松島青年、K島上陸
1970年代のとある夏の日のできごとである。
「お客さん、もう直ぐK島だよ」
老いた船頭がそう言った。いや、正確には酷く訛った英語だったので松島には聞き取ることはできず、何となく雰囲気で察したにすぎない。もしかしたら一刻も早く地に足をつけたいという彼の願望がそうさせたのかもしれないが、そんな可能性を考える余裕さえ、今の彼にはなかった。
一抹の希望を胸に顔を上げると、確かに船の先に小さな島が見える。ああ、あれだ。あれが目的地のK島だ。松島は狼狽しながらも、ようやく少し胸を撫で下ろした。
K島は東京の半分――およそ1000㎢ほどの面積の島だ。東南アジアの海にポツンと浮かぶその島は、二、三の集落があるだけの平凡なものだったのだが、ここ数年で劇的にその内情を変えた。
島の情勢を変えたのは、ひとえに日本のとある企業が原因だった。というのも、島で採れる希少な鉱石資源を求め、数年前、その企業が採掘場と工場を設けたのだ。おかげで今では頻繁に島外の人間が出入りするようになってしまった――船頭はそんなことを松島に話した。
「それで、アンタの目的は? どうしてK島へ行く?」
採掘場や工場に勤めている人間には見えないが……とでも言いたげな訝し気な眼で船頭が松島を見つめた。無理もない。松島は今年一浪してようやく大学に入ったばかりの、どちらかといえば貧相な体格をした青年なのである。
「アンタ、運動家か何かじゃないだろうね」
「まさか、そんなんじゃありませんよ」
船頭の言葉を、松島は即座に否定した。運動家という言葉に彼はすぐにピンときた。なるほど、島には日本人がかなり出入りしているらしいから、彼らにでも聞いたのだろう。松島はそう一人で納得した。
「むしろ僕はそういった活動が嫌で、ここに来たようなものですから」
松島青年はそう言って小さく笑みを浮かべてみせた。
この当時の日本では大学生による学生運動が盛んに行われていた(と言っても既に下火になりつつあったのだが)。一種の流行で、これに参加せねばはじきものにされるという流れすらあったが、しかし松島には全く興味が持てない事柄だったのだ。それよりもむしろ勉学に励みたい。それが彼の願いだった。
だからこそ、その誘いは彼にとってまたとない機会だった。お世話になっている教授の一人が、彼にK島の環境調査の依頼をしてきたのだ。聞けば採掘場と工場ができた影響で、島の生態系が乱れてきているのだという。それは仮説にすぎなかったが、その検証をするため、元来生物が好きだった彼は一も二もなく依頼を引き受けた。それには学生運動の流行から逃れたいという希望も含まれていたのだろう、と彼は自己分析している。
「まあ、何でも良いが、あまり面倒は起こさんでくれよ」
「ええ、分かっていますよ。お心遣い感謝します」
松島が不慣れな英語でそう答えると、船頭はあとは何も言わなかった。そっけない態度だが、よそ者を歓迎しないのは田舎ではありがちな話だ。田舎育ちの松島にはそれが分かったから、彼もまた、それ以上何かを言及することはなかった。
松島が宿泊地として選んだのはI村という、K島で最も大きな集落だった。日本企業の世話になろうかとも思ったが、彼に環境調査を依頼した大学教授が止めたのだ。環境調査と言えば、開発を進める企業にすれば気分の良いものではないし、何より国内外の大学生に対する警戒が強まっていた時期だからである。
I村には幸いなことに宿があった。企業の侵入と共に島外の人間が増えたことから生じた商売である。若くして夫を亡くした女と、その娘である十六の少女が経営する宿だった。
幸いなことに宿に松島以外の客はなく、彼に当てがわれたのは一番良い部屋だった。一番良いと言っても、日本のホテルなどとは比べ物にならないほど安っぽいものだ。あるのは小さなテーブルと固いベッドだけ。風通りは良いが日差しは相変わらず強く、これは慣れるまで相当厳しい生活を強いられるな、と松島は思った。
荷物を部屋に運んだところで、娘が松島に尋ねた。
「お客さん、日本の人?」
「え、ああ、うん、そうだよ」
松島は驚きつつ頷いてみせた。彼がなぜ驚いたのか――少女の話した言葉は日本語だったからだ。
「ええと、君は……?」
「私はC、日本語は、日本人のお客さんから教えてもらったの」
Cと名乗った少女はそう言って松島にはにかんでみせた。太陽のように眩しい笑顔だ。それにちょっと習った割りには上手な日本語だと、松島は素直に感心した。
「私もいつか日本に行ってみたいって思っているの」
「へえ、行けると良いね」
「ちょっとずつお金も貯めてるんだ。ねえ、日本は豊かな国だから何でも手に入るんでしょう?」
その質問に松島は思わず少し考えてしまった。確かに物質的な面から見れば、今の日本はこの島よりも豊かなのだろう。しかし精神面ではどうだ? 先の大戦から二十年経過しているが、そこに住む人間の心は、果たして戦中に比べて脆弱になっているのではないか? そんな疑念が彼の脳裏を過った。
松島は、そんな内心の焦りを外に出したくないと感じた。荒んだ大人ならともかく、相手は純真無垢な少女である。だから彼は曖昧な笑みを浮かべて、
「そうだね……いつか日本に行けると良いね」
そう答えて少女にチップを渡すことくらいしか、彼にできることはなかった。
翌日、松島は早速環境調査に赴くことにした。調査といっても、松島はその島の生態の専門家ではない。あらかじめ大学教授に指示されていた植物のうち、三分の一も採取できずに日暮を迎えてしまった。
さて今日はこのぐらいにして宿に戻ろうかと腰を上げたところで、彼は視線の先に一つの井戸を見つけた。なかなか立派な作りで、しかも新しい井戸だ。現地の人間だけでここまでのものを作れたというのは考えにくいから、きっと件の日本企業が友好の証として建設したものだろう。
井戸を見て松島は水質調査も依頼の内容に含まれていたことを思い出した。工業廃水が島の川に流れ込んでいるのだという。それが環境にどれほどの影響を与えるのか。川と、それから井戸の水も採取しなければならない。
井戸は村の外れにあった。そこから少しでも林の方へ入れば人気はほとんどなかったのだが、その井戸のある場所だけは例外で、村の人間が何人も水を汲みに来ているのが見て取れる。松島はその中に知った顔を見つけた。何てことない、宿の娘である。娘は既に水を汲み終えたようだった。松島は近づいていって、少女に話しかけることにした。
「こんにちは」
「あ、松島さん! こんにちは!」
「水を汲みに来たの?」
少女持つポリタンクを指さして彼は尋ねた。
「はい。私の仕事なんです」
「そうか、偉いね」
「いえいえ、そんなことないですよ」
驚くことに、この少女は日本語を話せるばかりか日本式に遠慮や謙遜というものも心得ているらしい。よほど日本という国に憧れているのだな、と松島は思った。それに親孝行でもある。今時、日本がどれだけ物質的に豊かになろうとも、これほどまでに良い娘はそうそういないだろう。
「どれ、宿まで僕が水を運んでいってあげよう」
松島はそう提案した。それは彼の純粋な親切心からだった。松島がいくらひ弱な、勉学しか取柄のない青年だったとしても、目の前の少女よりは腕力があるつもりだ。
「いえ、お客様にそんなことをしてもらうわけにはいきません!」
「僕なら大丈夫。さあ、そのタンクを渡してごらん」
松島はそう言うや否や、少女が抱えるタンクを半ば強引に引き受けた。少女のために何かしてあげたい。彼は心からそう思ったのだ。それが少女にも伝わったのだろう、彼女は黙って松島にポリタンクを預けた。
ポリタンクはずしりと重かった。いや、普段の松島ならばどうということのない重量だったのだが、生憎とその日は環境調査のための道具が入ったバッグを背負っていた。それらは一つ一つならばさして問題ではないが、二つ同時となると少々厳しいものがあった。だがしかし、一度少女から引き受けてしまった以上、投げ出すわけにもいかない。年下の娘に対する見栄のようなものも手伝って、松島は一層奮起する他なかった。だから彼らが宿に着く頃には、松島は背中にびっしょりと汗をかいてしまっていた。
とはいえ、善行をしたのは事実である。彼はその事実と、少女からの礼の言葉だけで十分だった。夕飯を食べ終えた彼は、その満足感を胸に眠りについた。
――事件は、その晩に起こることになる。
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