第五章 龍

「嫌よ。そんなの」

「そう言うな。これは、全ての人のためなのだ」

 どこの勢力にも属さない原野の中で、アイシャとゼムリャが、声を荒げている。

 彼らと、彼らを見下ろす星以外に、ここには何者もいない。

「わたしは、道具じゃない」

 と、アイシャは抗う。

「いいや、人とは、誰もが、戦いのための道具にしかならぬ。そこから解放されることこそが、人の求めるべきものなのだ」

「あなたが、勝手にそうすればいい」

「ああ、そうしてきた。だから、俺は、今こうして、ここにいる」

「まさか、あなたも――?」

「お前の言う通りだ。既に、ユーリは俺の言うことを聞き入れ、そして

「ユーリが――」

 どれほど辛い過去を持っていても、ユーリは人に、アイシャに優しい。

 ゼムリャが言うことを受け入れたということは、あの穏やかな笑顔と声色の奥に、恐ろしいものを飼っていたのかもしれない。

「耐えられるのは、お前と、ユーリしかいない」

「そんな風に見込まれたところで。わたしは、人のために戦っていたい」

「そうだ。人のためなのだ。お前が、この世の全ての人を救い、導くのだ。俺の肉体は、とっくに滅んでいる。それでも、俺は、今、こうして生きている」

 アイシャは、ゼムリャの灰色の眼を見た。そこには、生の光はなかった。ただ原野を照らす、小さなガスの龕灯がんどうの光があるのみであった。

「受け入れろ。苦痛を」

「そうまでして生きたって、そこには、束縛しかないわ」

「そうだ。人は、生まれながらにして束縛されている。家。街。国。自らを知る人。自らを知らぬ人。自らに向けられる銃口。頭上を飛び交う鐡翼。墜ちてくる龍雷ティニラエド。そして、地に影を落とし、それを焼き尽くす、龍。人は、生まれながらにして、死に束縛されているのだ」

 ゼムリャの言うことは、分かる。

 だが、それを認めてしまうことが、そのままゼムリャの言うことをしまうことになると思い、ただ激しくかぶりを振るのみであった。


「アイシャ。お前には、力がある。人がもともと持って生まれたものよりも、より多く。お前には、全ての人を導く責任がある」

「そんなもの、要らない」

「では問う。お前は、何故戦う。俺が手渡した銃を、何故受け取った」

「それは、わたしも戦うことで、人を――」

「救うのだろう。お前には、それが出来る。だから、お前なのだ」

「そんなの」

 アイシャには、どうしても受け入れることが出来ない。だから、抗うのみであった。

「どうやら、言葉でお前を組み敷くことは、出来ぬものらしい」

 アイシャは、ゼムリャに従順であった。彼の言うことならば、どんなことでも従ってきた。だが、これは飲み込むことが出来なかった。アイシャの見せた、最初で最後の反抗であった。

「では、何でわたしを組み敷くつもり――?」

 この原野に、殺気が満ちた。


 拳銃に、手をかけた。

 それが火を噴き、弾丸が。

 アイシャのそれは外れ、ゼムリャのそれは、アイシャの胸に食い込んだ。

 身体を襲う重い衝撃に耐えかね、アイシャは仰向けに地に投げ出された。

 頭上の星が、徐々に掠れてゆく。

 色を、闇の黒すらも失い、薄くなってゆく世界の中に、ゼムリャが近付いてくる足音だけが存在した。

 そしてそれはアイシャの傍らで止まり、おもむろに戦闘服を開き、白い肌と胸を露出させた。

 そこに穿たれた傷をじっと見ているのを、アイシャは全身の痺れの中で、ぼんやりと見ていた。



 次に気がついたときは、この乾いた土でも吸い切れぬ血の海の中で僅かに胸を上下させる、ゼムリャを見下ろしていた。

「――それで、よい」

 ゼムリャは、今まさに耐えようとしている息と共に、そう言った。

「お前だけが――」

 アイシャは、何故自分が刃物を握っているのか、理解出来ていない。ゼムリャのうっすらとした息と言葉を、アイシャの激しい呼吸が塗りつぶしてゆく。

「お前だけが、人を――」

 胸を二箇所、そして、腹を割くようにして、傷。そこから流れてゆく血が、少なくなっている。

「俺の、言った通りだったろう」

 ゼムリャは、最後にそう言った。

「――お前には、才能がある、と」

 それきり、事切れた。

 その死体を放置し、アイシャは歩きはじめた。どういうわけか、身体がふらつく。自らの胸を探るが、そこに傷はなかった。あれは、夢であったのか。ならば、ゼムリャを自ら殺したというのも、夢ではないのか。

 いや、違う。

 一歩進む度に、蘇ってきた。


 ゼムリャに向かって、一息に駆ける己を。

 ゼムリャは、それに対して銃を構えることはしなかった。ただ、戦士としての反射で、身体を僅かに動かそうとした。その腕を捉え、捻り折って背後に回り、膝裏を蹴って地に跪かせ、自らの腿から刃物を抜き、後ろから抱えるようにして二度刺した。抜いた刃を腹に突き立て、横に裂いた。そして、力を緩めた。

 激しい怒りがあった。何に対しての怒りなのか、アイシャにも分からぬ。

 だが、それは、怒りであった。同時に、悲しみであった。

 誰のものなのかは、分からない。ただ、アイシャの全身を、それらが焼いていた。

 龍が放つ火のように紅く、それはアイシャの中に存在していた。

 そして、その心を、その色に塗り替えている。

 それを、噛み締めるようにして、感じた。


 地を一歩踏む毎に、自らのしたことを噛み締める度に、身体は軽くなっていった。痛みも、薄くなっていった。

 ユーリも、これを受け入れたのか。

 アイシャは、抗った。受け入れるわけには、いかなかった。

 だが、いかに抗おうが、アイシャの中に芽生えた紅いものは、どんどんとアイシャを蝕んでゆく。



 人を、導く。そのために、戦う。

 アイシャは、それまでの生で、最も苦しい束縛を、強いられることとなった。

 そして、彼女は、それに抗おうとし続ける。

 いかに苦しく、いかに厳しいものであったとしても。

 そこから解放される手段は、一つしかないと知っていても。



 昔のことを、夢に見る。

 よくあることである。だが、アイシャが見る夢は、大概、このようなものであった。

 ゼムリャを殺した経緯というものを、人に話したことはない。それは、誰にも知られてはならぬ彼女の秘密を吐露することになるからだ。だから、彼女自身も、ゼムリャに撃たれてから自分が再び起き上がるまでの間の記憶を、どうしても呼び起こすことは出来ない。

 それは、ある意味、あのとき、アイシャが死んでいたからなのかもしれぬ。だから、あそこで記憶が途切れていたのかもしれぬ。そして、血の海の上のゼムリャを見下ろすところから記憶が再び開くのは、という、あらたな生き物が産まれたからかもしれぬ。

 それは、卵に似ていた。アイシャは卵から孵った雛がどのような心持ちであるのか聞いたことはないが、もしかすると、アイシャは、僅かな間、卵となり、記憶が再び開いた瞬間、孵ったのかもしれぬ。

 ユーリは、どうだったのだろうか。それを問うてみたかったが、遂にそれは出来ぬまま、二度とユーリにそれを問うことは出来なくなってしまっていた。



「どうして、こんなことを」

「自分が、少なくとも今、生きていると思いたいから」

 二人にしか出来ぬ、会話であったのかもしれない。



 国境無き翼再興の噂を聞き付けて、壊滅時の生き残りで、既に解散した者のうちの何人かが戻ってきた。それはすぐに十人になり、二十人になった。

 まだ、小さい。

 散った翼が遺した卵を、彼らは今、温めているのだ。それが孵ったとき、どのようなものが産まれるのかは、誰も知らない。

 ただ、その生き物にも、翼はあるのだろう、と何となく信じているのみである。

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