片割れ
一年。
長いようで、短かった。
「――ああ」
アイシャは、感慨を禁じえない。涙は流さぬが、リーランなどは隣で大泣きに泣いている。
「これで終わりじゃねえ。ここから、始まる。そうだろう?アイシャ」
カシムも、他の構成員も、それを眺めながら、感慨深そうにしている。
彼らの視線の先には、一機の鐡翼。
この一年、さまざまな依頼を受け、それをこなし、利を得、ようやく、これを求めることが出来た。
使い古された旧型のものであるが、大変な苦労であった。
この旧型の鐡翼が、彼らの翼であり、希望であった。
周囲には、民。今、国境無き翼は、ヴァーラーンの中にいる。
カシムが多額の金をもって軍と交渉をし、特別に格納庫に置き去りにされていたものを、譲り受けた。それを取り囲む国境無き翼を更に取り囲む民からも、歓声が上がっている。
この頃になると、国境無き翼というのは、大変な人気を誇っていた。
民の味方。民のために、戦う。民を救う。人々は、この混迷した戦いの世に現れた救世主のようにして、彼らを見た。
その筆頭たるアイシャの人気も高い。
「翠玉のアイシャ」
というあだ名まで付いている。翠玉というのは、彼女がいつも身に着けている、古びた翡翠の髪飾りから来たものである。
もはや、再興の噂を隠そうともしない。民の間での評判を得ようとする限り、隠すことなど出来はしない。ただ小さな依頼を受けているだけなら、各勢力はそれを放置するであろうが、鐡翼を手に入れたとなれば別である。バルサラディードがそれを聞きつけ、再興の前に潰そうとしてくるかもしれぬ。だから、彼らは今、ヴァーラーンの中に居た。
「これで、龍やバルサラディードから、俺たちを守ってくれるんだろう」
民の一人が、酒の器を片手に、アイシャに近付いてきた。アイシャは、いつもの通り、曖昧に笑うのみであった。
戦いの中に生きて敗れ、そして復活を求める、憂いのある美女。アイシャの人気は、絶大である。
それにしても、民とは気楽なものである。
国境無き翼が鐡翼を再び手にしたからといって、それが、さも自分のためであるかのように民は言う。自ら、抗う術を持たぬ民からすれば、そうするしかないのであるが、やはり、彼らは、戦いの当事者でありながらにして、自ら進んで痛みを受けるようなことは望まぬ。
そして、それは、人として、ごく当然のことであった。だから、別にアイシャは腹を立てることもないし、ただ曖昧に笑うのみである。
「皆、逃げろ!」
集まる人々に、声がかかった。
「バルサラディードだ!この街を、狙っているらしいぞ!」
どよめきが起きた。
すぐに、頭上をヴァーラーンの鐡翼が飛び去ってゆく。恐らく、バルサラディードの迎撃に出たものであろう。民は驚き、逃げ惑う。
「アイシャ」
カシムが、促す。アイシャは鐡翼に乗り込み、離陸させた。それに、国境無き翼の者が複数の車に乗り込み、続く。避難するのだ。さすがに、すぐさま戦いに参じるわけにはゆかぬ。
街を出ると、空で戦う二国の様子がよく見えた。時折、ぱっと火が上がるのは、どちらかの勢力が、どちらかの鐡翼を墜としているのだろう。多くの民が避難するその原野に、アイシャは鐡翼を着陸させた。
圧倒的な力の気配。それを背後から感じた。
――龍。
と、即座にアイシャは悟った。
それは背後から。ヴァーラーンが放ったものらしい。
そして、前方からも。これは、バルサラディードのもの。
十を超える龍が、空を飛び交っている。互いに火を吐き合い、互いを焼き滅ぼすように。
街の方に狙いを付けた龍は、ヴァーラーンの鐡翼が放つ
龍を、いのちと呼んでよいのかどうか、アイシャには分からぬ。ただ、空では、いのちといのちが、ぶつかり合っていた。その激しいぶつかり合いは、青くあるべき空を、紅く染めた。
まるで、それは、人の流す血の色のようであった。
一機、また一機と鐡翼は墜ちてゆき、一体、また一体と、龍は墜ちていった。
滅び。それらが向かってゆく先にあるものは、それ一つ。
もし、この世に地獄というものがあるならば、今アイシャが見ているものがそうであろう。
ふと、アイシャは、空のある一点に、眼をやった。
そこには、黒い点が一つ。
鐡翼であろう。
しかし、それは、龍と同じ、いのちの気配を放っていた。
それを、凝視した。
まさか、と思った。
その翼の翻り方。
機銃が火を吹く拍子。
それを、アイシャは知っていた。
しかし、あり得ぬことである。
その一機が、一体の龍に狙いを定めた。
「――あっ」
と、思わず声を上げた。
まるで、自分が空にあるのを、地から見ているような感覚であった。
今空にあるあれは、アイシャと同じものであった。
生きもせず、死にもしないもの。
ただ、今、己が生きているということを感じ、示すために空にあり、それを紅に染める。自らの血の色を見るようにして、生を感じる。
それは、いのちの光。
アイシャは、それを見た。
「アイシャさん!」
リーランの声を背に、アイシャは突如として、走り出した。
鐡翼。それに乗り込み、再び空を見据えた。
その向こうにあるものを、見た。
もし、それにいのちがあるなら。
今なお、求めているというのか。
分からない。何故、今この空に、それがあるのか。
「アイシャ、何をするつもりだ!」
カシムの声も、耳に入らない。そのまま、地を離れた。
追うのだ。あれを。
その空の、向こう側を。
そして、確かめなければならない。
そう思った。
それは、アイシャの意思であるのか、あの夜アイシャの中で孵ったなにものかの意思であるのか。
全速力。
龍の翼をかいくぐり、その火を避け、雨のように降り、嵐のように吹く弾をかわし、アイシャはそこに至った。
逓信機。
「そこに、いるの」
問いかけた。答えはない。受信していないのか、あえて答えぬのか。
「答えて」
それと、一瞬、眼が合ったような気がした。
空の向こう側に、それは居た。
それを、アイシャは求めていた。
アイシャと互いに見つめ合うようにして、それは浮かんでいる。
互いの距離が、縮まってゆく。
凄まじい速さである。
来る、とアイシャは思った。
来た。
アイシャは翼を翻し、機銃の弾丸を避けた。
鐡翼は求めることが出来ても、武装はない。アイシャは、ただ空に浮かんでいる鳥や雲と変わらぬ存在であった。
その状態で、この地獄に、自ら飛び込んだ。
そうしてでも、確かめなければならぬことがあるのだ。
傍らの一機が火を噴き、墜ちてゆく。旧型とはいえ、アイシャの鐡翼はヴァーラーン製である。味方だと思ったヴァーラーン空軍の者が援護をしようとし、墜とされたのであろう。
その火が、後方に流れてゆく。
「どうして、ここに」
互いに通り過ぎ、その機体の位置を入れ替えた。
もう一度、逓信機越しに、問いかける。やはり、答えはない。
そう思ったとき、応答があった。
「去れ。この地獄から。早く」
「――ああ、やっぱり」
アイシャは、流れ出す涙を、止めることが出来ない。視界が霞む。鐡翼の操縦に、支障が出る。高度を上げ、戦いからその身を避けた。
彼女は、この空の中だけで、泣くことが出来た。
彼女は、この空の中だけで、泣くことが許された。
「あなたなのね」
乞い求めるように、機首を下げる。
逓信の相手から撃ち上げられてくる弾丸すら、アイシャにとっては希望の雨だった。
その雨は、地から天に向かって注いだ。
左翼に被弾。
動力に問題はないが、飛行姿勢を維持することは出来ない。
そのまま、アイシャは、地へと向かって緩やかな弧を描き、還っていった。
墜ちはしない。彼女の身体がひとりでに、その姿勢を維持するよう鐡翼を操っているのだ。
この空で、アイシャは再び出会った。
彼女が、最も求めていたもののうちの一つに。
彼女の破片の、片割れに。
彼女と同じ、歪んだいのちに。
今、生きている。
地に降り立ち、鐡翼から降り、声を上げて駆け寄ってくるリーランやカシムや国境無き翼の構成員。その声を耳に入れることなく、ただ傷付いた左翼のみを眺め、そう思った。
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