消失/100冊の本

開幕

 どうやら僕の物語というものは、どうしようもなくピンチから始まるらしい。


 四月二十五日。白羽女学院での災難から五日が経過した、とある平日のことである。いや、あるいは既に二十六日になっているかもしれない。まさか二十七日にはなっていないと考えたいけれど、現在の危機的状況を鑑みるに、まったくあり得ない話でもなかった。


 危機的状況。現状確認。


 積み重ねられたコンテナや大きな麻袋の数々――どこかの倉庫? ここ最近は温かな日和が続いていたにも関わらず、倉庫内の空気は冷たく、埃の臭いが充満している。そして僕の両手首を後ろ手に固定する手錠も、同様の冷たさを持っていた。冷たいついでに言うならば、僕の背中を流れる汗も冷や汗だ。


 その暗闇の中で、僕は目を覚ました。どのくらい眠らされていたのだろうか。というより、どうして僕がこんな目に……。確かに僕はちょっとした不幸体質だけれど、しかしここまであからさまな刑事事件に――それも被害者という立場で巻き込まれる謂れはないぞ。


 いや、もはや“ちょっとした不幸”という段階は既に超越している。先日の下着泥棒の罪を擦り付けられた時よりも、よほど事態は深刻だ。あれは確かに僕の人生を終了させるような出来事だったけれど、それはあくまで比喩的な表現で、対して現在の僕はというと、まさしく命の危機である。


「目を覚ましたようだね」


 声がしたかと思うと、無数の光が一斉に僕を襲った。


 きっと夜の工事現場なんかで使われている大型のライトだ。そのライトが複数同時に向けられているのだから、眩しいを通り越して目頭が痛くなるほどだった。暗闇から煌々たる世界に一気に引きずり出されるというのは、ここまで辛いものなのか。僕は何となく陽の下に身を晒した吸血鬼の気持ちを想像した。


「手荒な真似をしてすまない。何分、私も立場がある人間なのでね、特定の誰かと会っているところを迂闊に目撃されるわけにはいかないんだ」


 声は女性のものだった。低く、平坦な女声。


 謝罪を口にしながらも、その口調からは誠意は感じとれず、むしろ事務的な冷たい印象を受けた。それと同時に、語りかけてくるその人物はおそろしく頭のキレる人間だと僕は直感した。頭が良いだけではなく大胆不敵――それは僕の敬愛する名探偵にも共通している要素だけれど、しかし関ケ原町子と現状僕が対峙している人物は、もはや真逆と言っても過言ではない雰囲気を醸し出している。


 関ヶ原町子が光ならば、今目の前にいる人物は影だ。


 僕は尋ねた。


「ここは、どこです?」

「心配はいらないよ、犬山城太郎君。君の学校からそう離れた場所ではない」


 僕の名前を知っている?


 いや、計画的な犯行だったのは確かだ。一人の人間を気絶させ拉致したのだから、むしろ計画的でなければおかしい。だが目の前の人物の言うことを信じるならば、現場からそう遠くない場所に監禁されているということは、少なくとも彼女は僕のことを解放する気はあるのかもしれない。ならばここは一旦話を続けよう。


「用件は何ですか? 僕をこうまでして連れ出して、一体何をしようって言うんです?」

「話が早くて助かるよ。我々が求めているのはただ一つ――関ヶ原町子のことだ」


 光と影が繋がった。


 いや、光があるからこそ影があると言うべきか。両者は対であり一心同体なのだ。正義があるから悪がある。町子さんは限りなく正義の側にいる人間だけれど、目の前の人物は――少なくとも光の側ではないことは確かだ。


「僕に一体何をさせようって言うんですか」

「簡単だ。関ヶ原町子の動向を逐一知らせてもらえれば良い。彼女がどこへ行ったか、何をしたか――どんな事件に巻き込まれたか」

「つまり、僕にスパイをしろって言うんですか、町子さんの」

「その通り」


 彼女は臆面もなくそう言い、頷いた。


 ようやく目が慣れてきたのか、光の中にぼんやりと影が浮かび上がってくる。声の主はやはり想像した通り女性のようだった。尊大な態度の割りには小柄な体格で、黒っぽい衣裳を身に纏っていることや、ステッキをついていることは分かるけれど、肝心の顔はまだ見えてこない。いや、おそらく彼女自身も見せるつもりなどないのだろう。


 ロングのカーディガンか何かなのだろうか、上半身に纏った大きな黒い服はマントやケープを連想させる。とんがり帽子こそ頭に乗せていないけれど、と呼ぶのがぴったりな印象だ。


 僕が答える。


「町子さんを監視して一体どうするつもりなんですか?」

「どうもしないさ。ただし、もしも彼女が一線を越えることがあれば――」

「あれば――?」


 シルエットは小さく肩を竦めてみせる。


「動かざるを得ないだろうな。が」


 


 いや、薄々勘付いていたことだ。いくら不意をつかれたとはいえ、彼女のような小柄な女性では、健全な男子高校生であるところの僕を気絶させるだけならいざ知らず、こんな場所に運び出すのは不可能に等しいだろう。共犯者がいたというのは火を見るよりも明らかだ。


 この目の前の影は組織の――それも犯罪に大きく加担しているであろう組織の人間だ。加えて話し方や態度からして組織の中でもそれなりの立ち位置の人間だということが窺える。


「あなたは一体何者なんです? なぜ町子さんのことを……?」

「当然の疑問だな。そうだな……あえて答えるなら、私と関ケ原町子は同じ種類の人間なのさ。同種の人間の動向を気に掛けるのは、当然のことだろう? ただ、まあ」


 彼女は小さく乾いた笑い声を漏らしながら答えた。


「関ヶ原町子は私のことを“宿敵”と呼ぶだろうな」


 まったく……。


 “宿敵”ときたか。


 つくづく違う世界の話だ。


 しかし関ケ原町子という人物を考えた時に、“違う世界の話”というのはもはや比喩的表現の域を逸している。類稀なる推理能力に加え、警察上層部を動かすだけの人脈――きっと他にもまだまだあるのだろうけれど、僕が実際に目にした数えるほどの項目だけでも、彼女が只者でないということは確信できる。さながら物語の主人公のように。


 そして関ヶ原町子が物語の主役であるというのならば、その“宿敵”もまた存在して然りだ。法を司る機関があるのと同時に、それを脅かす機関が同時に存在しているというのも、この現実の一面の真実なのである。


 女性が、最終通告とも言える低い声で尋ねた。


「さて、答えを聞こうか」


 その問いかけに、僕は――

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