解答合わせ
依頼人・俵山良子の自殺から三日が経過した。
僕は霧雨の中、傘を差して歩いている。目的地は件の不幸自慢を聞いた関ヶ原探偵事務所。タクシーは使わない。何となく考えをまとめるために歩きたい気分だった。
明日からはいよいよゴールデンウィークだというのに、僕の心中はまさに今の空のように重々しい。肌に纏わりつく空気は、この時期では考えられないほどに冷たいものだった。まるで僕の親友にして天才であるツバキが導き出した真相のように。
家を出て学校の前を通過し、探偵事務所の入っている高層マンションへ。建物の前まで着くと、そこに傘を差した一人の女性が目に入った。町子さんである。二、三日で髪色を変えてしまう彼女だが、珍しいことに三日前と同じエメラルドグリーンの髪の毛だったからすぐにそれが町子さんだと分かった。
「やあ、偶然だね、ワンコ君。こんにちは。散歩かい?」
「こんにちは、町子さん。はい、ちょっと知り合いの探偵のところまで」
臆面もなく挨拶をしてきた彼女に対して、僕も平然とそう返してやる。これからもっとひどい話をしようというのだから、これくらいで臆していられるものか。そしてそれはきっと町子さん自身も分かっているはずだ。
彼女は傘を畳みながら答える。
「そうだね、きっとその探偵さんも、友人が訪ねてくるのを外に出て待っているに違いない。大切な話をするためにね」
そう言って彼女はマンションの方へと歩き出す。僕も黙ってそれに続いた。
僕たちは二人でエレベーターに乗った。あの日と同じように。しかし僕らの間にある空気はあの日とはまるっきり違う。僕も町子さんも、あの日のように楽しくない。期待もない。これから待つ話はどう転んでも悲劇でしかないのだ。
「正直、律儀に三日も待つなんて思っていなかったよ。ワンコ君のことだから、依頼人が亡くなったらすぐにでも飛んでくるんじゃないかと思ってた」
「ええ、僕もそうするつもりでした。普通なら電話がつながらないくらじゃ諦めません。この建物の前で何日でも待っていたでしょう」
「へぇ、そんな君がどうして待てたんだい?」
「友達が――僕を助けてくれる親友がいたからです」
「……なるほど、Jちゃんか」
町子さんの呟きにも似た確認に、僕は頷く。
正直、今回の一件はツバキがいなかったらどうしようもなかった。僕一人でずっと悩むしかない。前に進むことも後ろに退くこともできない。俵山さんの死を僕の責任と思って一生引きずっていただろう。
「その口ぶりから察するに、彼女は真相に辿り着いたみたいだね。いやはや、まったく恐ろしい女の子だよ。私なんかよりもよっぽど探偵に向いているんじゃないかな?」
「さあ、どうでしょう。ツバキは全く逆の意見でしたけれどね。この謎を椅子に座って話を聞くだけで解決してしまうなんてすごいって。町子さんほど探偵に向いている人はいないとも言っていました」
「光栄だよ」
エレベーターを降りて探偵事務所へ向かう。町子さんが長すぎるほど長い暗証番号を入力するのを待って、彼女に続いてその部屋へ足を踏み入れた。
「コーヒーと紅茶、どっちを飲む?」
「ではコーヒーを」
少しして町子さんが淹れてくれたコーヒーが出された。カップがテーブルに置かれるのを待ってから僕はソファに腰かける。今日は事務所側の席ではない。依頼人、つまり客用の方のソファだ。そして町子さんがまた窓際の安楽椅子に身体を預けた。気のせいか、エレベーターで話した時よりも少しだけ楽しそうに見える。
「さて、それじゃあ聞かせてもらおうか、Jちゃんが出した答えというものを」
「はい」
僕は一つ深呼吸を挟んで、話し出す。
「まず初めに、僕が俵山さんに聞いた話をツバキにした時、彼女が気になったことを述べたいと思います」
「ワンコ君さぁ、むやみやたらに依頼内容を話されちゃあ困るよ。そいつは守秘義務に反するってもんだ」
「すみません。けれどもう訴える人はこの世にいませんよ」
「それもそうだ。けれどね、君にはできることならこれからも私の仕事も手伝って欲しいと思っているのさ。だから依頼人に聞いた話は絶対に他人に話さないで? これ、お姉さんとの約束ね」
「分かりました。約束します」
彼女のからかうような話し方は相変わらずだが、今はそれに付き合っている場合ではない。気を取り直してツバキの話を続ける。
「ツバキが気になったのは、例のK島での大量殺人の件――それを誰が調べたのかという点です」
怪談話でよくある矛盾だ。登場人物の全員が死んでしまった。その幽霊を見たものは必ず殺されてしまう。では、その話を観測したのは一体誰なのだろう? つまり、今回の件における記録者とは……?
「K島には日本企業があったんだから、そこの人じゃない?」
「はい、調べたところ、公式記録にもそうありました。だとしても、松島青年と、例えば宿の少女との会話はどうでしょう。あれだけ細かなこと知っているのは、少なくともあの村にいた人間だけだと思います」
「なるほどなるほど」
町子さんはうんうんと頷きながら続けるように促す。
「では一体誰が記録をとったのか。そして依頼人の俵山さんはどこでそれを知ったのか」
ツバキが調べたどの資料にも松島さんに関する記述はなかった。死亡者リストにあったのは彼の名前と、それから彼が日本人学生だったという情報だけだ。
「俵山さんの話によれば、松島さんは島に到着して宿に一泊し、その後環境調査へ。そしてその翌日の明け方亡くなっています。しかし、これは妙です」
「どのあたりが妙なんだい?」
「もしも工業廃水が井戸水に浸透した結果起きたことなら、それはある日突然起きるものじゃありません。段階的に起きるはずです。なので上陸間もない松島さんが、井戸水が原因で死亡するのはおかしい話です。また、他の住民に関しても、まるで示し合わせたように一晩で全滅しています」
資料の中には島の住民がいつ、どのようにして亡くなったのかというのを記録しているものもあった。事件直前の島で、不審な死に方をした人間はいなかったし、その数や原因もこれといって変わった点はなかった。
「つまりワンコ君――もとい、Jちゃんは村人が死んだ原因が他にあるというんだね」
「いえ、あくまで毒は井戸水にあったと考えています。しかしそれは工業廃水が原因ではありません」
「というと?」
「誰かが井戸に毒を入れた」
ツバキの推理はシンプルなものだった。
村人が一斉に死亡したのは、誰かが井戸に毒を入れたから。K村の住民が水を得る方法は実質的にその井戸しかなく、時間差で中毒を起こす薬物を混入させておけば一晩で村を全滅させることができる。
ところが松島さんの行動記録に細かさを考えると、彼の死の直前まで彼と共にいた生存者がいたに違いない。
「1970年代の事件となると、現在は60歳以上。加えて松島さんの日本語を理解することができ、彼と接触があった人物――そんな人間は、一人しかいません」
通訳として活動し、松島さんの動向に詳しい人物――僕の中に、一人の人物像が浮かび上がる。亡き夫のモーニングリングと結婚指輪をお守りのように首に下げ、上品な佇まいの老婦人。
「松島さんを含め、あの村の人間の全てを殺害したのは、依頼人――俵山良子さんです」
静かに告げたその言葉に、町子さんは一瞬息を呑んだかと思うと、やがて柔らかな笑みをこちらに向けた。まるで難問を解いた生徒を満足げに見る教師のように。
「君は俵山さんの素性についても知っているんだね?」
僕は視線をテーブルの上にコーヒーカップに固定したまま続ける。
「ツバキの知り合いに、情報屋をやっている人がいます。その人に調べてもらいました」
ツバキがシンジを走らせた先はこの情報屋だった。詳しくは教えてもらえなかったけれど、ありとあらゆる個人情報に精通し、公的記録を調べることも可能な人物なのだそうだ。そんな情報屋が調べ上げてくれた俵山さんの情報で、最も興味深いのは、彼女が日本の生まれではないということだった。
「彼女がニ十歳の時に日本国籍を取得しています。亡くなられた旦那さんとも、日本に来て知り合ったそうです」
国籍を入手するにあたって、彼女は名前を変えた。そして元の名前というのも、ある程度見当がついている。
「俵山さんの元の名前は、Cがイニシャルなんじゃないですか?」
つまり、松島さんが滞在した宿の少女が、過去の俵山さん本人だというのが、ツバキの推理だった。歳の頃も完全に一致する。語学に堪能で、松島さん本人とも交流があった人物。俵山さんがあの少女Cであり、井戸に毒物を混入したのだとすれば、全てのことに辻褄が合う。
そして町子さんが三日間の調査期間を設けたのも、そのことに気付き、裏付けをするためだったのではないか。
「俵山さんは松島さんのことを友人に聞いたと言っていました。でも、それって、大抵は自分のことを話す時の常套句じゃないですか」
俵山さんが関ヶ原探偵事務所を訪れたのはきっと、過去の罪を告白するためだったと思う。愛する人物に先立たれ、ついに過去の過ちを公にする覚悟をしてきたから、その最後の引導を渡してもらうために、名探偵と名高い町子さんの元を訪れたのではないか。
「だから、その全てが果たされた時、彼女は自ら命を絶ったんじゃないでしょうか」
ここまでの推理を、町子さんは否定も肯定もしなかった。その代わりにゆっくりと立ち上がると、こう尋ねた。
「仮に君の言うことが正解だったとして、俵山さんが村人を皆殺しにする理由はなんだい?」
「彼女は、きっと島を出たかったんです。自分の夢のために」
これも情報屋に調べてもらったことだが、松島さんに依頼をした大学教授というのが、実は事件の数カ月前に一度K島を訪れていたのだ。そして、もしもそこで俵山さんと接触を謀っていたとしたら――いや、接触していて然りなのだ。彼女は宿で働いていたのだから。ひょっとすると彼女に日本語を教えたのも、その大学教授なのかもしれない。だが、とにかくその教授は、俵山さんに毒を井戸に入れるように指示したに違いないのだ。
「おそらくその教授は、俵山さんに自分のいうことをきいたら日本国籍を取得できるように口添えする、名前も変えられるよにする、語学を学ぶための当面の資金を提供する、と提案したのでしょう」
「その教授がそこまでやる理由は?」
「島で活動していた日本企業に復讐するというのが、彼の目的でした」
大学教授の娘さんが、事件の二年前に亡くなっていた。表向きは事故死として片付けられているけれど、その死に
その企業に対してバッシングはあったようだけれど、確たる証拠もなく、事件はやがて風化してしまった。そして娘を失った大学教授はそれを許せなかった。だから水質汚染に見せかけて島民を殺害することにより、K島での企業活動を停止させようと思った。
「ここまでが、ツバキの推理です」
僕にはあの老婦人がかつて大量殺人を行ったとは、とてもではないが考えられなかった。しかし当時のことを調べれば調べるほど、ツバキの話を聞けば聞くほど、俵山さんが犯人としか思えなくなっていった。
ただし、いくつか説明のできないこともある。俵山さんが自ら命を絶ったのは分からないでもないけれど、しかしK島での殺人で、彼女はどうして松島さんまで手にかける必要があったのだろう。もっと言えば、どうして大学教授は松島さんをK島に派遣したのだろう。
「いやはや、まったく恐れ入ったよ」
町子さんがゆったりと手を叩いて称賛する。僕にはその乾いた音が哀しく聞こえてならなかった。
「Jちゃんに伝えてくれない? 見事な推理だったって」
「それじゃあ、今のが、真相だっていうんですか」
「その通りだ。若干の補足は必要だけどね」
「補足、ですか……」
「君が言っていた説明のつかないことについてさ」
「町子さんにはそれが分かっているんですか?」
「確証はなかった。あの日の朝までは」
彼女の言うあの日の朝というのは、おそらく俵山さんが遺体で発見された時のことを示すのだろう。
町子さん仕事机の引き出しを開けると、中から封筒を取り出した。そしてそれを差し出してきたから、僕は受け取った。封筒の中には便箋が入っていた。どうやら手紙のようだ。
「これは?」
「俵山さんが遺した遺書さ」
「でも、それは遺体と一緒に警察に保管されているはずじゃあ……」
「中を見れば分かるけれど、そっちが偽物だったんだよ。私のところに送られてきた、それが本物さ」
そう言って町子さんは再び安楽椅子に深く腰掛けた。
僕は封筒から便箋を取り出す。
――そこには、事件にまつわる全ての真相が書かれていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます