色
編隊も、群がり飛ぶ龍も越え、ただひたすら、北へ。
それを追おうとしたヴァーラーンの数機は、
アイシャも、追っている。だが、どれだけ速度を上げても、
その身体の中に飼っていた龍が、宿主の血と魂の叫びを受け、姿を現したのだろうか。それはアイシャにとっては今はどうでもよいことである。とにかく、追うのだ。
帝都を破壊させるわけには、いかない。
そこには、多くの人の生がある。
それを奪わせるわけには、いかない。
その先には、なにも無いのだ。
「ユーリ!」
逓信機も何も用いない。無意識に、叫んでいた。
これほどにまで速い龍を、見たことがない。
龍晶の消費も気にせず、とにかく全速力で飛んだ。
「――追え」
その空の、向こう側にあるものを。
「墜とせ」
人の生を。その証を求めることを、奪うものを。
「たとえ、この翼が、引きちぎれようとも」
自らの生を引き換えにしてでも、アイシャには、守らねばならぬものがある。
それが、アイシャを残し、北へ北へと向かっていく。
考えられぬほどの速度で航行し、帝都が見えてきた。
気付けば、陽は傾きはじめている。
振動で、操縦桿を握る手が痺れたようになっている。
それでも、ユーリの首を掻き切った感触が消えることはない。
追いついた。
帝都の城壁などから、空に向け、砲火が上がっている。
龍を墜とそうと、人がそこに集まり、抵抗を示しているのだ。それは、自らの生を繋ごうとする行為だった。奪う力に、奪われぬための力を、空に向け、次々と放つ。
それを、
何故か、慈しんでいるようにも見えた。
「やめろ、ユーリ!」
その叫びと同時に、
「やめろ!」
どれだけ呼びかけても、
ただ、求めるように。そして、示すように。
アイシャは、翼に狙いを付けた。そこへ、残ったロケットを全弾、放った。気付いた
そのまま、また口に火を湛え、帝都の中心の城に向け、放った。
続けて、三発。
広大なその城は、それで完全に破壊された。
「ユーリ!」
アイシャが、
機銃を掃射し、どうにか火を吐くのを止めさせようとする。
しかし、
それは城に、壁に、そして街に。
何度も、何度も、何度も、確かめるように、刻み込むように、繰り返し、繰り返し、火を放った。
この僅かな時間の中で、一体、何人が死んだのだろう。
それを数えることは、誰にも出来ない。
機銃を、頭部に向けた。翼を破壊すれば、ふつうの龍なら著しくその運動を緩める。しかし、
飛び回り、なおかつ激しく動く頭部。それを狙うのは、極めて難しい。ふつうなら、それをしても、弾をいたずらに無駄にするだけだ。
だが、アイシャには、それが出来た。
一瞬、眼が合った気がした。
その瞬間、両翼の機銃が火を噴いた。
何十発もの弾丸が
咆哮。
幼子が、痛みを母に訴えるような。
橙に染まろうとする雲が、それを見下ろしている。
煙は東に流れているのに、雲は、西に流れている。
地上と上空で、風の吹く向きが違うのだ。風は、ときにそのように矛盾したようなことをする。
人も、また。
もう、何が何から何を奪ったのか、誰にも分からぬようになっている。
奪うということと与えるということは、戦いの中においては同義となり、本来持つはずのない意味や理由を持たせる。それに人はこぞって依りかかろうとし、その矛盾がまた新たな矛盾を生む。
その矛盾を覆い隠すため、また人は奪ったもので、空白を埋めようとするのだろう。ずっと、人はそうしてきた。アイシャも、ユーリも。そしてリーランも、カシムも。あるいはアイシャがまだ見たこともない、名も知らぬ人も。この世に生まれ、生きている、全ての人が。
その矛盾を、帳消しにすることは出来ない。
あらゆる力で向かい、どれだけ濃い色で塗りつぶそうとしても、それは、必ずその色の奥から、姿を現す。
もし、それを帳消しにする手段があるとすれば、それは、たった一つしかないだろう。
アイシャは、飛ぶ。
空を。
空の、その深くを。
それは、自らの心の内側に似ている。
あるいは、そっと覗き込む、他人の生に似ている。
龍は、いつもそこに羽ばたき、火を噴いて、なにかを打ち壊す。
人は、ちっぽけな鐡の翼で、本来人があるべきではない場所に飛び立ち、それに抗う。どれだけ抗おうとしても、逃れることも、
それでも、人はその知を結集し、人があるべきでない場所に人を至らせた。
そこに、アイシャはいる。
そこが、アイシャのあるべき場所だから。
同じ存在に、機銃を向けながら。
撃ちまくった。
銃身が焼ける寸前で射撃を止め、通り過ぎる。
その間に受ける激しい風が、熱を空に逃がすのだ。
そして、空を下に見ながら、また撃つ。
機銃の弾丸ごときで、龍の硬い外殻を破ることは出来ない。
ロケットも、全て撃ちつくした。
あとは、
機会は、二度。
それを逃せば、ユーリは、もう二度とアイシャの手の届かぬところに行ってしまう。
両の翼にぶら下がるそれらが、今、ユーリとアイシャを繋ぐことの出来る、たった一つの道具だった。
片目を失った
龍もまた、人と同じように、眼でものを見ているのだ、ということを発見することに意味はないだろう。
傾く陽をまだ映し続ける、もう片方の眼が、正面から突っ込むアイシャを見た。
――そうまでして、あなたは、求めるの。
――こうでもしなければ、生きてはいられないんだ。
すれ違う。
そのとき、アイシャの
それは空中で姿勢を変え、
やがて高い城塔にそれはぶつかり、空を、帝都を紅く穿った。
明らかに、意思をもって行動している。そう思えた。まだ、ユーリの意思があるのだろうか。
――アイシャ。
明滅。そして、声。
紅と、黒。そして、傾く陽の色。
脈と、鼓動。耳の中の音。心の中の、声。
アイシャの視界が、また空の向こうへと。
なぜ。
そう問うても、答える者はいない。
問いかける相手が、いないからだ。
ゼムリャは、アイシャに、与えた。彼女が望みもせず、求めもしないものを。
それが、彼女から、奪った。
生きるということを。
彼女という人間が生きているということを。
だから、求めるしかなかった。
全くの虚無。そして、空白。それのみが、存在した。
それらは、紛れもなく、束縛であった。
そこから開放されることとは、ユーリのように、火でもってこの世を焼き尽くすことなのか。
ずっと、この浅い意識の中で見、追いかけていたものは、それであったのか。
ロケットを受けて破れた翼を広げ、
その口に、光。
――ああ、光に、誘われている。
アイシャの浅い意識と混濁するように、声。
それは、アイシャ自身の声。
――光。ユーリは、わたしの光だった。ユーリの存在を感じ、わたしは、自分の形がどのようなものであるのかを、見ることが出来た。
あるいは、アイシャの中の龍の声。
――どうして、生きていてはいけないの。ただ追い、求めていたいだけなのに。
――どうして、人として生きるのに、これほど苦しみ、傷付き、悲しみ、
いつもの、少し困ったような顔で、微笑みながら。
――わたしは、ただ愛し、守っていたかっただけ。そうすれば、わたしは生きていると、示すことが出来ると、思っていたいだけ。
知らずのうちに、身体は、決まった動作を行っていた。
それによって放たれたものが、すぐ眼の前で微笑むユーリへと吸い込まれてゆく。
ユーリが放ち、アイシャを照らし続けてきた光は、アイシャがユーリを照らすべく放った紅い光に、塗り替えられた。
円く。
両の手を、互いに繋ぎ合うように、円く。
その光の中に、ユーリは、消えていった。
やはり、少し困ったように、微笑んでいた。
漆黒の巨体が、帝都に墜ちようと傾く。
まだなお空を穿ち続ける紅の光。
無理な飛行を続けていた
飛んだ。遥か、空の、その向こうへと向かって。
飛んで、求めて、追いかけて、突き抜けたとき、
俗に、最後の戦いと言われるこの戦いは、三日三晩続き、実に三万八千もの死者が出たのだと言う。
死した者の数を数えたのではない。
生き残った者の数を、数えたのだ。
生きる者を数えることは、死した者を数えることと同じ。
そのことを、端的に知らせる事実である。
その中に、アイシャという国籍も何もない一人の女が含まれているのかどうかは、分からない。
彼女は、自ら多くの死を数えてきた。
そのうち、それは数えることが出来ないほど、多くなった。
それでも、彼女には、生きる者を知り、数え続けることは出来た。
たとえば、ゼムリャ。あるいは、ユーリ。リーラン、カシム。三百の、国境無き翼。街の市で髪飾りを売っていた、老人。それが語っていた、老人の祖父。人が知り、語る人を、人は知る。それで、その者が生きてこの世にあるものだということを知る。
死を数えるより、それは遥かに意味のあることなのだろう。
アイシャが求めたものは、ひとえに、そういうことであったのかもしれない。
人がアイシャを通じて見、求めるように、アイシャもまた、同じことをしていたのかもしれない。
仰ぎ見、追いかけ、求める相手が、ユーリであったというだけのことで、アイシャもまた、その意味では、人であったのだろう。
彼女は、自ら多くの死を生み出してきた。
それと同じだけ、生を知った。
最後の
どちらでもよい。
二人は、互いに求め、共に生きた。
その生が、最後に交わった。その事実に、変わりはないのだから。
最後の戦いにおいて、バルサラディードとヴァーラーンは激しく交戦した。
これだけの戦火、いや、戦禍でも、焼け残ったものはある。
その瓦礫を、まるで愛おしいもののようにして掘り返し、人は、営みを行う。
破壊の悲しみを、癒すこと。
構築の空しさを、噛み締めること。
思い返すこと。
忘れ去ろうとすること。
橙の陽は青に支配され、それが黒に塗りつぶされ、そしてまた違う橙に、そして紅に。そのあと、また世界には色が戻る。
どれだけ色が戻ろうとも、また橙に塗り潰されるときが来る。そして、また青に、黒に。
その向こうに至った者は、いない。
いたとしても、その者の言葉を聴くことは、出来ない。
地にあり、営み、生きる限り、それと交わることは、ない。
そういうとき、もしかすると、人は涙を流したり、あるいは笑ったりするのかもしれない。
それを、求めること。
愛し、守ること。
そのために生きるのだと、知ること。
それを、思い描くこと。
そのために、人は積み上げるのだろうと思う。
色とは、それを描くためにあるのだろうと思う。
光とは、それを見るためにあるのだろうと思う。
たとえ、それがいかに、残酷なものであったとしても。
それでも、描くのだ。
何度も、何度も、繰り返し、繰り返し。
描くのだ。
自らがあるべき場所を。
そこで生きる、己の姿を。
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