなければならない。
――そのことに抗い、否定するか。ならば、俺を、紅で染めるしかない。
――この束縛から互いに逃れるには、それしかないのだ。
そして、思った。
――何故、生き残ったのだ。解放をこそ、求めていたのではなかったのか。
――それをこそ、求めていたのではなかったのか。それなのに、何故生き、なお束縛を受け入れながら、それに抗うのか。
――互いに死ぬとき、その答えは見つかるのかもしれない。互いに、そのとき、生きていれば。
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