牧村進士と椿木葵

 例えば自分が物語の主人公になったとして、一体何ができるのだろうと考えたことがある。


 犬山城太郎は、少しばかり運が悪いことを除けば、どこにでもいる普通の男子高校生である。身長も体重も平均的。クラスでのテスト順位はいつだって真ん中だし、これと言って秀でた特技があるわけでもない。そんな僕が物語の主人公役を振られたとして、果たして何もできないだろうということが、十六年間の人生で導き出した結論であった。


 対して、関ヶ原町子が特別な人間であるということは、誰が見ても明らかなことだ。髪の毛に関するあの奇抜すぎるセンスもさることながら、何よりも注目すべき事項はあの類稀なる推理能力だ。相当の努力もあったのだと思うけれど、しかしおそらく生まれながらに才能を持ち合わせていたのだろう。きっと物語の主人公とは彼女のような人物こそ相応しい。


 そんなことを登校中に偶然顔を合わせた親友――牧村まきむら進士しんじに話すと、彼は僅かに鼻で笑って、こう答えた。


「シロ、お前はまぁたそんな下らんことを考えているのか」


 シロというのは彼が僕のことを呼ぶ際に使うあだ名である。城太郎しろたろうの頭からとってシロ。どこぞの名探偵につけられたあだ名に比べれば幾分マシではあるものの、法則の安直性から言えばどちらも似通ったものだ。とはいえ付き合いの長さ、つまりそのシロというあだ名で呼ばれた期間が長い分、僕はそのあだ名の方を僅かに気に入っていた。


「お前だって中学の時みたいにテニスを続けていりゃあ、今頃一角の人間になっていただろうに」

「そんなことないよ。僕には才能がなかった。だから高校に入ってテニスは辞めたんだ」

「全中ベスト8のお前が何言ってんだか。未だに勧誘が来るんだろ?」

「まあ」


 とはいえ、僕はもうテニスをやるつもりはない。正直なところは高校テニス界でも通用するものを持っていると思っている。だがしかし、身体的格差はそう易々とひっくり返らない。要は、僕が視て判断したことや頭の中で組み立てた戦略に、身体の方がついてこないのだ。それはトレーニングでカバーできる範疇を既に逸脱しており、つまりもう少し身長が高ければ、もう少し手足が長ければ、といった次元の話である。その限界が見えてしまった以上、遊びでラケットを握ることがあっても、僕にはきっともう本気でテニスに打ち込むことはできないと思っている。


「別に大会で活躍することだけが部活の醍醐味とも思わんがね。遊びで良いから続けたら良かったじゃねえか、テニス」

「まあ、そうかもしれないけれど……そういうシンジこそどうなの。入学した直後はすごかったよね、運動部の勧誘。めっちゃたくさん来てたじゃん」

「正確には“めっちゃたくさん”じゃなくて、“テニス部を除いた全ての運動部”だな。テニス部はお前に夢中で俺には見向きもしなかった」

「それって嫌味?」

「事実さ。――とはいえ、勧誘ねぇ」


 シンジはそう言うと、記憶を辿るようにして視線を宙に向けた。きっと最後に勧誘された時のことを思い出しているのだろう。僕の記憶が正しくて、僕の見ていないところで彼が部活勧誘を受けていないとすれば、シンジが最後に勧誘を受けたのは三日くらい前だったと思う。


「そうそう、バスケ部に誘われたな。まあ、話を聞いたら助っ人みたいなものだったけど」


 主人公に相応しい人といえばまず町子さんが思い浮かぶけれど、しかしこのシンジという男も十分に資格があると言える。180㎝超という高身長に加え、運動神経抜群、学業優秀、おまけに街を歩けばかなりの高確率でモデルスカウトを受けるほどの顔の良さときた。まったく神様というのは不公平だ。彼の才能のほんの少しでも僕に分けてもらいたい。


「まあ、今は俺も部活をやるつもりはないよ。文芸部に入っているのだってお前に頼まれたからだし、気まぐれみたいなもんだ」

「その件に関しては感謝してるけどさ」


 去年の四月。テニス部に入らないことは決めていた僕だけれど、何の部活にも所属しないというのは勿体ない気がしてならなかった。とはいえ他の運動部で汗を流すというのも、何だか違う気がしたし、そういうわけで比較的活動が楽な文化部で手ごろなものを探すことにした。


 そして色々と見て回った末に行きついたのが文芸部なのである。何よりも僕はその部室に魅かれた。およそ十畳の部室の両脇には本棚があり、大量の本が埃を被っている。本は棚から溢れ出し、床や、中央のテーブルに積み重ねられているほどである。にも関わらず部室の隅の小さな食器棚には、どこぞの高級ブランドのティーセットが、それもかなり良い保存状態で置かれていて、まるで何かの映画にでも出てきそうな雰囲気を醸し出していた。


「イメージで言えばシャーロック・ホームズや金田一耕助の探偵事務所に近いよ。それが気に入ったんだよね」


 町子さんに出会う以前の僕は、まさかこの世に実際に名探偵と呼ぶに相応しい人間がいるとは夢にも思っていなかったのだけれど、しかし元来読書好きで、何よりどこかミステリー小説に登場する世界観に憧れを持っていたのだろう。


「聞けば部員は一人しかいなくて廃部寸前だって言うもんだから、僕もついつい入部を決めちゃったんだけどね」

「後悔してるか?」

「まさか。張り合いがあるほど忙しいとは言わないけれど、それなりに楽しく過ごさせてもらっているよ」

「そっか。それなら俺も入部した甲斐があったってもんだ。まあ、幽霊部員なのは申し訳ないけどな」


 そう言ってシンジはその爽やかな短髪の後頭部を掻いた。幽霊部員と彼は言っているけれど、その実結構積極的に部活に取り組んでくれている。出来不出来はともかくとして、毎月の原稿提出は勿論、白羽女学園文芸部との交流会も、彼の伝手があってこそ実現したと言っても過言ではない。そういうわけで僕たち文芸部にとって、この牧村進士という男はもはやなくてはならない大切な仲間と言える存在だった。


「白羽女学園と言えば、この前は災難だったな。下着泥棒に間違われたんだって?」

「まあね。初めて会った時もそうだけれど、今回だって町子さんがいなかったら本当に危なかった」

「お前の不幸体質も相変わらずだな」


 シンジはそう言ったかと思うと、シッシッシとイタズラめかしたように笑ってみせた。彼とは中学以来の付き合いで、僕の不幸体質のとばっちりを受けたこともある。それでも僕と彼が親友関係でいられるのは、きっとお互いの長所と短所が上手いこと噛み合っているからだろう、と僕は勝手に解釈していた。


 しかし、まったく、笑いごとではない。それに僕が不幸だと言うのなら、事件に巻き込まれたことよりもむしろ、一緒に白羽女学園を訪問していたにも関わらず、トイレに行ったきり戻ってこない親友を置き去りにするような奴と友人になったことこそが、不幸と言うんじゃあないか? あろうことかこのシンジという男は、僕があんな事件に巻き込まれていた間、他校の文学少女たちと文芸談義に花を咲かせていたのだ。


「そう怒るなって、相棒。こっちから申し込んだ以上、彼女たちを放って置くわけにもいかんだろう? それに、お前を探しに行かなかったのはツバキも同じだぜ?」

「それはそうだけどさ……」


 釈然としない。


 ツバキというのは、僕たちと同じ二年生で、文芸部の紅一点である。ウェーブがかかった濃いブラウンの長髪、眼鏡の奥には気だるげな眼差し、おまけに猫背……といった決して明るい印象を受けることのない外見だけれど、悪い奴ではないし、面白い奴だ。それに部員の中では最も活動熱心であり、僕のような半端者とは違ってきちんと文学の話ができる女子である。もしも面接で尊敬する人物は誰ですかと尋ねられたら、僕は迷わず彼女の名前を挙げる用意がある。とにかくそれくらいに、文芸部員としてだけではなく、一人の人間としてしっかりとしているのが、椿木つばきあおいという女子だった。


 僕とシンジ、それからツバキ、そして三年生の久我山くがやま部長が現行の文芸部員である。もっとも久我山部長は受験勉強のため今年度に入ってからほとんど部室に顔を出していないから、実質的には三人だけということになるけれど。


 そんなことを考えていると、横を歩いていたシンジが不意に「お」と声を漏らした。


「噂をすれば、ありゃあツバキじゃねえか?」


 言われて、僕も視線を遠くに投げかける。十メートルほど先――校門に差し掛かろうかというところで、他の生徒たちの後ろ姿に混ざってウェーブがかったブラウンの長髪を見つけた。あの低い身長といい、ちゃんと食事を摂っているのだろうかと思わず心配しそうになるくらい華奢な体格といい、あれは間違いなく僕たちの尊敬すべき学友、椿木葵である。


「そんじゃ、ちょっくら挨拶してくるわ」


 シンジはそう言うや否や、僕の脇をすり抜けてツバキの方へ駆け出した。多分、白羽女学園での出来事を追及されるのを避けるためだ。まったく……まあ、あのサバサバしたところもシンジの良い所だとは思うけれど。


 それにしても、と僕は再度前方の二人に目をやった。


 シンジが少女に追いつく。少女は少し驚きつつも、歩きながら読んでいた文庫本から視線を上げる。読唇術は使えないけれど、二人の会話は大体想像できた。


 ツバキ、おはよう!

 おはよう、マキムラ。

 相変わらず歩きながら本読んでるのか、危ないぞ。

 分かってる。大丈夫だよ。

 で、何読んでるんだ?

 ――以下略。


「朝から胃の痛くなる光景だ」


 と呟いた。きっと今の僕は傍から見たら苦虫を嚙み潰したような顔をしていたに違いない。


 牧村進士と椿木葵が並んで歩く――これは良くない。非常に良くない。あるいは文芸部の存続に関わってくることさえあり得るかもしれない。


 だが、まあ、事態が急に動くということもないはずだ。


 僕は自分にそう言い聞かせる。


 勘違いして欲しくないのだが、これは決して二人のどちらかが憎いだとか、もしくはあの二人の仲が実は芳しくないだとか、そういう話ではない。いや、むしろ二人の仲はかなり良い方で、そしてそれがまた問題でもある。


 やがて会話を終えたのか、シンジが慌ただしく生徒玄関の方へ駆けていった。その様子を見て、僕は安堵の息を漏らす。が、安心したのも束の間、僕はシンジが駆け出した理由に気付いてしまった。


 駆け出したシンジは玄関の手前で一人の女子生徒に声をかけていた。とても可愛い女子だ。多分この学校で一番可愛い女子だ。そして僕も彼女のことはそれなりに知っている。彼女と僕、それとシンジは同じ中学出身だ。もっとも、僕と彼女は数えるくらいしか話したことがないけれど。ではなぜ彼女のことを知っているのかというと、それはシンジから伝え聞いたからだ。


 ……つくづく自分の不幸体質が嫌になる。いや、この場合は不幸なのは僕じゃあないか。


 僕は足早に歩を進めると、ツバキの横に並んだ。


「ツバキ、大丈夫?」


 その小柄な少女はこちらを一瞥すると、ふうと一つ息を吐いてまたつまらなそうな視線を文庫本に落としながら、


「なんだ、シロタロウか」


 と応えた。なんだとはなんだ、という言葉を今日ばかりは飲み込む。ツバキはすましたままの表情で聞き返してきた。


「大丈夫って何が?」

「いや、ほら、シンジが、さ」

「……平気」


 良かったー。思っていたよりダメージは……。


「別に……好きになった男がたまたま学校一のイケメンで、たまたま学校一の美少女と付き合っていただけでしょ?」

「いや、あの」

「対して私は? ただたまたま部活が同じってだけで? 分不相応にも恋とかしちゃって? 笑えば良いじゃない、馬鹿みたいって」

「おーい、ツバキー?」


 ダメージは、少なくなかった。


 もう察してもらえたかと思うが、椿木葵は牧村進士に恋をしているのだ。


 けれどシンジには中学の頃から付き合っている彼女がいて、要はツバキは叶わぬ恋をしているというわけだった。


 そして僕がこの恋愛相関図のどの位置にいるのかというと、さしずめヒロインの恋の相談役といったところか。主人公にはほど遠いな……まあ、案外このくらいの立ち位置が楽ということもあるのだけれど。


 ツバキはキッとこちらを睨むと、おそろしく低い声でこう言った。


「放課後、部室で」


 意訳すると、放課後の部室でまた相談に乗って欲しい、ということらしい。


 やれやれ、どうやら相談役の任はまだまだ続くようだ。三流ドラマでも今時やらないような定番中の定番の展開だけれど、しかし現実に目の前に存在しているとなると、なかなかに堪えるものがある。


 こうして、近年稀に見る長く険しい一日が幕を開けたのだった。

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