駆け出した先には

 俵山婦人は下の名前を良子といった。警察の発表によると、今朝がた公園のベンチで死んでいるのが、朝の散歩に来た近所の住人に発見されたのだという。


 彼女の死因は毒を飲んだことによる服毒死。俵山婦人の鞄の中に毒薬の容器や遺書が残されていることから警察は自殺と判断したのだということを、僕は学校から帰った直後に見たニュースで知った。


 俵山さんの自殺の報道はとても小さいものだったが、しかしそれが僕に与えた衝撃は計り知れないものだった。はるか過去に亡くなった松島青年の比ではない。つい昨日、直接顔を合わせた人物が死んだのである。僕は愕然とした。


 しかしそれも束の間。気が付けば僕は勢いよく立ち上がっていた。そして携帯電話と財布だけを引っ掴むと、家族の制止も聞き流し、家を飛び出した。


 あれはただの自殺ではない。


 僕の直感がそう訴えて我慢ならなかった。


 あの事件が――40年以上も前のあのK島での一件が、俵山さんを死に追い詰めたのだ。あるいは彼女の死は自殺でさえないのかもしれない。僕にはそれが自殺か、あるいは他殺なのか、それを確かめる術はなかったが、しかしどちらにせよあの島でのことが関わっているということは確信していた。


 家を飛び出した僕はひたすらに走った。どこへ行けば良いのかは分からなかった。とりあえず駅の方へ――身体が動くままに任せてひた走った。


 そうだ、町子さんに連絡しよう。


 そう思い至ったのは既に駅が目の前に現れた時だった。僕は家を飛び出る時に辛うじて掴んでいた携帯電話を制服のポケットから取り出すと、関ヶ原町子と表示された画面を開いた。が、発信するには少し躊躇われた。町子さんは真相を教えるのは三日後と言った。ならばそれには何か理由があるのではないか? ひょっとすると彼女は俵山さんの死に何か関係しているのではないか? あるいは、僕がここで連絡することで彼女の探偵活動の邪魔になるのではないだろうか。数々の不安が瞬時にして脳内を駆け巡った。


「くっ……えいっ!」


 僕は不安を振り切るように、強く発信を押していた。耳にあててコール音を数える。二回……三回……しかしどうしたことか、町子さんが電話に出ることはない。コールがどれだけ積み重なっても。


 仕方なく僕は電話を切ることにする。そこでようやく自分が少し落ち着きを取り戻しているのが分かった。町子さんに連絡してどうするというのだろう。三日後まで真相は秘密と言ったのだから、彼女がそう簡単に話してくれるとも思えなかった。たとえ依頼人が死んでいたとしても、だ。


 思えば彼女の価値観においては他人の死が軽いような気がしてならなかった。僕が彼女と初めて出会った時も――あの時もある殺人事件が僕たちの前に立ち塞がっていたけれど、町子さんは謎を称賛することはあっても、死者に同情することはなかった。だからおそらく俵山さんの死に関しても、近い過去に話していたから多少のショックを受けるかもしれないけれど、それで考えを変えて僕に真相を教えてくれるようには思えなかった。


「どうする……?」


 と、僕は自分に問いかける。


 考えてみれば真相を知ったとしてどうなるというのだ。俵山さんも、過去の事件の被害者たる松島さんも、既にこの世にはいない。彼女らに報いるために謎を解く? 果たしてそれにどれだけの意味がある。あるいは俵山さんが遺したという遺書を見れば何か納得のいく答えが分かるかもしれないけれど、それを手に入れる術は僕にはない。警察の公式発表を待とうにも、あの報道の関心の薄さから考えて、内容が僕の耳に入ることはまずないだろう。


 ようやく弾んでいた息が収まってきた。同時に頭も冷静さを取り戻してくる。そして冷静になればなるほど、自分にできることが少なく感じてならなかった。いや、もはやそれは皆無と言っても過言ではない。どう動いたとしても、どんな結果が待っていたとしても、それはもはや僕の自己満足でしかないのだ。


 一つ大きく息を吸って、吐き出す。


 自己満足――その言葉が頭の中をグルグルと回っていた。自己満足。そもそも真相が分かったとして、僕はそれに満足するのだろうか。いや、おそらくそうはならないだろう。町子さんに関しては分からないけれど、少なくとも僕は、人が死んでいて満足するということはない。この世の全ての悪を内包したような極悪人がいたとして、その人物が目の前で首を括られたとしても、僕は間違いなく同情してしまう。僕の中では生きることが――が全てなのだ。


 ともすれば、僕がこれから何か行動を起こそうとしていることは全て無意味なのか? どうあっても満足する結末にならないということは、その行動に価値はないのか?


 僕には……分からない。


「難しく考えすぎだぞ、シロ」

「え……」


 振り返るより先に、背後の何者かによって、僕は膝カックンされてしまった。前のめりに倒れそうになるのを何とか堪えて後方を見ると――


「よっ、悩める文学少年」

「なんだ、シンジか……」


 見慣れた顔に、僕はようやく少し胸を撫で下ろすことができた。


 我が腐れ縁にして親友――牧村進士の姿がそこにはあった。おそらく学校帰りなのだろう。その爽やかなイケメン野郎は未だ制服姿だ。この時間まで残っていたということは、またこの前みたいにテニスに興じていたのかもしれない。


「残念。今日はバスケだ。勿論いつも通り大活躍」


 彼はそう付け足して、自慢げに笑ってみせた。癪に障る奴だ。僕は「ああ、そうかい」と軽くあしらうことにする。


 そんな彼の傍らには、また一つ見覚えのある顔があった。


 小泉こいずみメイ。僕やシンジと同じ中学出身の女の子。そして現在進行形でシンジと付き合っている人物である。天然パーマがかったクルクルとした髪の毛とツバキに負けず劣らず小柄な体格、そして京都出身故の柔らかな関西弁が特徴であり、そしておそらく、いや、に学校で一番可愛い女子だ。校内一の美男子と言われるシンジとは、まったくお似合いのカップルだと思う。


 そんな彼女が僅かに――ほんの僅かに不安そうにしながら、シンジの袖を掴んでいた。


 無理もない、と僕は思う。


 小泉メイは犬山城太郎が嫌いなのだ。


 それは面識の少なさ故の警戒なんかとは断じて違う。彼女は確実に僕を嫌悪している。


 というのも、それは概ね僕の方に原因がある。何なら小泉さんは何一つ悪くないとさえ言える。なぜなら僕が度々厄介事をシンジの奴に持ち込んでいるからだ。勿論僕の方にはアイツを巻き込むつもりは毛頭ないのだが、そこがシンジの良いところだろう、少しでも困っていると決まって手を差し伸べてくれるのだ。そしてそんな僕とシンジが、たとえ同性の友人関係だとしても、彼氏が誰かにとられるのを愉快に思う女子なんていないはずだ。


 とはいえ、そんな態度を馬鹿正直に表に出したら僕はおろか、シンジにまで嫌われてしまう。だから多分、小泉さんは堪えてくれている。シンジがいくら僕の不幸に巻き込まれようとも、その実内心では腸が煮えくり返っているかもしれないけれど、とにかく今のところは耐えてくれているのだ。まったくシンジはどこまでも良い彼女に慕われたものだ。とにかく、そういうこともあって、僕はこの二人が一緒にいる時は出来るだけ距離をおくようにしていた。不幸体質を自負する僕だって、何も誰かを自分の不幸に巻き込みたいとは思っていないさ。


「あー、悪いけれど、ちょっと用事があるんだ。また明日ね、シンジ」


 そう言って足早にその場を後にしようとしたのだが、シンジがそれを許さなかった。彼は僕の左肩を掴むと、強引に自分の方へ向き直させる。


「待てよ、シロ。俺とお前、一体何年の付き合いだと思ってるんだ」

「もう六、七年になるかな。それが何か?」

「七年だ。そんだけ長いこと一緒にいるとな、嫌でも分かっちまうっての、お前が悩んでるとさ!」

「……」

「まったく水臭い奴だぜ。どうせまた自分の不幸に他人を巻き込みたくないとか思ってんだろ? はっ! 笑わせてくれるぜ。悲劇のヒロイン気取りかよ。そんなんになっても、何も解決しやしないだろうが。もうちょっと、俺を頼ってくれても良いんじゃねえか?」

「シンジ……」


 まったく、コイツは。


 どこまでカッコイイ男なんだよ。


 いつもなら腹立たしく感じるところだろう。しかし、今の僕には彼がとてつもなく頼りになる奴に見えた。あるいは名探偵以上に。シンジは間違いなくヒーローだった。だが、しかし、だ。


「でも、どうすれば良いか分からないんだ。何をしても、結局は僕の自己満足だし……」


 僕は力なく、そう呟いていた。シンジを頼るにしても誰を頼るにしても、僕は何をどうすれば良いのか分かっていない。一体どうすればこのが解決するのか。


 するとシンジは大きな溜め息をついた。そして徐に制服のポケットからスマホを取り出した。


「お前は馬鹿のくせに考えすぎる。そういうのはな、得意な奴に任せときゃ良いんだよ」

「得意な奴って……」


 頼みの綱の町子さんに電話は繋がらない。頼りようがない。


「馬鹿野郎。俺らにはそこらの名探偵よりよっぽど頼れる友達がいんだろ」

「まさか……!」

「そのまさか、だ」


 シンジはニヤリと笑みを浮かべて、電話の相手にこう告げた。


「ツバキか? シロタロウがピンチだ。すぐに来てくれ」

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