紅い火
光。それが、アイシャの進む方に、影を伸ばした。
騒ぎの方へと、地を滑るように駆けてゆく。
「やめろ、助けてくれ」
ライルーである。複数の兵に取り押さえられ、暴行を受けている。
「あの光は、お前の仕業か」
「誰の差し金だ」
アイシャは、物陰から、それを見ている。救出してやりたい。しかし、この敵の集団の中で交戦するのは不可能である。どこかに運ばれて軟禁されてから、隙を見て救出するしかない。
ライルーに暴行を加える兵どもの手足が、止まった。
「鼠か」
シュナーである。騒ぎを聞き付け、幔幕から出てきたらしい。アイシャが、ガルサング銃を構える。しかし、射線上にライルーの身体があり、撃てない。
シュナーさえ仕留めてしまえば、あとはどうにか力ずくで離脱してしまえばよい。標的が目の前にいるのに引き金を引けぬことに、歯噛みする思いであった。
迷った。このまま、ライルーごと、標的を撃ち抜くかどうか。距離はあるが、狙って狙えぬ距離ではない。
「どこで、聞き付けた」
シュナーは、顔の形が分からぬほどに殴られて血を流すライルーを、静かに見下ろしている。
「お前が、龍を呼ぼうというのか」
「ち、違う」
「どうせ、ラハンの差し金だろう」
「違うんだ——」
シュナーが、片手を挙げた。
「連れてゆけ。それほど龍を呼びたいなら、望み通りにしてやる」
兵がライルーを引き立て、アイシャが背負う光の方に身体を向けた。アイシャは、そっと影の中に身を隠した。
ライルーは、そのまま引きずられるようにして光を放つ龍晶のある幔幕の方へ。
このままでは、龍を呼ばれてしまう。
ライルーを、依り代として。
殺すべきだ。
そう、アイシャは判断した。
ガルサング銃。
その照星越しに、僅かな抵抗を示すライルーを見た。
引き金に、指をかけて。
寒い夜に、霜が降りるように、そっと。
その手応えが、アイシャは好きではなかった。鐡翼の操縦桿に備えられた機銃の引き金よりも、それはもっと生々しく、なにごとかをアイシャに訴えかけてくる。
——その銃を、どうしようというのだ。
声。それが、頭の中で巡る。
それに、アイシャは、答えた。
——噛み付くからよ。龍も、あなたも。
発砲。
放たれた弾丸が、ライルーに
兵が即座に銃を構え、どこから発砲されたのかを見定めようとしている。
ほんの僅かな間を置いて、ライルーの苦痛の叫び声。
もう一発。
殺さなくては。
光。
それが、強くなる。
アイシャは、狙いを定めることが出来ず、眼を閉じた。
シュナーの、笑い声。
光が収まり、再び眼を開いた。
アイシャは、仰ぐような角度で、銃を構えた。構えたまま、静止している。
龍。
黒く、艶のある鱗。
そこに溶けるようにして取り込まれてゆく、ライルー。
アイシャは物陰から身を躍らせ、六.九ラザ弾を連射した。しかし、それは全て硬い鱗に弾かれ、膜のようなものに包まれてはいるがまだ露出しているライルーに中っても、効果がないようだった。
弾の切れたガルサング銃を降ろし、即座に腰から拳銃を抜き、立て続けに射撃した。団栗のような形の八ラザ弾が飛び、龍に向かってゆく。しかし、それも、岩に打ち付けた豆のように虚しく弾かれるのみであった。
「これはこれは——」
シュナーが、
「誰かと思えば」
いくつもの銃口が、一斉にアイシャの方を向いた。
「空を駆ける天馬も、翼が無ければ、ただの地虫ですね」
弾は、撃ち尽くした。再装填をするような余裕もない。
冷静さを欠いた。作戦は、失敗である。
アイシャとは変わった女で、このような事態に陥っても、どこが悪かったのかを頭の隅で考えていた。
ライルーを救出しに向かったことが、まず一つ。ライルーなど捨て置いて、さっさと龍晶を破壊すべきであった。むしろ、兵が騒ぎに気を取られていたのだから、それは達成し易かったはずである。
ライルーに弾が中ることを気にして、シュナーを撃たなかったこと。それも、一つである。
そして、産まれようとする龍に向け、弾を全て撃ち尽くしたこと。ガルサング銃用の六.九ラザ弾や拳銃用の八ラザ弾ごときで、あれがどうにかなるはずかないのだ。なにせ、墜とすのに、
いや、それならば、あの龍は飛び立ってしまう。飛び立てば、間違いなく、龍はラハンに向かう。
鐡翼もない。追うことは出来ぬ。龍が怒りの炎でラハンを蹂躙するのを、ただ黙って見ているしかなかったであろう。
龍が、咆哮した。
耳が潰れ、腹が破れるほどのそれの裏側に、アイシャは、ライルーの声を聴いた。
——憎い。
——苦しい。
——助けてくれ。
龍はひとしきりそう哭くと、アイシャの髪よりもなお黒い色の空へと飛び立っていった。
どうすることも出来なかった。
ライルーを救うことも、殺すことすらも。
その場にありながら、龍が産まれるのを、ただ弾丸をばら撒くだけで、見送ってしまった。
幔幕の一つに押し込められ、手枷をはめられ、鎖で繋がれて、散々に暴行を受けながら、そのことばかりを考えた。
暴力は夜通しアイシャを襲い、顔を、身体を、そして股の間を責めた。
その間、アイシャはずっと考えている。
しばらくして、アイシャは代わる代わる後ろから規則的な振動を与えてくる兵がこれで何人目であるのかを数えるのをやめた。時間が経つにつれ、彼女を取り巻く男の数は増えた。
痛みを通り越して、腫れたように感覚が麻痺している。その中でも、舌を噛んで死のうとは思わなかった。
あの龍を、どうにかしなければならないからだ。
どうやって、ここから出るか。それのみを考えた。
後ろ手に縛られた両手には、鎖。それが、幔幕の天井を通る骨の、幔幕を固定するための突起に通され、アイシャに惨めな姿勢を取らせている。
剥き出しにされたままの尻は冷え、感覚がない。
「おい、次は俺だ」
一人が、アイシャの中て絶え果てた者を押しのけた。その男のものが入ってくるとき、アイシャは鋭い声を上げた。
「お、この女。ようやく、本性を現したぞ」
男どもか、笑い声を上げる。
アイシャは、振動に合わせ、声を上げた。男どもは喜び、アイシャがどのような顔をしているのか見ようと前に回り込んできた。
そのうちの一人と、眼を合わせた。
「うわっ、こいつ」
その男が、顔を覆った。
アイシャの切れた口の中に溜まっている血を、眼に吹きかけたのだ。
「畜生」
周囲を取り囲んでいる者のうちの一人が、アイシャを打ち据えようと向かってくる。
地を、蹴った。そのまま頭を下にするようにして回転し、後ろ手の姿勢から逃れた。着地するときに、向かってきた男の脳天に強烈な膝蹴りを落としている。
「おい、取り押さえろ」
数人が、打ち掛かってくる。アイシャはまた地を蹴り、鎖を強く引き、身を逆さにした。
腿で強く鎖を締めて自ら宙吊りになるような格好を取り、余裕の生まれた手元の鎖で一人の拳を絡め取る。腿を緩めるとアイシャの身体が降りるから、男の腕は引かれる。
鎖に噛み付かれたようになった男が暴れる。それに合わせ、アイシャは強く鎖を引いた。
みし、と嫌な音がして、幔幕の骨が曲がった。
「まずい——」
一人が、銃を執ろうと、木机の上に手を伸ばす。
その男と、目が合った。
腫れて血を流す口元を歪め、一気に両腕を引き下げた。
龍の哭き声ほどではないが、大層な音を立てて、幔幕は崩れた。男どもが叫び声を上げる。
自らに覆い被さる幔幕から逃れようと、男達がもがいていて、幔幕自体が未知の生き物のように蠢いている。
やがて一人がそこから抜け出し、灯火で照らされた闇の中に顔を出した。
その顔が、見た。
地を這う蛇のような鎖を。
それに繋がるアイシャの手が、銃を握っているのを。
「——わたしに、噛み付いた。そのために、お前は死ぬ」
畏れに似た眼が、八ラザ弾で射抜かれた。
続けて、蠢く幔幕に向け、それを乱射する。
全ての弾丸を撃ち尽くしたところで、幔幕は死んだ。
そこに向け、銃を投げ捨てた。
「返しておく」
銃声を聞き付け、兵どもが騒いでいる。
アイシャは鎖を引き摺った痕を地に残さぬように両腕にそれぞれ巻き付け、そっとその場を離れた。
シュナーがいた幔幕の明かりは消えていた。
もうこの場に用が無くなり、立ち去ったものらしい。
シュナーは毎度、龍を呼ぶのに、前線まで出張っている。もしかすると、龍の飛行距離は無限ではなく、ある一定のところまでしか飛べぬのかもしれない。だが、それにしても、一国の宰相たるシュナーがわざわざ出向いてくるのは、どういうわけか。単に彼の趣味によるものか、それとも別の理由か。
騒ぎの中、周囲を警戒する兵。
背後の闇の中から鎖が伸び、その首に絡み付いた。そのまま、声を出すことも出来ず、闇の中に引きずり込まれる。
「シュナーは、どこだ」
兵は苦しげな呻きを上げ、首を横に振った。
「龍は、どこに向かった」
兵の首が、ある方向を向いた。
ラハン王都。
聞かずとも、分かっていることである。
鈍い音を立て、兵の首が王都とは真逆の方を向き、アイシャを見つめた。
その死体を転がし、アイシャはまた身を低くしたまま、動き始めた。
東の空では、闇の黒が、朝の青に塗り潰されようとしている。
——憎い。
——苦しい。
——助けてくれ。
ライルーの声が、再び聴こえた気がした。
その方向をふと見ると、紅い閃光がひとつ。
龍の火が、放たれたらしい。
アイシャの口から流れる血と、似た色であった。
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