龍と戦う
国境無き翼。その再興。
それを掲げたアイシャ達は街を回り、小さな仕事から始めた。商人の護衛。行方不明者の捜索。国境無き翼の残党であることを、隠しもしない。皆、その名だけで仕事を依頼してくれた。
彼らは数人ずつに分かれてそれを遂行し、仕事は選ばず、子供の依頼まで受けた。
「わあ、ありがとう」
「逃がさないよう、大切にしろよ」
構成員の一人がそう言って、埃で汚れた猫を少年に差し出す。
逃げ出した猫を探してほしい、と依頼してきたのだ。
少年は、にっこり笑うと、ほんの僅かな謝礼を渡し、猫を大切に抱き締めて駆け去っていった。
このようなことをするのには、理由がある。
カシムの案である。
「やるからには、必ず成功させる」
と、この根っからの商売人は言った。肌の色からして南方の出身なのであろうが、その地域の人々というのは遥か太古の昔から商いをしており、経済感覚というのが遺伝的に研ぎ澄まされている。
カシムにすればいい迷惑であろうが、彼もまた、この永久に続くとしか思えぬような戦いの歳月に、生まれながらにして倦んでいる者のうちの一人である。
だから、惚れたアイシャに私財を投げ打ち、その思想の実現を助けたいと願うことは、彼にとってはごく自然なことであったろう。
どのみち、人は生きている限り、死ぬ。
それが、極めて近しいもののように、居座っている。それが、戦いというもの。
やはり、自分で実際に銃の引き金を引くかどうかに関わらず、戦いとは人に大きな影を落とすものらしい。
そこから解放されるために戦いをするというのもまた明らかな矛盾であるが、戦いという異常な手段が生むものを覆すには、それくらい激烈な手段を用いなければ、追いつかぬのかもしれない。
そういう意味で、カシムも、戦いに物理的に、そして立場的に参画したことになる。
どうすれば、彼らが再び翼を得ることになるのか、答えは明らかでありながら、不明瞭である。
このような小さな仕事を続けて、小さな利を得ていたところで、たとえば鐡翼を再び手にするまでに、どれほどの歳月がかかるのだろう。それでも、彼らは不安や徒労感に襲われることなくひたむきに取り組めているのは、カシムの策によるところが大きい。
「評判だ」
と彼は言う。
「子供の猫まで、探す。護衛は、必ず成功させる。そういう、評判なんだ」
商いにおいて大切なものは、信用と評判であるらしい。確かに、国境無き翼に各国の軍から困難な依頼がもたらされていたのは、必ずそれを達成するという信頼と評判のためである。
今、その再興のために彼らが得ようとしている評判は、徹底して民の味方であるというものである。
軍とは、強大な力を持っている。しかし、民もまた、然りなのだ。ただ、民が持つ個の力というものを発揮するだけの素地が無いというのが、この情勢の特徴であった。
だから、彼らは、民の思いや思考、そしてそれに必要な犠牲や痛みの肩代わりをすることで、力を集めようとした。
こうしている間にも、バルサラディードは力を殖やし続け、ヴァーラーンを侵食していっている。この戦乱の主人公とでも言うべきヴァーラーン帝国が、押されているのだ。
それだけ、バルサラディードが支払う犠牲も多いということになる。それをしてでも、バルサラディードはヴァーラーンをどうにかしようとしている。急いでいるのだ。
それが成らねば、おそらくバルサラディードは自壊する。それくらいの無理を、自らの国土と国民に強いているのだ。
それにしても、宰相シュナーのやり方は、変わった。ちょうど、国境無き翼が壊滅した頃からであろうか。それまでは自国の富強を第一に考えていたようなこの小国が、自らの存在を賭けてまでヴァーラーンへの侵略を開始したのだ。
今のところ、一方的にバルサラディードが押し、ヴァーラーンの周辺部を切り取っている。
それが何故なのか、戦場から遠く離れたアイシャらには分からない。
ところで、アイシャは、国境無き翼の再興を掲げたとき、かつての構成員全員を集め、話を設けた。それに賛同出来ない者は去ってもよい、と彼女は言った。無論、誰も去らず、むしろ涙を浮かべて喜んだ。
ただ、アイシャの隣でにこにこ笑っているリーランが、ふと言った。
「アイシャさんは、謎が多い人ね」
「どういう意味?」
アイシャは、訝しい顔をした。
「あ、変な意味じゃないんです。そういうところも、大好きなんです」
「じゃあ、言わないで」
「ごめんなさい。ただ、アイシャさんのどの部分が、そこまで強く自分を支えて、戦いを求めるのか、知りたくって」
皆、微かに頷いた。
アイシャにも、自覚はある。彼女は、自らが戦う理由を、誰にも説明したことがない。
それを知っているのは、恐らく、ユーリだけであったろう。
戦う理由というのは、市でカシムらに言ったものが全てである。
だが、そう思うほんとうの理由を、彼女は誰にも言ったことがない。
「そうね」
アイシャは、溜め息をついた。
「話しても、いいのだけれど」
いつも物憂げなその眉の線が、さらに憂いを濃くした。
「皆、ゼムリャは知っているわね」
当たり前である。国境無き翼の創始者であり、最強の兵士。死した今、その名は伝説に変わりつつある。
銃の狙いは外したことがなく、鐡翼を駆ればどのような龍でもたちどころに墜とす。無数の弾痕や創傷が刻まれた肉体は人とは思えぬほど強靭で、馬ですら息を切らせる距離を二本の足で駆け、目の前の敵が銃を構えるより早くその心臓に刃物を突き刺すことが出来た。
それが自ら育てたアイシャが強いのも、当たり前である。この小さく、細い身体のどこにそれほどの力が秘められているのかと誰もが不思議がるほどに、彼女は強かった。
そのゼムリャがどうしたと言うのか、という顔を、皆が並べている。
「彼を殺したのは、わたしよ」
アイシャは、薪でも放り出すように言った。
古参の戦士の中では、うすうす、感付いている者もいる。だが、そのことを口に出すことは出来なかった。それを、アイシャは自ら口にした。
「一体、どうして――?」
リーランが、黒髪に不安げな色を浮かべた。
その理由について、彼女は、
「彼は、わたしに噛み付いた」
とのみ述べた。
彼女が、性的なことをゼムリャに強要されていたことを知る者は多い。戦場では、不思議なことではない。ゼムリャは戦いで受けた傷により、男性的な機能に問題があったから、よりその責めは執拗なものであった。皆、そのことであると思った。アイシャは、それについて詳しいことを説明せず、続けた。
「彼が求めていたのは、圧倒的な力。たとえば、国境無き翼が、この世の全ての武力を敵に回して、なお勝つことが出来るような。それは、人が持つには、余りに多すぎる力。わたしたちが求めるべきなのは、あくまで、均衡であるべきだった」
その通りである。戦いというものにも支点、力点、作用点、重心というものがあり、その均衡というものは決して崩れてはならないものである。
「それを一息に覆してしまうようなことを彼は思い付き、そして実行しようとした。幸い、それを知るのは、わたしとユーリの二人だけだった。わたしは、ユーリにも打ち明けることなく、彼を殺した。わたしにしか、出来ないことだったから」
なるほど、最強の戦士ゼムリャを殺すことが出来るのは、彼が育てた最強の兵士アイシャだけであろう。
ゼムリャが何を求めていたのかは、アイシャは言わない。だから、誰も聞かない。
「わたしは、思う」
別のことを、アイシャは言い始めた。
「もともと、人は、力を持ってはいけなかったのではないかと」
この地方のどこにでも吹く、乾いた風が通り過ぎた。それくらい、戦いもまた当たり前のものとして、この地方のどこにでもある。
「でも、きっと、人とは、生まれながらにして力を持ってしまっている。だから、力を求めてしまうのよ」
わたしが戦うべきなのは、と彼女は言う。
「人の心に棲む、そういう龍と」
そして、と続けた。
「わたしの中に棲む、そういう龍と」
誰も、言葉を発する者はいない。ただ、アイシャが自分のことをこれほどまでに語ることは珍しい。その言葉の一つ一つを、誰もが胸に焼き付けた。
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