依頼人登場

 部屋を訪ねてきたのは町子さんの言う通り、上品な佇まいの老婦人だった。正確な年齢は分からないけれど、身に着けた衣服や化粧、何よりも真っ直ぐな姿勢やはっきりとした話し方が、彼女を実年齢以上に若く見せている気がする。


 婦人を通した町子さんは――僕のものと一緒に準備していたのだろう――紅茶を婦人の前に出すと、再び安楽椅子に深く腰掛け、そしてこう切り出した。


「ようこそ関ヶ原探偵事務所へ。ご連絡頂いていた俵山たわらやまさんですね」

「ええ。――貴女が関ヶ原町子さん?」

「はい、そうですが」


 町子さんはニコニコとした笑みを浮かべながら頷いてみせた。彼女のこの表情は話し相手の緊張を解くための一種のポーズのようなものだと思っていたけれど、今日はいっそう楽しそうだ。それほどまでにこれから聞かされる“謎”というのは魅力的なものなのだろうか。


 とはいえ、今日の僕は事件の被害者でもなければ容疑者でもない。当事者からは一歩引いた位置にある、傍観者と言っても良い立場だ。だが、ただ町子さんと俵山さんの話しを呆然と眺めているわけにもいかない。記録係という重要な役目を振られた以上、せめてその義務だけは果たさなければ。そう思った僕は鞄からメモ帳と筆記用具を取り出した。


「このような若輩者ですが、間違いなく力になることをお約束しますよ、ミセス俵山」

「ミセス?」


 と、俵山さんは訝し気な顔を示した。その言葉には僕も引っかかりを覚えた。というのも目の前の老婦人は別段結婚指輪をしているわけではない。他にも彼女が結婚をしているということを示すような情報は見当たらないのだ。


「あ、失礼しました。もしかして離婚届けを提出なさっていましたか?」

「いいえ、そんなことはないけれど……」

「では、英会話的にはではなくで正しいですね。ご主人とは仲が良かったようで、何よりです」


 僕は尋ねてみた。


「あの、町子さん、どうして俵山さんが結婚していると? それに、その口ぶりだと、その……」

「ミセス俵山のご主人は亡くなられているよ。少なくとも一年ほど前に、ね」


 そうなんですか? という疑問の意を込めて僕は俵山さんの方を見た。すると彼女は静かに頷いて、自身の胸元を撫でた。


「関ヶ原さん、貴女は主人をご存知なのかしら」

「いいえ、まさか。見たことも聞いたこともありません」

「では、どうして……?」

「貴女の左手の薬指を見たからです」

「薬指?」


 聞き返したのは僕だった。俵山さんの指なら真っ先に確認したけれど、やはり指輪なんて存在していない。


「けれど左手の薬指だけが、他の指に比べて僅かに細い。長期間指輪をしていた証拠だ。ではその指輪はどこへ行ったのか」


 町子さんの視線が真っ直ぐに婦人の胸元に伸びる。


「ミセスは先程から何度も胸を撫で下ろす仕草をしていますね。それはそこに指輪があるからでは?」


 胸元に指輪が? チェーンでも通して首から提げているということだろうか。言われてみれば婦人の首には細いチェーンがかかっているのに気が付いた。だがその先までは見えない。


「私が心臓が悪いという可能性は?」

「無きにしも非ず。ですが、まあ、まずないでしょう。貴女は姿勢も発声の仕方も良い。とても病を抱えた人間には見えませんし、もしもお身体が悪いのであれば、椅子についた直後に身体を労わる動作をするはずです。ところが貴女は私の話に反応して胸を撫でているように見えます」

「話を続けてちょうだい」

「はい。――指輪を長期間はめていたというのは先程お話ししましたが、しかしその箇所は他の部分の肌と同じ色だ。これは指輪を外してから久しいということを示しています。では、なぜ指輪を外したのか。そして外した指輪はどこへ行ったのか」

「あの、死別ではなく離婚の可能性は?」


 と、僕が口を挟んだ。しかし町子さんはすぐに首を横に振って否定した。


「ないことはないけれどね、彼女の年齢を考えれば死別したと考えるのが自然だよん。それに何より、ここに来たのが確かな証拠だ」

「ここに来たのが証拠?」

「普通、離婚済みの人間は探偵事務所なんて訪ねない。離婚にむけての準備というのなら分かるけれど」

「あ、そっか」


 そういえば、離婚調停で有利になるように探偵を雇って相手の情報を集めるという話を聞いたことがある。しかし指輪を外しているということは、既に離婚が成立しているか相手が亡くなっているということだ。死人と離婚するのにわざわざ探偵を雇うなんてことはしないだろう。


「正確には死人とも離婚は成立するけれどね。そうするか否かでか変わってくる」


 そうか、だからさっき、念のために確認したのか。


「まあ、不必要な確認だったかもしれないけれど……」

「はい?」

「ああ、いや、何でもない。それで、もう一つの問題点、外した指輪はどこへ行ったのか」


 町子さんの表情がそれまで推理を語った真剣なものから、イタズラめかしたような表情にケロッと変わった。


「実はさっきお茶をお出しした際、後ろを通った時にちらっと見えてしまったんです。首に掛けた二つのリングが」


 ということは、ここまで町子さんが話した推理はデタラメ? 既に答えを知っていてそれを話していただけならそれほど簡単なことはない。けれど、それが不正と呼べるものだったとしても、僕は町子さんを責める気にはなれない。そんな情報なんてなくても、彼女ならきっと遠からず同じ答えに辿り着いていただろう。


 さておきここで気になることは別にある。


「リングが?」


 一つは結婚指輪だろう。では、もう一つは?



 はっきりとした口調で町子さんが答える。


 モーニングリング? 直訳で朝の輪……ってどういうことだ?


「モーニングはmorningじゃなくてmourning。朝じゃなくて、悲嘆、哀悼、喪に服すって意味の単語ね」

「死者を弔うためのリング」


 だから婦人の旦那さんが亡くなっている、と。


「元々はキリスト教の文化らしいね。まあ、今では少しマイナーなものになってしまったらしいけれど、俵山さんの場合は通訳として世界中を飛び回っていたらしいですし、その時に知ったのでは?」

「ええ、貴女の仰る通りです、驚きました」


 そう言って俵山さんは柔らかな笑みを浮かべて見せた。町子さんへの第一印象として、探偵としてはあまりにイメージに乖離している。若さや性別、極めつけはあのエキセントリックな髪色なのだから無理はない。しかしどうやら俵山さんにはその類稀なる推理力を認めてもらえたようだった。


 俵山さんに付け加えられた話によると、彼女のご主人は一年程前に心不全で亡くなったのだという。生前の関係性は町子さんが言っていた通り良好だったそうだ。モーニングリングについては俵山さんがヨーロッパにいたころに知った文化で、そのことを彼女のご主人も知っていた。そして遺言で自分が死んだらモーニングリングを作って覚えていて欲しいと遺し、俵山さんはその言葉に従ったのだそうだ。


「やはり、お噂に違わぬ推理力をお持ちのようですね。ここに来て良かった」


 その言葉を聞いた町子さんは満足げな笑みを浮かべ、そして両手の指先を合わせると、改めて俵山さんの方を向き直した。


「さて、私の元を訪れたということは、何か事件についてのお話しがあるのでしょう? お聞かせ願えますか」

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