第二章 失われたもの

潜り、潜む

 これまで、ヴァーラーン帝国だけが持つ技術であった、龍を呼ぶわざ。はるか太古の時代に失われたはずのそれを蘇らせたことで、ヴァーラーン帝国はこの小国のひしめき合う戦いの地を席巻しつつあった。

 あの冬の日、そのうちのひとつ、バルサラディード国の宰相シュナーにより、戦いの局面は変化を見せた。

 バルサラディードは、龍を呼ぶ業を得た。それにより長く属国のような扱いを受けていたシャブス王国の王都を陥落させ、力の均衡を覆した。


 龍というのがいったいどういう存在なのかは、全く分からない。ただ、人類にとって、害悪以外の何者でもない。その巨大な身体に宿る強い生命を葬るには、相応の力が要る。太い腕や尾を振り回すだけでも大変な威力であるが、口から吐く火球が怖い。小さな龍の吐いたそれが、一日でシャブス王国を陥としたことは、周辺地域の人々に恐怖を与えた。

 どういうわけか、龍は呼んだ者の意思に呼応する。そして、その一つの目的を果たすと、どこへともなく帰ってゆく。そういう、得体の知れぬものであった。それが生物なのかどうかもよく分からなかったが、バルサラディードのシュナーがそれを呼んだことで、はっきりとした。

 あれ自体は、生き物ではない。

 人を核にした、何かなのだ。

 人の苦しみや呪詛、叫びや痛みを龍晶というエネルギー体が餌とし、形を持ったもの。それが、龍なのだ。


 それ以来、国境無き翼も、忙しい。あちこちにバルサラディードの龍が出ており、今度はラハン王国もその火でもって焼かれようとしている。

 それに対抗するには、国境無き翼は、小さい。しかし、数少ない、有力な組織であった。

 ラハン空軍は強い。それでもって、龍の侵攻を容易には許さず、食い止めている。しかし、それは、あくまで水際作戦であった。アイシャは、そのラハンからの依頼を受け、その根を絶つべく立てられた作戦を遂行しようとしていた。


「ねえ、ユーリ」

 アイシャは、いつもと変わらぬ様子で、言った。

「もっと、強くして」

 国境無き翼の副官であるユーリは、言われた通り、アイシャの体内により強い刺激を与えた。その振動をいくら与えても、アイシャの表情はさほど変わらない。

「汗を、かいているのね」

「そりゃあ、汗くらいかくさ。俺が、こんなにも一生懸命になっているのに」

 二人は、別に恋仲というような間柄ではない。アイシャにしてみれば、嫌悪の情を抱いていない男の身体がそこにあれば、別にそれが誰であるかは気にしないらしい。

 時々、このようにして、無性に、それが欲しくなることがあるのだ。それは、アイシャもまた生物であるためであろうが、そのことをあまり大きな声で触れ回ることが出来ないのは当然だ。だから、こうして、自分の幔幕テントに気心の知れたユーリを引き入れ、行為に及ぶ。

 ユーリが呻きを上げ、何度目かに達した。その潮が引いた頃、アイシャは黙って起き上がり、衣服を身に着けはじめた。

「なあ、アイシャ」

 薄暗い灯火に照らされた美しい横顔が、振り返った。

「どうして、こんなことを?」

 引き締まった筋肉を浮かべたユーリが、問う。

「さあ」

 アイシャは、また衣服を身につけるという作業を再開した。

「わたしはまだ生きていると、どこかで思っていたいからかしら」

「お前は、生きているさ」

「そうね」

 ユーリの言う言葉の、その向こう側の意味が分かるらしく、アイシャは曖昧に相槌を打ち、そのまま幔幕を出た。


 季節は、春を迎えようとしている。陽が柔らかくなるまでにはまだ少しの時を要するであろうが、着実にそれは近付いている。

 放っておいても、季節は勝手に変わる。

 戦いと、同じなのかもしれぬ、とアイシャは思った。

 いくら抗おうと、いくら食い止めようと、いくら暴れようと、結局、それは人の知らぬ間に勝手に進み、勝手に去ってゆく。そして、また時が経てば、勝手にやってくる。

 それならば、人が行うはずの戦いを支配するものは、一体何なのであろう。人は、生まれながらにして、人と争うように造られているのだろうか。もしそうであるなら、アイシャ達がおこなっていることはそもそも無意味であり、海の波に向かって石を投げつけるような行為に過ぎないということになる。

 いつ終わるとも知れぬ戦いを、終える。それが、国境無き翼の、存在目的。

 その道は、遠いのであろう。もしかすると、道などというものすら存在しないのかもしれぬ。それでも、アイシャは自分のガルサング銃の整備をし、拳銃を腰のホルスターに差し込み、刃物ナイフを太腿の鞘に納めた。

 この日は、鐵翼には乗らない。

 アイシャは、一人、バルサラディードに赴くのだ。

 受けた依頼は、宰相シュナーの暗殺。今、シュナーは、ラハンとの国境の乾燥地帯に出張っているのだ。龍を呼ぶつもりなのかもしれぬ。王都に籠られていては手出しは出来ぬが、幸いにも、シュナーは活動的であった。

 現地までは、馬を用いる。そこで、補助役としてラハンが付けると申し出てきた者と合流し、二人で任務を遂げる。


 戦場にあるとき、アイシャは、自分が生きているのかどうか、曖昧に感じることがある。空のその向こうに見る景色はいつも不確かで、そしてそれは薄暗く、焼けるように熱かった。跨るのが鐵の翼か生きた馬かの区別は無いらしく、このときも、乾いた草を踏む馬に揺られながら、空を見ていた。


 ――焦るな。落ちついて、引き金を引け。空でも、地でも、それは変わらん。

 国境無き翼のかつての首領ゼムリャは、アイシャに、あらゆることを仕込んだ。殺しの技、装備の扱い、空での戦い方、食える植物とそうでないもの、傷の手当てに使える草や、腹を下したときに使う草のこと。動物の仕留め方と調理の仕方。ゼムリャは、アイシャを実の子のように可愛がり、同時に、人として扱っていないような節もあった。

 ――息を、吐け。動く的の、その向かう先を見ろ。そこに、お前の求めるものがある。

 言われた通りにすると、一発で敵を墜とすことが出来た。

 龍。

 それが出る度に、アイシャは、執拗に追い、そして必ず墜とした。

 ゼムリャは、とある戦場で、アイシャに問うた。

 ――何故、それほどに龍を憎むのだ。

 アイシャは、答えた。

 ――わたしに、噛み付いたからよ。

 無論、なにかの比喩である。実際に龍に嚙み付かれでもすれば、ちっぽけな人間など跡形もないだろう。

 その同じ日の夜、ゼムリャは死んだ。


 景色が変わった。前方に、人影。それを認め、アイシャの思考は還ってきた。ガルサング銃をやや引き寄せながら、近付いてゆく。

「国境無き翼か」

 男。乾いた草を越えて、声をかけてきた。

「そうだ」

 アイシャは、土埃を避けるために口元に巻いていた麻布をずらし、顔を見せた。

「驚いた。龍墜としのアイシャが、こんな別嬪べっぴんだったとはな」

 男は、まだ若い。アイシャと同年代か、少し上くらいであろう。緊張しているのか、つとめて軽口を叩こうとしているらしい。

「予定地点までは、まだかかるか」

「そうだな。このまま馬で、あと半日というところか」

「では、行こう」

「俺は、てっきり、もっと男みたいな奴だと思ってたよ」

「なにが」

 アイシャは馬が与えてくる規則的な振動を感じながら、麻布をまた口元に戻した。

「あんたのことさ。いや、ほんとうに感心した」

 アイシャは、答えない。男がじろじろと自分の外套を眺めながら、その奥にあるものを想像しているであろうことも、無視した。

 ふと、

「お前、名は」

 と問うた。

「ライルーという」

 確認のため、聞いたまでである。ライルーはしきりに何かをアイシャに話しかけてくるが、任務に関係のないことは全て無視した。


 陽が落ち、星が出、それが回っている。

 予定地域が、近付いてきた。さすがに、ライルーも言葉数が少なくなっている。このあたりの夜は、極端に寒い。手綱を握る革の手袋の中の肌が、かじかんでいる。

 夜に予定地点に到着するようにしたのは、遠目からでも宿営の灯を見つけやすくするためと、闇に紛れ、一瞬でシュナーを仕留め、すぐに離脱するためである。ライルーは、その道案内を担っているのだ。

「もうすぐだ」

を為すとき、お前は、どこかに隠れていろ。下手に出しゃばれば、わたしがお前を殺す」

「おお、怖いね」

 前方に、灯が見えた。馬を降り、身を低くして、その様子を伺った。立ったままの枯れ木に馬を繋ぎ、その姿勢のまま、近付いてゆく。

「バルサラディードに、俺は、家族をやられた」

 小声で、ライルーはなにごとかを話しはじめた。

「妻と、生まれたばかりの娘だった。あのとき、俺は、シャブスにいたんだ。龍の火が街を壊し、家族は瓦礫の下敷きになって死んだ。俺だけが、生き残ったのさ」

「黙っていろ」

 アイシャは、ライルーを睨み付けた。ライルーはたいへん緊張しているらしく、言葉を発するのをやめようとしない。

「恨んだね。龍を。そして、バルサラディードを。行き場をなくしてラハンに拾われ、今夜あんたの隣にこうして居ることも、何かの縁だ。俺は、少なくとも、今夜はまだ生きていてもいいらしい」

 アイシャが、ちらりとライルーを見た。戦いとは、こういう人間を産むものらしい。

 アイシャも、そのうちの一人である。


 バルサラディードの野営地は、原野に簡単な柵を立て、その内側に移動式の幔幕を立てただけのものであるらしい。その規模から、アイシャは兵力を二百と見た。

 龍を呼ぶつもりならば、巨大な龍晶をどこかに置いているはずだ。

 鐵翼は無い。全て、陸戦部隊らしい。二百の人員のみであるから、龍晶の輸送の間、それを守るためのものである可能性が高い。

「どこかに、龍晶があるはずだ」

 アイシャの囁き声が、闇を僅かに揺らした。

「探そう」

 ライルーも拳銃を手にし、野営地へと更に近付いて行こうとする。

「待て」

「何だよ、アイシャ」

「お前は、ここまでだ」

「どうして」

「死ぬだけだぞ」

 ライルーの挙動、言動などから、戦いには慣れていないとアイシャは見たのだ。ましてや、己の存在を知らせず、宰相シュナーに肉薄してそれを仕留め、あわよくば龍晶を破壊しようというのである。ライルーの存在が、かえって邪魔になり、任務をしくじれば、アイシャもまたここで死ぬのだ。

「いや、止めるな、アイシャ。俺は、バルサラディードと、龍には恨みがあるんだ」

「自分の感情で、戦場を動き回るな」

 アイシャの声は小さいが、その言葉は強かった。ライルーは置き去りにされた犬のような顔になって、渋々手近な草の陰に移動し、身を伏せた。


 屈んだまま、更に近付く。どれも同じ大きさの幔幕であるから、どれがシュナーのものなのか分からない。アイシャは、深夜でも兵の行き交う野営地の柵をくぐり、灯火の及ばぬ闇を縫い、進んだ。

 中心近くにまで進んでも、シュナーがどこなのか分からない。

 人の気配。一人である。

 背後のそれに精神を集中し、息を完全に殺した。アイシャは、今、闇そのものになっている。

 そっと、音を立てぬよう、刃物を腿から抜く。

 アイシャの潜む詰まれた木箱の脇をその兵が通り過ぎたとき、背後から襲い掛かり、口を塞ぎ、喉元に刃物を突きつけた。

「騒ぐな」

 耳元で、囁く。兵は、黙って頷いた。

「シュナーは、どこにいる」

 兵の手が、ある一点を差した。その先にある幔幕に、シュナーは居るのだろう。

「わかった」

 アイシャの握る刃物が、柔らかな感触をその手に伝えた。

 兵は飛沫の飛ぶ音を首から立てながら、その場に崩れ落ちた。

 地が吸い切れぬ血が、水溜りを作ってゆく。それは流れ、すぐ横の幔幕の中に入っていった。

 まるで、意思を持っているかのように。


 アイシャは、兵が指した幔幕を目指すべく、経路を確認した。その幔幕の周りには灯火が多く、近付くのは難しそうであった。

 だが、ある一点だけ、アイシャのいる闇と繋がっている箇所があった。それを目指し、低い姿勢のまま、進み出た。

 そのとき。

 ぼんやりと、アイシャが同化している闇が、薄くなった。振り返ると、幔幕から、光が漏れている。アイシャは、眉をひそめた。


 地に溜まり、流れていたはずの血が、ない。

 はっとして、光る幔幕に近付き、そっとその入口の布をめくった。

 龍晶。それが、光っている。

 シュナーが龍を呼んだときと、同じであった。

 普段、ただの鉱物のようでしかない龍晶が、あのときも、光っていた。

 血を吸ったのか。

 大量のそれを吸えば、龍晶は、蘇るのか。

 この状態で人を贄に捧げれば、龍が来るのか。

 光は、どんどん強くなっている。すぐに見つかり、騒ぎになるであろう。

 シュナーより前に、龍晶を破壊しなければ。そしてその騒ぎに乗じてシュナーに接近し、それを討つ。

 決まった。

 しかし、アイシャが居るのとは別の場所から、声が上がった。耳を澄ますと、侵入者を捕らえた、と言っているように聴こえた。


 ライルーだ。やはり諦めきれず、潜入してきたのか。

 咄嗟に、アイシャはそう悟った。

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