椿木葵は天才である
椿木葵は天才である。
僕の周囲には関ヶ原町子という例もあるけれど、しかしそれとは違う方向性で、ツバキも間違いなく天才と呼ぶに相応しい人間なのだ。
例えば真実への道程という一面において、町子さんは一足飛びにそこへ辿り着くことができる。探偵業という一つのことに限れば彼女の右に出る者はいないだろう。ではツバキはどうか。
椿木葵は決して諦めない。途中で投げ出さない。最後までしがみつき、確実に任務を達成する。町子さんが真実に直感的にジャンプするのに対して、ツバキは一つ一つ理論を積み重ねていく。確かに時間がかかる方法かもしれないけれど、しかしその精神力は他の分野でも応用がきくし、総合的にみればもしかしたらツバキの方が優れた人間かもしれない。
椿木葵に纏わる逸話は確かなものから噂程度のものまで、数え切れないほどあるけれど、そのどれもこれもが到底人間にはできないことばかりだ。そんな彼女が助っ人として来てくれた。これ以上頼れる話はないだろう。
その眼鏡をかけた小柄な少女は、息を切らしながら颯爽と現れた。
「タイムは?」
「ニ十分」
「体力ないわりには、頑張ったかな」
ふぅ、と大きく息を吸って、制服姿の彼女は顔を上げた。
シンジの連絡からニ十分。どうやらその文学少女は学校から全速力で走って来てくれたようだった。体力に関しては人並み以下かもしれないと思っていたけれど、どうやらその考えは修正しなければならないかもしれない。
「正しいフォーム、正しい息遣いで運動すれば、これくらいどうってことないよ」
「いや、簡単に言うけどさ……」
できるか? 体力が限界に近付けば、自然と走りのフォームは乱れる。顔を上げたくなるし、腕の振りも悪くなる。スポーツ経験のある人間ならば――いや、そんなものがなくても、誰にでも想像のつくことだ。正しいフォームで走った方が効率が良い。頭ではそれを理解できていても、身体がそれを拒絶する。精神が苦痛に耐えきれなくなる。しかしそんな精神論は、目の前のこの少女には通用しないのだろう。
「それで、シロタロウがピンチっていうのは?」
ツバキは何事もなかったかのようにハンカチで額の汗を拭いながら、僕やシンジに尋ねた。
ちなみにシンジの彼女たる小泉さんはここにはいない。元々帰宅するためにシンジに駅に送ってもらったということもあって、今日のところは帰ってもらったのだ。彼女には悪いとは思うけれど、いてもらわない方がツバキも動きやすいだろう。この借りは今度何かの形で絶対に返そうと思う。
さておき僕は改めて、シンジとツバキに事態の説明を始めた。昨日、町子さんに呼び出され、依頼人の話を聞いたこと、40年以上前にK島であった事件、そしてそれらを話してくれた俵山さんが今朝遺体で発見されたということ――その全てをツバキにはできる限り細かく説明した。幸い会話の記録はとってある。説明は、そう難しいものではなかったと思う。問題はこれから僕自身がどうすべきか、ということだ。それは僕自身の心の問題であり、真実がどうとかいうのより遥かに難しい事案だろう。
「それは分からないけれど、事件の真相が分かれば見えてくるかもね。シロタロウが何をすべきか」
「いや、でも、そんな昔のことを掘り返したところで……それに、もう俵山さんは亡くなっているんだし……」
「意外だね。シロタロウは意味のないことをするのが好きなんだと思ってたけど」
「好きとかそういうわけじゃあ……」
僕の場合は良かれと思ってやったことが、後から結局意味がなかったと知るのが多いだけだ。いわゆる骨折り損のくたびれ儲けってやつだ。
「少なくとも、今みたいにうじうじしてるよりはマシなんじゃないの?」
「まあ、それはそうかもしれないけどさ」
「私もマキムラも協力するし、真相が分かればその依頼人がなぜ死んだのかも分かるかもしれない。探偵さんがどうして真相を教えてくれないのかってことも、全部分かるかもしれない」
「でも、それは本当に僕が知っても良いことなのかな。町子さんが秘密にしたってことは、少なくとも今の段階では僕が知るのはマズイことなんじゃ……」
「そんなのシロタロウにも私たちにも関係ないことじゃない。どうすれば良いのかを考えるのは、過去の事件の真相を知ってからでも良いと思うけれど?」
「……」
確かに、正論だ。ツバキは正論しか言わない。
僕がこれからどうするべきなのか、そして話を聞いた時本当はどうするべきだったのか。K島の事件を解決できれば、分かるかもしれない。
僕はもう一度、二人の親友を見た。
「ごめん、二人とも。僕は真実が知りたい。だから……力を貸して下さい」
一も二もなく頭を下げる。僕には結局これくらいしかできることがないのだ。情けないことに、人に頼ることしかできない。
すると僕の肩にポンと右手を乗せられた。
「顔上げろ、シロ。お前が断っても勝手に首を突っ込むぜ、俺たちは。何せ不幸体質の奴と親友やろうってんだからな。それくらいの覚悟がなきゃダメだろう」
シンジはそう言うと、同意を求めるようにツバキを見た。ツバキはそれが当たり前みたいに頷いてみせる。
まったく……何が不幸体質だ。こんなに友人に恵まれたんじゃあ、間違いなく幸運じゃないか。
「よっしゃ! それじゃあ早速調べてみるか! ……って言ってもどうすりゃ良いんだ?」
「それなんだけど、ちょっと気になることがあるんだよね。――シロタロウ、今何時?」
ツバキに言われて僕は携帯電話で時間を確認した。時刻は午後六時半。彼女にもそれを知らせる。
「じゃあ、市立図書館は無理か」
「図書館?」
「そういや、あそこは閉館時間が七時までだったっけか」
市立図書館までは駅からバスに乗って十分ほどかかる。今から行けば閉館時間までは間に合うだろうけれど、調べ物をするだけの時間はない。
「どうするつもり? ツバキ」
「日を改めるのも面倒だから、奥の手を使う」
「奥の手?」
「大体、図書館なんて行って何を調べるってんだよ」
僕とシンジが投げかけた質問にツバキは僅かに眼鏡を上げて答えた。
「実際に過去にあった事件なら、図書館に行けば何か資料が残っているんじゃないかって思ってね。でも、それが間に合わないのなら奥の手を使うしかない」
「いや、そこまでしなくても、僕の方はまた明日でも大丈夫だよ」
そう言うと、ツバキはきっとこちらを見た。
「そういう後回しにするのは良くないよ。やると決めたらその瞬間から取り掛かるべき」
「うわー、正論だな」
と、シンジが苦笑いを浮かべる。
確かにツバキの言うことは正論だけれど、それを確実に実行できる人間は果たしてどれだけいるだろう。何かと面倒を後回しにする人間は多いはずだ。かく言う僕もシンジと同様、心当たりがあるから苦笑するしかない。
「で、どこに行けば良いんだ? 俺は何をすれば良い」
「マキムラにはこれから言うところに行ってもらう。そしてそこである人物に会ってもらうわ」
「ある人物? まあ、良いけどよ、それは電話やメールじゃダメなのか?」
「その人はとても警戒心の強い人なんだよ。実際に顔を合わせないと取り引をきしてくれない」
「取り引き、ねえ」
繰り返して、マキムラは訝し気に首を傾げた。一体ツバキは彼に何をしてもらおうというのだろう。
続けてツバキはこちらを見直して、
「シロタロウは私と一緒に来てもらう」
「良いけど、どこへ?」
「図書館」
「図書館は閉館時間までに間に合わないってさっき……」
「特別な図書館」
特別ねぇ……。と、僕は彼女の言葉を内心反復した。
そんな僕の内心も知らずに、彼女は楽し気な笑みを浮かべる。
「あの探偵さんとは一度勝負してみたかったんだよね」
前に図書室の本のことで世話になったのを気にしているのかもしれない。流石は向上心の強い優等生だ。僕としてはそっちが本音ではないと思いたいけれど。
とにもかくにも、こうして僕たちの調査が開始されたのだった。
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