ツバキの推理

「ちょっ、嬢ちゃん、困りますって!」


 狭い店内に初老の男性店員の悲惨なしゃがれ声がこだまする。


「シロタロウ、気にしなくて良いから続けて」

「え、ああ、うん」


 僕は店員さんに心の中で謝りながら、ツバキの命令に従うことにする。命令と言っても、さっきから本棚の中から彼女の指定する本を取り出しているだけだけれど。しかし店員さんは店を荒されるのが嫌らしく、先程からツバキが節操のない指定の仕方をしているからその度に悲鳴を上げている。


 時刻はもうじき午後七時になろうとしていた。シンジとは一度別行動をすることになった僕とツバキだったが、どこに連れていかれるのかと思えば駅前のアーケード商店街だった。


 七時前ともなると商店街は段々と人気が少なくなってくる。もうじきすれば呑み屋やカラオケを目当てにした客が増えるのかもしれないけれど、今はその丁度間くらいの時間だ。


 そんなアーケード進むとラーメン屋と薬局との間に人が一人通れるかどうかの隙間が、唐突に現れた。道とも思えないような隙間だったけれど、ツバキの案内の元、不安な気持ちを抑えてその小柄な少女のブラウンの後ろ髪に続く。隙間を抜けた先は、当然のことだけれどアーケードの屋根からも外れることになる。そしてそこにはまるで違う世界のような光景があった。


 僕たちの目の前にあったのは古びた古本屋だった。両側を隣接する店のコンクリート壁に囲まれ、行き止まりのような形になっている。そのレンガ造りの古本屋は一応は二階建てのようだったが、もやは上階は傾いているように見える。店の壁は薄汚れ、正面に掲げられた木製の看板には今にも消えそうな文字で「蓮見書店」と書かれているのが、小さな照明で照らされていて確認できた。


「すごい……」


 感嘆が口から漏れていた。まるでファンタジーに登場する店だ。もしかしたらここでは魔法が使えるのではないか。あるいは魔法の世界への入り口があるのではないか。そんな妄想が思わず脳内を過るほどである。


 立ち尽くして見惚れている僕を無視して、ツバキはまるでそれが当たり前のようにずんずんと進んでいく。やがて店の扉の取っ手に右手をかけた段階で、ようやく振り返った。


「そう驚くほどのものでもないよ。それより早く来て」

「え、ああ、うん!」


 我に帰った僕は慌てて彼女の後を追う。


 文学少女がゆっくりと扉を開ける。同時に漂ってくる古本独特の匂い。あるいは埃の匂いにも近いそれは、僕のお気に入りの薫りだった。決して良い香りではないけれど、癖があるは癖になるってやつだ。


 店内に入るとまず目に入ってきたのは溢れんばかりの本棚だった。天井にまで到達しようかという両脇の本棚には、ぎっしりと古本が詰まっていて、それが溢れて床にまで積み重なっている。


 そしてその奥――入り口から真っ直ぐにずっと進んだ先には、まさに物語に登場しそうな人物が鎮座していた。


 その人物は眼鏡をかけた初老の男性だった。机の上に新聞を広げていた彼は、その鋭い視線と鷲鼻を僕たちに向けることはなく、ぶっきらぼうに口を開いた。


「もう閉店の時間だよ。出直しな」

「ふぅん。私にそんなこと言っても良いんだ」


 ツバキは如何にも偉そうにその細い両腕を組むと、つかつかと店主の前まで歩を進めた。


 彼女が店主の前に立つと相手もようやく顔を上げる。しかし、次の瞬間には眼鏡の向こうの両目を丸く見開いていた。そしてすぐに慌てた様子で立ち上がると。ツバキに向かって勢いよく頭を下げた。


「や、あの、まさか嬢ちゃんだとは思わず……こりゃ失礼しやした!」

「謝罪する気持ちがあるなら協力して」

「は?」

「1970年代の海外情勢、事件、環境問題に関する資料――あるでしょ?」

「そりゃ、あるにはありますけど、生憎もうじき店じまいなもんで」


 店員はいかにもバツが悪そうにそう言って、禿げあがった頭を撫でる。ほとほと参ったという様子だ。


「いいよ、勝手に探すから。シロタロウ」

「うん?」

「私の指定する本を棚から出して」

「分かった」

「へ?」


 店員さんが再度目を丸くして素っ頓狂な声を漏らした。


 店の奥へと進んでいくツバキを追いかけながら、僕は小声で尋ねる。


「ツバキ、ここは?」

みたいなものだよ。面白い小説はほとんどないけど、ということならそこらの市立図書館には負けてない。ここの店長――あの男にはちょっと貸しがあってね。私からの頼みは断れないんだ」

「さっきめちゃくちゃ嫌そうにしてたけど」

「そうかな? 気づかなかった」

「ツバキってもしかして結構鈍感……?」

「何か言った?」

「いえ、何も」


 椿木葵だけは絶対に敵に回したくない。僕は心からそう思ってならなかった。


 そうこうしている間にもツバキの視線は慌ただしく動き回る。どうやら目的の本を探しているようだ。


「アレとコレ、それからそこの古い本も」


 言われた通り、僕は棚から次々と本を抜いていく。指定された本はさっきあの禿げ頭の店員さんに聞いていた通り、1970年代の出来事に関するものばかりだ。まさかこれほど資料があるとは思わなかった。どうやらここは本当に図書館以上に資料を保管しているようだ。


 もうじき十冊目を取り出そうかという時、ついに店主の男が悲鳴を上げた。


「勘弁してくださいよお、嬢ちゃん、店を荒さないで下せえ!」

「ちゃんと元通りに戻すから」

「そう言って、いつも後片付けをするのはこっちじゃないっすかあ」

「そうね……」


 ツバキは少し考えたかと思うと、徐に財布を鞄から出し、そして中から一枚のチケットを取り出した。


「それは?」


 僕が尋ねる。


「古書市の招待券」


 答えた少女はそれをひらひらと店主に見せながら、


「もしも目当ての情報が見つかったら、これをあげる」

「本当ですかい!?」


 店主の目付きが一気に変貌する。さながら宝の在り処を示した地図を見せられた海賊のように。


「一カ月に一度、この辺りの古本屋が集まって古書のやり取りをする場があるんだ。業界では結構有名で、県外からも参加者が集まる」

「そのチケットってあんなに喜ぶほどレアなの?」

「いいえ、業界人ならほとんど誰でも手に入るものよ」

「じゃあ、なんであんなに嬉しそうに……?」

「この男に関しては別。出禁喰らってるから、普通のルートじゃチケットを入手できないの」

「出禁」

「前まで悪どい商売をしていたから自業自得だよ。ちなみに証拠を集めて出禁に追い込んだのは私なんだけどね」

「……」


 やはりこの少女だけは敵に回したくないな……というより、これだけ根回しが上手いのにどうして恋する相手シンジに関してだけはあんなに後手後手なんだろう。


「そ、それとこれとは関係ないし……」


 そうかい。


 僕が頬を掻くと、店主の男が口を開いた。そして先ほどまでとは明らかに違う声色で、


「で、改めましてお嬢ちゃん、探している資料ってやつは?」

「1970年代に東南アジアのK島で起こった事件を調査している。工業汚染、環境問題、毒物、当時の日本資料――関係のありそうな資料を全部集めてくれ」

「分かった。五分くれ。三十冊ほど用意する」


 そして不敵に眼鏡を光らせた。何と言うか、仕事人って感じだ。


「じゃあレジのところで待っているよ」


 思っていたよりもツバキはあっさりと引き下がった。こうなるのを予想していたかのようだ。


「この店のことに関しては、少なくともあの男の方が分かっているからね。私たちは邪魔にならないようにすれば良い。あいつは悪党だけど、資料を集めることに関しては信頼できるよ」

「まあ、ツバキがそう言うのなら」


 僕はツバキに腕を引かれるままレジの前まで戻ることにする。


 店主が言った通り、資料はきっかり五分で集まった。得意げな店主に古書市のチケットを投げると、ツバキは構わず資料の一冊目を開いた。


 開いた……のだが、同時に彼女はパラパラと高速でページを捲った。それだけで、次の本に手を伸ばす。


「今ので読んだの⁉」

「速読くらい訓練すれば誰でもできるよ」

「や、だっていつも本読む時はそんなことしてないじゃん」

「美味しいものを早食いする馬鹿はいないと思うけど?」


 確かにいつも読んでいるのは小説で、今目の前にあるの資料本だけれど……。


 ツバキが全ての資料に目を通すのは本当に速かった。多分、二十分くらいだったと思う。三十冊の分厚い資料本を二十分で読むなんて、人間業ではない。だがしかし、それを易々とやってのけるのが、この椿木葵という少女なのである。


 最後の本をパタンと閉じたツバキは「やっぱりそうか……」と呟いた。


「やっぱりって、何が?」

「いや、気になっていたことがはっきりしただけ。後はマキムラからの連絡待ちだけど」


 そう言いかけたところで、ツバキの携帯が鳴った。おそらく相手は別行動を命じられたシンジだろう。


 一通りの話を聞いたツバキは、改めてこちらを向き直った。


「もしかして、ツバキ」

「うん、これで大体のことには説明がつけられると思う」


 ゴクリと思わず喉が鳴る。ツバキが天才なのは知っていたけれど、まさかこの短時間で真相に辿り着くなんて思っていなかった。


 少女は僅かに眼鏡を上げる。


「さて、いよいよ探偵さんに挑む時だよ、シロタロウ」

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