力
翡翠の髪飾りが、光っている。
真夏の陽射しに流れる汗を手の甲で乱暴に拭き、リーランは息をひとつついた。
「これで、もう大丈夫」
そして、心配そうに自らの脚に眼を落とす少年に笑いかけた。
「立ってみて」
少年は、不安そうに、立ち上がった。その動作を忘れるということはなかったらしい。
「すげえ。立てた。ほんとかよ。すげえや。姉ちゃん、ありがとう」
立つ、という動作が少年にとっては嬉しいらしい。
「歩ける?」
言われて、少年は、一歩、一歩と脚を踏み出した。
「うわ、片方の脚だけがこんなんじゃ、上手く歩けないや」
「すぐに慣れるわよ」
「ほんとかよ」
「お姉さんを、信じなさい」
少年が、鐡で出来た脚と、もともと彼が持つ脚で、交互に、頼りなげに地を踏む。よろめき、倒れそうになるのを、カシムが支えてやる。
「ありがと、おっちゃん」
「口の悪い小僧だ、まったく」
カシムは褐色の肌を歪めて笑い、少年の背に手を添える。
「ありがとうございます。ほんとうに、ありがとうございます」
少年の母が、謝礼を渡してくる。それを、カシムが受け取った。
「悪いね。俺たちも、食っていかなきゃならねえ。だから、この金は、きっちりと受け取らせてもらう」
国境無き翼は、戦うことをやめた。
その代わり、戦禍によって怪我をした人を助けることを始めた。
先ほどリーランが少年に取り付けてやったのは、機械部品で作った脚。崩れてきた瓦礫の下敷きになり、脚を失った少年は、ぎこちなくとも、また自らの脚で地に立つことが出来るようになった。
戦いに苛まれた人の中には、金を持たぬ人も多い。だが、国境無き翼は、決して、無償で人助けをすることはなかった。
金が無ければ、食い物。食い物がなければ、日用品。どのような形でもよいから、必ず、対価を求めた。なかには、傷付き、弱った人を相手の足元を見るように、あこぎな商売をしている、と陰口を叩く人もいる。だが、国境無き翼は、決して謝礼を取ることをやめようとはしない。
その意味が分からぬ人がいても、別にそれでよい。
もし、その人が国境無き翼に助けを求めて来ることがあれば、彼らは迷うことなく手を差し伸べるだろう。しっかりと、相応の謝礼を請求して。
戦いは、今、止んでいる。
ヴァーラーン帝国はその機能を完全に失い、誰がどうこの破壊からの再生を指揮してゆくのかすらも分からない状態である。
バルサラディードは、最後の戦いにおいて、その国力が傾くほどの戦力を費やした。その先に何か狙いがあったらしいが、それを指揮するはずの宰相シュナーは、沈黙している。
最後の戦いから、もう二年以上が経っているのだ。
誰も、何も指示をしないし、誰も、導く者がない。だから、何となく、人は、手に付くことから片付けはじめた。
まず、散らばった瓦礫を集めること。
次に、壊れた家屋を、建て直すこと。そうするうちに、街は少しずつ再生していった。
無論、元の通りになるには、更に長い年月が必要になるだろう。
まだ建物の中には、仮組みのものも多く、一気に再生を果たすには、人が少なすぎるのだ。
「今、蓄えは、どれくらいある?」
夜になって、酒場で飯を食いながら、リーランがカシムに尋ねた。
「多くはない。現金が、少ないな。食い物や衣服、鐡クズなんかには、困ることはないが」
「街の東を建て直すのを手伝っている皆が、もうすぐ戻ってくるわね」
「ああ、そうだな。それが謝礼を持ち帰れば、もう少し潤うだろう」
「腕が鳴るわね」
「世界一の鐡翼の整備士が、人の腕や脚を作る、か」
リーランは、そう言われ、むしろ胸を張った。
「あら。世界一の整備士だからこそ、よ」
「そうか。まあ、どちらにしろ、お前にしか出来ないことだな」
金が要る。材料を求めなければならない。戦禍で壊れたものを造り直すため、誰もがそれを求める。それはあらゆる資源の価格の高騰をもたらしているのだ。
今日、少年に、脚を一つ付けてやった。
まだ、多くの人が、それを待っている。
その全てに応えることは、出来ないのかもしれない。だが、リーランは、作り続けるのだろう。
人が奪われ、失ったものを、取り戻す。もとあったように戻らなくとも、人には、それが出来る。それを、リーランは、証明したいのだと言う。
そして、彼女には、また別の目標もある。
「おい、聞いたか、あの噂」
隣の卓を囲む男達が、酒を片手に、大きな声を上げている。
「また、隻眼隻腕の女か」
隻眼隻腕の女。その噂が、最後の戦いから三月ほどした時期以降、あちこちで囁かれるようになった。
それは、たとえば元軍人や役人のような、力を持つ者が混乱に付け込んで、弱き者が持つ僅かなものを奪うようなとき、力ある者の
「今度は、誰をやったんだ」
一人は、半信半疑というような様子で、聴いている。実在すら怪しいその女の話題は、酒の肴にするくらいがちょうどよいのだろう。
しかし、傍らで聴いているリーランとカシムは、笑いをこらえるので必死である。
「それが、聞いて驚くな」
噂を運んできた男は、得意気である。
「勿体ぶらず、早く言えよ」
「バルサラディードの、宰相シュナーだ」
聴く男も、リーランも、カシムも、絶句した。
「ほんとうですか、その話」
リーランが、思わず身を乗り出し、隣の卓の話題に首を突っ込んだ。
「おう。まあ、俺が見たわけじゃないがな。だけど、バルサラディードから来たっていう行商人が、そう言ってた。間違いないだろう」
男はちょっと上体を退きながら、リーランに答えてやった。
「だが、それは最近のことじゃない。なんでも、この二年ほどの間、バルサラディードが何もせずに沈黙を保っているのは、最後の戦いのすぐ後に、シュナーがその隻眼隻腕の女に殺されていたから、って話らしい。それが、最近になって、ようやく明るみに出たってわけだ」
「聞いた?」
リーランが、驚きながら満面の笑みを浮かべ、カシムを顧みた。
「聞いたも何も」
「そっか。そんなに早く——」
「どこまでも、血生臭い奴だな、全く」
カシムが苦笑する。
リーランの目標は、隻眼隻腕の女に、新しい腕を付けてやること。
それが誰なのか、分からない。だが、リーランも、カシムも、他の国境無き翼の者も、確信を持っていた。それが、誰であるのかについての。
だから、もう、その腕も、完成していた。
当然のことだが、腕や脚というのは、人によって長さも違うし、関節の位置も違う。だから、その者に合わせ、造ってやらねばならない。
リーランは、知っていた。
隻眼隻腕の女の、その腕の長さも、関節の位置も。それが握り易いように操縦桿の位置を調整し、その関節の位置から動かし易いように、駆動幅を決めていたのだ。だから、リーランには、隻眼隻腕の女の新しい腕を作ることが出来た。
本当ならば、今すぐにでもその所在を突き止め、飛んで行って、その腕を取り付けてやりたい。だが、それはしない。
国境無き翼は、人に求められているからだ。多くの人が、それを待っているからだ。失った身体の代わりに、リーランが造るものを求める人。建物の再建を手伝ってほしいとやって来る人。貴重なものを運ぶので、それを守ってほしいと言ってくる人。その活動は、多岐に渡る。それを放り出し、隻眼隻腕の女のもとへゆくことは出来ぬ。
だから、待つのだ。
いつか、また出会うまで。
リーランは、その隻眼隻腕の女の腕の長さは知っていても、それがどのような人間であるのか、知らぬ。いや、正しく言えば、リーランが知っているはずのその女が、どういう風に新たに生まれて、どのようにして生き、どのような人間になっているのか、知らぬのだ。
それを知るのもまた、楽しみである。
「いつか、会えるわ」
リーランは満面の笑みで、酒に口を付けた。
「ああ、会えるさ」
「格好付けちゃって。本当は、カシムの方が、会いたがってるくせに」
カシムが酒を吹き出す。
「馬鹿言え」
「隠さない、隠さない。惚れた女がどうのこうの、って言ってたじゃない」
「だから、待つのさ」
カシムの眼が、遠くなる。
「あいつが、また俺の前に現れるのを。そのとき、あいつの眼に、俺がどう映るか。俺の眼に、あいつがどう映るのか。それもまた、楽しみだな」
「もしかしたら、お互いに惹かれ合って――」
「そうなるよう、俺も男を磨いておくさ」
「今日、あの男の子に、おっさん、なんて言われてたけどね」
「おい、勘弁してくれ」
二人、笑った。
翌朝、
「あら、どうしたの。不具合?調整してあげる」
少年は、暗い顔をしている。
「どうしたの」
リーランは、目線の高さを合わせ、優しく笑いかけてやった。
「――痛いんだ」
少年は、脚を押さえた。
「痛むの?付け根のところ?」
「ううん。膝とか、脛のところ」
鐡で出来たそれに、痛覚が通っているはずはない。
失ったはずの身体が痛む。そういうことが、人にはあるらしい。あったはずのものを、求めるように。もしかすると、この少年は、新たな脚を得たことで、かつて持っていた脚のことを思い出し、それが痛みに変わったのかもしれない。
「大丈夫よ」
リーランは、少年の肩に、優しく手を添えた。
「あなたが、この脚を受け入れることが出来れば、必ず痛みは治る」
「絶対?」
「それは、あなた次第よ」
にっこりと笑うリーランに、少年は渋々といった様子で頷いた。
「姉ちゃん」
「なあに?」
「俺が大きくなったら、俺の嫁にしてやるよ」
「へっ?」
隣で、カシムが大笑いをした。
「いいお相手が見つかって良かったじゃねえか、リーラン。お前も、そろそろいい歳だろ」
「ちょっと待って。この子が大きくなったら、って。わたし、いつまで待てばいいのよ」
「心配すんな」
少年は、痛みを忘れたように、八重歯を見せて笑った。
「すぐ、迎えに来てやるよ。痛みにも、耐えてみせる。それまで、少しだけ、待ってな」
「おう、こいつは、いい男になるぜ。将来が、楽しみだ」
カシムも長身を折り曲げ、少年の肩を強く叩いた。
「頑張りな、少年」
「お前もな、おっさん」
「つくづく、生意気な奴だ」
行け、と手をひらひらさせると、少年はそれに舌を見せ、ぎこちなく歩き去った。
「ああいう子供が、これからの世界を作っていくんだ」
「そうね」
「俺たちに出来るのは、そう信じること、だな」
「そして、彼らを守り、助けること」
「そうだな」
だから、彼らは、隻眼隻腕の女のもとへ駆けつけようと思わないのだ。
それに、とても会いたいと、心から思っている。しかし、それは、彼らが最も求めるものではないのだ。
彼らが最も求めるものは、生きる者として、為すべきこと。それを、追うこと。だから、彼らが最も好きな人間であるはずの、隻眼隻腕の女のことは、二番目になっていた。
彼女は、翼を失い、自らの腕も、片目も失い、それでも戦っている。それがいかにも、彼らの知る彼女らしくて、意味もなく安心するのだ。
きっと、空のその向こうにあるものを、彼女は見たのだ。
そして、自らが、そして全ての人があるべき場所で生きるということをしているのだ。
その日の昼過ぎ、東の方へ街の再建に出向いていた国境無き翼の者が、帰ってきた。皆、真っ黒に日焼けをし、そのせいで白く見える歯を見せて笑っていた。
「あっちの方では、もっと人手を欲しがっている。少し落ち着いたら、もう一度行ってもいいんだが、どうだろうか、カシム」
「そうだな。西の方が、復興が早い。それに、南か」
カシムは、需要のことを言っている。そこには、金が生まれる。
「北に人をやろうと思っていたが、そうか、東は、まだそのような具合か。では、お前たちの言う通り、もう一度、東に。それでいいか」
「ああ。東には、俺たちを必要としている街が、いくらでもある」
「腕が鳴るとは、このことだ」
「重い石を運んだり、それを積んだりするのは、大変だ。だが、それだけに、やり甲斐がある」
皆、充実した笑顔を見せている。
「リーランは、どうしていた。相変わらず、腕や脚か」
リーランは東方の移民の子であるが、愛嬌があるため、皆の人気者であった。そして、このところ、娘らしさが抜け、徐々に大人の女の色気が出てきている。自然、久しぶりに再会するまでの間のことを、男達は気にかけた。
「ああ、こいつには、将来の夫が見つかったぞ」
カシムが笑いながら言う。それを聞いた男達は眼を血走らせ、どこのどいつだ、と詰め寄った。
「ちょっと、待って。違うんだってば」
リーランは翡翠の髪飾りを揺らし、それを説明しなければならなくなった。一通りの説明を終えると、男達の鬼気迫る声色は、笑い声に変わった。
「もう、皆でわたしを馬鹿にして」
そう言って膨れ面を作るリーランを囲み、夜が更けるまで酒を酌み交わした。
その更に翌朝。リーランは、昨夜の酒による僅かな頭痛に眼を重くしながら、市へと向かっていた。
陽射しが、頭痛に響く。それを避けるため、路地を通った。
路地裏の影で、屈み込む小さな人影を見つけた。それは、肩を震わせていた。
「どうしたの?」
声をかけた。振り返ったそれは、リーランが脚を付けてやった少年であった。
「君は――。どうして、泣いているの?」
「うるせえ。お前には、関係ない。あっち行けよ」
少年はそう言ってリーランの手を振り払い、またぎこちなく歩き去った。リーランは、何故かそれを追うことが出来なかった。
しかし、少年のことが気にかかり、彼の家を訪ねた。
出てきたのは、少年の母。
「そうですか。あの子が。それは、申し訳ありませんでした。あなたは、恩人だというのに」
母は、事情を説明した。
脚を着けてから、それまで沈みがちだった少年は再び希望を持ち、懸命に歩く練習をしている。昨日、脚が痛むと言ってリーランを訪ね、家に戻ってきてからは、特に頑張って、座り、立ち上がり、歩く練習を続けた。
そのくだりで、リーランはちょっと頬を緩めた。自分の夫になるための、男磨きのつもりなのだろうか、と思ったのだ。
そして、それを街の友達に見せるのだと言い、夕方、また家を出た。
夜に戻ってきたとき、少年は、傷だらけ、埃だらけだった。何があったのか問い詰めたところ、街の友達に、歩き方が変だとか、偽物の脚だとか言って馬鹿にされ、苛められたのだと言う。
だけど、自分は、この脚を着けてくれた人を、いつかこの脚で支え、助けてあげたい。だから、決して負けないんだと強い眼で言ったのだという。
リーランの眼に、涙が浮かんだ。
人は、どうして、こうも人を傷付けるのだろう。
そして、人は、どうして、そのような仕打ちを受けてもなお、ひた向きでいられるのだろう。
そのどちらもが心を揺さぶり、それに耐えられず、振動が涙となって、溢れてきた。
「おそらく、今日も、同じような仕打ちを受けたのでしょう。だけど、それを、あなたに知られたくなかったのかもしれません」
その日以来、少年は、姿を見せなくなった。
リーランは、気になりながらも、日々の仕事に忙殺され、少年を訪ねることはなかった。
それから、どれくらいの時間が経ったのだろう。いや、どれくらいの時間が経ったのか、それはどうでもよいことである。
街はその間にもなお再生を続け、人は新たな営みの中で、自らの生きる道を探し、求め、見つけ、あるいは見失い、また造っている。
再生の埃が立ち上るその街路を、二本の脚が踏んだ。
歩き、やがて立ち止まった。
「やめなさい」
鐡の脚を持った少年が、二本の脚を持つ数人の少年に取り囲まれ、暴行を受けている。それらが、振り返った。振り返った眼が、ぎょっとした色を帯びた。
その声の持ち主は、黒い眼帯をしていた。そして、麻の衣の片腕を、風に靡かせていた。
隻眼隻腕の女。その噂を知らぬ者はない。
「逃げろ、殺される!」
少年達は、自分たちが悪を行っているという自覚があるらしく、一斉に逃げ散った。
「大丈夫?」
女は屈み込み、片腕で少年を支え起こした。
「何ともないね、こんなの」
強がりを言っている。リーランならばくすりと笑うところであろうが、この女は、無表情で黒髪と片袖を風の思うままに遊ばせている。ちょっと怖くなって、少年はその片腕から自らの身体を遠ざけた。
「その脚」
言われて、少年は、脚を隠すような姿勢を取った。
「それを、どこで?」
「お前に、関係ないだろ」
「教えてちょうだい。その脚を作った人を、探しているの」
少年は、自分の脚を、市にいる国境無き翼のリーランという技師に着けてもらったのだということを教えた。そして、自分は、そのリーランがいつか困ったときに助けてやれるよう、頑張って脚に慣れる練習を続けているのだ、と問われていないことまで教えた。
「そう。わたしには、関わりのないことだけど」
ありがとう、と言い残し、隻眼隻腕の女は、市の方へ脚を向けた。
「あなたを苛むものと、戦いなさい。そして、あなたが守ろうとするものを、守りなさい。人には、力がある。それが出来る、力がある。脚が鐡であろうが、腕が無かろうが、片目を失っていようが、もう片方の眼を失おうが、そのことに変わりはない。わたしは、そう信じている」
女は、独り言のように言い、消えた。
市では、リーランとカシムが、腕を作ってほしいと言う男の身体の寸法を測っている。
そこに、その女は立った。
リーランの手が、止まった。
カシムも、気付いた。
女は、言った。
「やっぱり、よく似合うわね、それ」
女の黒髪と片袖を揺らすのと同じ風が、リーランの翡翠の髪飾りを揺らしている。
――鐡翼のアイシャ 完――
鐡翼のアイシャ 増黒 豊 @tag510
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