関ヶ原探偵事務所

 町子さんがタクシーで来いと言うので、僕はその言葉に従った。料金は彼女が払うと言ってくれたけれど、借りを返しに行くのにそこまで至れり尽くせりというのではいけないだろう。幸い初乗り料金で到着できたから、その分は僕が払うことにした。


 町子さんに言われた住所は学校近くにある高層マンションだった。具体的な数字は分からないけれど、その辺りの地価はかなり高いことで有名だ。そのマンションにしたって見たところ築数年ほどの新しいものだし、上の方の階ともなれば一体いくらになるのか……。


 そんなことを考えていると、僕は入り口の辺りに一つの人影を見つけた。若い女性がちょいちょいと手招きをしている。綺麗なエメラルドグリーンの髪色をした女性である。観察するまでもない。あんな風なエキセントリックな髪色を選択する女性を、僕は一人しか知らない。


「お待たせしました、町子さん」



 僕はそう言いながら彼女の元に駆け寄った。

 今日の町子さんは白いパンツに白いニット、そしてその上に薄い白のコートを羽織った純白のスタイルだ。本来ならばその服装だけでかなりの存在感を出すのだろうけれど、しかし彼女の髪色の前では服のインパクトなど霞んでしまう。


 彼女は壁に預けていた背中を持ち上げて僕を迎えた。


「やあ、ワンコ君。よくぞ来てくれたね」

「いえ、お安い御用です。ところでここって……」


 僕は目の前の高層マンションを見上げた。外から見たのでは一体何階まであるのかも分からない。首が疲れるどころかそのままひっくり返ってしまいそうだった。


「詳しいことは移動しながら話すよん。さあ、入った入った」

「ああ、ちょっと!」


 町子さんに無理やり手を引かれる形で僕はその高層マンションに足を踏み入れた。


 エントランスホールは高級ホテルのように綺麗で、天井にはシャンデリアまでかかっている。その中を町子さんは僕の手を引きながら慣れた足取りでずんずんと進んでいく。まるで我が家のように。いや、まさか一介の大学生の住めるようなところではないと思うけれど。そんな疑問にも近い予感を抱いたのが伝わったのか、エレベーターに乗ったタイミングで彼女が説明してくれた。


「お察しの通り、ここは私の家だよん」

「家って……ここに住んでいるってことですか⁉」


 一体、どういう経緯で……? 実家がお金持ちとか、だろうか。兎にも角にも僕は町子さんのことを知らなすぎる。


「まあ、概ね君の言う通りだね。ただし自宅というのは少し違う」

「そうなんですか?」

「大学やら事件の調査やらで留守にすることが多いし、休むにしても外泊がほとんどだからねぇ。だからここは、むしろ探偵事務所ってやつさ。シャーロック・ホームズを思い出してごらん? 事務所なんて物語の初めに出てきてそれっきりだよん。それは私の生活においてもまた然り」

「そういうものですか」


 いやいや、と僕は思わず首を横に振った。納得しかけてしまった。町子さんの話を一般的な大学生の一人暮らしの一例として捉えてはならない。僕自身も大学進学を考えているから大学生の生活には興味がある。しかし、そのイメージをついつい町子さんに重ねてしまうのは間違いだ。彼女は明らかに異質な存在である。


 エレベーターは驚くことに(というよりむしろここまできたら驚くものなど何もないのだが)、最上階で停止した。町子さんの言う探偵事務所というのは、どうやらこの階にあるらしい。


 エレベーターを出て歩くこと約十歩。1005というナンバープレートの下に、「関ヶ原探偵事務所」と高級マンションには似合わないような安っぽいシールが貼られた部屋を見つけた。いかにもお手製って感じだ。


「将来的には関ヶ原法律事務所って変えるつもりだけれど、ま、とりあえずは探偵事務所ってことで」


 彼女はそう言いながら電子キーに暗証番号を慣れた手つきで入力していく。手元を見ていても到底覚えることはできないほどの一体何桁なんだという長い暗証番号だったけれど、彼女の指先には迷いがない。それは慣れのせいなのか、彼女の頭脳がなせるわざなのか。


「それにしても、関ヶ原って苗字は嫌いなんじゃなかったんですか?」

「あー、うん。でも事務所の名前が町子探偵事務所とか町子法律事務所とかだと格好つかなくない?」

「まあ」


 カタカナにすれば何とか格好つきそうだけれど……マチコ探偵事務所。でもそれだとむしろ可愛らしいイメージの方が強くなるかもしれないな。


「あ、そうだ。良いこと思い付いちゃった」

「良いこと?」

「ワンコ君が私のことをお嫁さんにしてくれれば良いんだよ! そうすれば苗字が変わるじゃない!」

「ハァ⁉ い、いい、いきなり何を……」


 結婚⁉ 僕が? 町子さんと? 犬山町子になるの?


「なーんてね。てか、私、ワンコ君の苗字覚えてないし」

「なんだ、冗談ですか……」


 心臓に悪い……というか、未だに僕の苗字を覚えてなかったのか。それもそれでショックだけれど、まあ、彼女が人の名前を覚えないのはいつものことだ。


 玄関を入ってまず僕が思ったのはその部屋の広さと天井の高さだ。外から見たのでは分からなかったけれど、町子さんの住んでいるところには少なくとも五つは部屋があるように思えた。その内の一つ――玄関の正面の部屋に僕は通される。正直他の部屋も気になるけれど、あまり女性の私室について詮索するものではないだろうということで、ここではぐっと好奇心を抑え込むことにする。僕はどこかの名探偵のように好奇心に貪欲ではない。


「わあ! すごい部屋ですね!」


 部屋に入った僕の目にまず飛び込んできたのは、大きな窓ガラスであり、そこからは街が一望できた。そろそろ陽が暮れる時刻ということもあり、街には点々と明かりが灯りつつある。あと一時間もすればさぞ美しい夜景を望めるだろう。


 景色以上に驚いたのはその部屋の内装の方である。僕が文芸部に入ったのはその部室が物語に登場する探偵事務所のようだったからだけれど、その点で言うと町子さんの部屋も負けず劣らず魅力的だった。


 天井にはシャンデリア型のライトがあり、柔らかな光が部屋を包み込んでいる。およそ十畳ほどの部屋の中心には来客用と思われるテーブルと、それを挟む形で椅子が置かれ、両方ともかなり高そうなブランドものに思われた。窓際には仕事用と思われる机が置かれ、そこには事件の資料か何かなのだろう、いくつもの紙の束や本が今にも崩れそうなほど積み重ねられている。


 床の一部には熊の毛皮が敷かれ、壁際に置かれた大きな本棚にはありとあらゆる学術書が並んでいる。少し意外なのは本棚には小説の類がまるで見られないということだけれど、仕事で使う部屋ということなら納得がいく。きっと趣味の小説などは他のプライベートルームにあるのだろう。読書好きの僕としては部屋の内装と同じくらいに気になるところだ。


「まあまあ、かけたまえ、ワンコ君」


 町子さんはそう言って、僕が部屋に見惚れている間に淹れてくれたであろうコーヒーを部屋中央のテーブルの上に置いた。僕は促されるまま、コーヒーの置かれた席に、丁度窓に背を向ける形で腰かける。


 僕がソファに腰かけたのを尻目に、町子さん本人は窓際の仕事机へ回り込んだ。振り向いてもこちら側からは角度の問題で見えないけれど、仕事机の方にあるのはどうやら安楽椅子のようで、彼女はそこに背中を預けると、ギシリギシリと軋んだ音を立てながら身体を前後させた。


「依頼人は五時半くらいに来る約束してるんだよ」

「五時半というと、あと数分ですね。一体どんな人なんです?」

「気立ての良い上品なおばあさんって感じだねぇ。何でも昔は通訳として世界中を飛び回っていたんだとか」

「そんな人が一体どんな用件なんでしょうか」

「私もまだ話の概要しか聞いていないんだけれどね、何でも過去にあったとある事件について重大な証言をしたいんだってさ」

「事件? 重大な証言? それは警察に相談しなくても良いんですか?」

「その辺も含めて相談したいんだって。まあ、私としては謎さえ解ければそれで十分なんだけれど。何でもかんでも警察沙汰にすれば良いってものでもないでしょうし」


 そういうものだろうか。僕にしてみれば公的機関に頼れるのならば頼った方が良いと思うのだけれど……いや、僕個人に関して言えば、少なくともその法則は当てはまらないか。僕は公的機関(主に警察)に頼ろうとすると、十中八九犯人扱いされてしまうのだ。その依頼人の御婦人というのが、もしも僕と似たような性質を持っているのだとすれば、警察に相談するのを躊躇うのも頷ける話だった。


「ところで君は人の死ぬ話は苦手かな? グロいものへの耐性はあるの?」

「何ですか、突然」

「まあまあ。で、どうかな」

「まあ、普通ですね。ゾンビものの映画とかも見ることがありますし、特別苦手というわけではありませんけれど」

「そっか、それは良かった」

「それがどうかしたんですか?」

「いや、なに、これから来るご婦人というのが持ち込む話は、どうやら多数の死人が登場するらしいからねぇ。一応、確認しておこうって思って」


 画像や動画ならいざ知らず、人から伝聞されるグロイ話や怖い話というのは、どうにも迫力に欠けるものだと思う。いや、噺が上手い人はすればまた別なのかもしれないけれど。


 そんな話をしていると、インターフォンが鳴った。町子さんが立ち上がり、壁のパネルを操作して対応する。そして一言二言交わすと僕の方を振り向いて口を開いた。


「さて、ワンコ君、仕事の時間だ」

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