死の理由
この事実は後になってから分かったことだけれど、失踪した屋敷信彦という人物は、界隈ではそれなりの知名度を誇った人物であり、自己啓発本やビジネス書を何冊も出版しているということだった。その彼の最も有名な著作に「真の愛」というものがある。彼の作品の中では飛び抜けて評価の高いものであるが、この本こそがまさに事件解決の鍵だったのだ、と関ヶ原町子は語った。
「屋敷信彦さんは家庭こそあれ、愛に飢えた人物でした。そんな彼がある時出会ったのが、菅原桜さん、すなわちストーカー事件の被害者であるさっちゃんだったのです」
町子さんはその言葉と共に、事の顛末を語り始める。僕や岩本警部たちはそれを固唾を呑んで聞き入っていた。
「でも私、そんな社長さんのことなんて、ちっとも知りませんけれど……」
菅原さんが困った顔で答える。
それもそのはずだ、と町子さんは頷きながら話を続けた。
「それは屋敷さんの一方的な片思いだったからです。きっと町かどこかで見かけ、一目惚れしてしまったのでしょう。いえ、この際、タイミングやきっかけというのは関係ありません。とにかく、彼はさっちゃん、あなたを愛していました」
「愛していただなんて……」
「屋敷さんはある種特殊な人間でした。一言で表すならば、彼は愛というものに対して人一倍潔癖だったということです。彼の著書『真の愛』にはこうあります――真実の愛には性も欲も、また言葉を交えるということも必要ない。例えば諸君らが愛している人物が突然物言わぬ小石に姿を変えられたとして、真実の愛を持つ者ならばそれでも愛し続けるだろう。たとえ会話や性交ができないとしてもだ」
僕は『真の愛』という本を知らなかったが、しかし町子さんが挙げたその一節だけでも作者である屋敷さんのどこか完璧主義的な思考回路を、ある程度感じ取ることができた。それほどまでに、その一節は不思議な力を持っていたのだろうと思う。ともかく、彼の示す愛の定義に基づくと、愛した人物とは言葉を交える必要はないのだという。すなわち、菅原桜さんを追いかけながら、それ以上のことをしようとしなかったのは、そういうことなのだろう。
「さらにもう一節を挙げましょう。――では真実の愛がどういったものなのかといえば、それはすなわち与えるということである。これは愛と恋との違いに目を向ければお分かりいただけるだろう。親から子への愛とは言うが、恋とは言わぬ。恋は求めることであり、愛とは与えることなのだ。親から子へと与えられるものは無償であり、それすなわち真実の愛の一つの形なのであろう――ここまで話せば、ある程度、今回の事件の真相について察しがついたのではないでしょうか」
そう言われて僕や二人の刑事さん、そして町子さん曰く当事者の一人である菅原さんが顔を見合わせた。どうやら町子さんの言うようにこの時点で察している人物はこの場にはいないらしかった。少なくとも僕個人としては、何となく察したようにも思えたけれど、しかしそれを言葉に変換する能力はなかったのだから、やはり理解していなかったのだろう。
「ではもう一つ、決定的な事実を挙げましょう。ストーカー=屋敷信彦である。では現在この家の前に横たわる毒殺死体は? そう。それもまた、屋敷信彦なのですよ」
その言葉に僕たちは耳を疑ったが、しかし町子さんも何も冗談を言っているわけではないだろう。しかし容易に飲み込むこともまた難しいことだった。
「ちょっと待ってください。あの死体が屋敷信彦……? そんな馬鹿な。風体があまりに違いすぎますよ」
「ヤナギ―の言うことも分かります。変わり果ててしまっていますからね。しかしそれが事実なのですよ。もっとも、DNA鑑定でもしてみなければ分からないことでしょうが」
あの遺体には指がなかったから指紋をとることもできないだろうし、たとえ残っていたとしても薬品か何かで指紋は消されているだろう。とはいえ、体格も違いすぎるし、なぜ町子さんにはあの死体が屋敷さんのものだと分かるのだろうか。
「先程私は人探しの依頼を受けたと言いましたが、実はもう一つ隠していた事実があるのです。失踪した屋敷信彦さんのことを探るうちに行き当った、“名瀬”という人物です。さっちゃん、名瀬という名前に聞き覚えはありませんか?」
唐突に話題を振られた菅原さんは強張った表情を見せたが、しかしすぐに首を横に振った。
「いいえ……どなたでしょう」
「知っているはずですよ。何せ彼はあなたの通う大学の関係者なのですから」
「……もしかして」
「ええ、医学部の名瀬教授のことです」
そこまで聞くと菅原さんは合点がいったと言わんばかりに大きく頷いた。しかしすぐにまたその表情に不可思議な感情が露わになってくる。
「確かに名瀬教授のことは知っていますけれど、何度か講義を受けただけで特に関わりはないのですが……」
「ええ、あなたからすればそうでしょう。しかし当の名瀬教授にしてみれば、それはとても重要なことだったのです。つまり彼もまたストーカーの屋敷信彦と同様、あなたに憧れる男性の一人だったのですよ」
「そんな……」
動揺を隠せない菅原さんに構わず、町子さんが話を続ける。
「さっちゃんを追いかけ回していた屋敷信彦もまた私と同じように、やがて名瀬教授へと行き当った。二人は意気投合したのかまでは分かりませんが、少なくともその信念は同じものだったのでしょう。菅原桜を幸せにしたい。それだけです。そしてそれは屋敷信彦の掲げる愛の定義、すなわち愛とは求めることではなく与えることである、というのとも合致しています。そこで二人はとある計画を立て、協力関係を結ぶことにしたのでしょう」
「計画とは?」
岩本警部が訝し気な態度で聞き返した。
「これもまたここに至るまでに調べたことなのですが、さっちゃん、あなたは経済的にとても困難な状態のようですね。何でも親御さんと喧嘩別れをしてしまい、学費もあなた自身がアルバイトをし、奨学金を得ることで賄っているのだとか。この借家も近々引き払うつもりなのでしょう。そして屋敷信彦と名瀬教授も当然ながらこの事実を知っていました。そこで彼らが考えたのは、全ての財産をあなたに譲り渡すという計画です。ええ、それも保険金を含めた、まさしく全てを」
「生命保険か」
柳警部補がどこか納得して呟いた。
「ええ、彼らの手の込んだ手法は、まさに生命保険のためだけと言っても過言ではありません。しかし保険金は自殺では出ない。他の私財は投げ打つことができても、この保険金ばかりは決まった手順でなければ受け取れない、要は自殺ではダメだったわけです」
「だから、その名瀬という人物が、屋敷を殺したというのか?」
「いいえ、名瀬教授はそこまでのことはしていません。彼はあくまで手助けしただけです。自殺ではなく他殺だと見せかけるにはどうしたら良いか、二人は考えました。考えた結果、出した答えが、屋敷信彦の身体に拷問の痕跡を偽装するというものでした」
そこまでするか。ある種おぞましい行動に、僕たちは一様に息を呑む。しかしストーカーまでしていた男のとる行動だから、僕たちの予想の範疇で計るのは間違いかもしれない。ましてや人一倍“愛”に対して拘っていた屋敷さんのことならば尚更だろう。
「そしてもう一つ、彼らがこのような凶行に至った理由があります。理由というより、人情といった方が良いかもしれませんね。愛した人間のために死ぬのは構わない。しかし、どうしても、その相手に一度だけでも認知してもらいたい。それは屋敷信彦の最後の願いと言うに相応しいものだったのでしょう。しかしこれがことの決行を難儀なものにしました。つまり彼は彼自身の掲げる愛の定義と、彼の最後の願い――心の最も奥深いところにあるものとが、見事に矛盾してしまったわけですね」
与えるというのが屋敷さんが掲げた愛の定義。しかし彼は最後の最後で求めるということを思ってしまった。きっと屋敷さんは相当悩んだに違いない。僕は確信した。
「そこで考えたのは、愛の相手、すなわちさっちゃんの家の前で命を絶つということでした。表向きは関係がないようですが、しかし家の前で死んでいたという人間がいたら、そう簡単に忘れられるものではありません。つまり屋敷信彦は相手との直接的な交流を持つことなく、認知されることに成功するのだ。少なくとも計画を立てた屋敷信彦と名瀬教授はこう考えました」
「だから殺害現場はここなのか……いや、ちょっと待てよ、関ヶ原さんの言うことが正しいとするなら」
はっとなった柳田警部補が町子さんの顔を見据える。すると彼女は神妙な顔つきのまま、小さく頷いた。
「ええ、つまりこの家の前の死体は、他殺ではなく、自殺だったのです。遺体の無残な状態から他殺と思い込んでしまうかもしれませんが、しかしそれこそがまさに二人の男性の計画の狙いだったのですよ。そうして考えると、警戒体制の中で死体が発見されたという不可解な状況が説明できます。つまり屋敷信彦の遺体は殺されてから運ばれたのではなく、初めからここで死んでいたのですよ」
そして名探偵・関ヶ原町子は、今回の事件をこのようにまとめた。
一年程前、菅原桜を見かけた屋敷信彦は、彼女のために全てを投げ打つことを心に誓う。全ての財産を彼女に譲ろう。しかし生命保険はどうしたものか。あれは自殺したのではおりない。社長という実績もあって、屋敷さんの保険金はとてつもない額であった。これを渡さないわけにはいかない。
屋敷さんの希望が叶うことは困難かと思われたが、ある時彼は名瀬という医学教授と知り合った。二人は共通の信念の元、ある計画を立てた。
計画――それは屋敷さんの死を他殺と偽装することであった。本来ならば名瀬教授が屋敷さんを殺害すれば簡単なのだが、しかし教授にはそこまでの行動をする覚悟がなかった。良心の呵責もあったのだろう。だからあくまで屋敷さんは自殺し、それを他殺に見せかけようということになったのだ。
遺体の欠損は、名瀬教授によるものらしかった。医学的な知識や技術、設備を用意できるのは彼だけである。亡くなった屋敷さんは、文字通り、全てを愛した者のために奉げたのだ。
また、屋敷さんの生命保険の受取人は、彼が失踪する直前に、彼の奥さんからとある男性――名瀬教授に変更されていた。保険金が入り次第、名瀬教授から菅原さんに送るという手筈だったのだろうと推測できる。
そしてこのことに関して町子さんは、保険金の受取人が変更されたことが、そもそもの疑問だったのだ、と推理の初めの手がかりだったと告白した。そこをとっかかりにして名瀬教授に辿り着き、そして彼を訪問し、屋敷さんのことを聞き出したのだ、と彼女は告げた。
「残念だったのは、私が駆け付けるのが遅れたということです。もしももう少しだけ早く屋敷信彦に出会うことがあれば、彼の自殺を止められるかもしれなかったのに」
そう言った町子さんの顔には後悔の念がありありと出ていた。きっとたくさんの人の死や謎と対面したことがあり、死体を見ても動揺一つ見せなかった彼女だけれど、その後悔の気持ちだけは本物だろう。僕にはそう思えてならなかった。
「さて、私の話すべきことはこれで全てです。後のことはさっちゃん、あなたにお任せする他ありません」
「そんな……そんな話をされても、私、どうしたら……」
菅原さんの声は震えている。町子さんはそんな彼女の肩に優しく手を置くと、
「あなたに悪いことは一切ありません。被害者として振る舞うことも可能です。それもまた正しい反応なのでしょう。しかし、差し出がましくお願いさせてもらうならば、どうかあなたのために命を賭けた二人の男性のことを、忘れないであげてください」
それだけ話すと町子さんは静かにキャリーケースの取っ手を掴んだ。もうこの場に用はないのだろう。彼女について僕と二人の刑事さんは家を出た。
家を出てみるとまだそこには屋敷さんの遺体がある。僕はそれを初めて見た時のような恐怖は一切感じなかった。あったのはただただ悲しい、どこか寂しくもある、そんな感情だけだ。
遠くから応援のパトカーのサイレンが聞こえてくる。一時間ほどの推理劇だったが、僕にはそれが何カ月も続いたように錯覚せざるを得なかった。
「少年、そう言えばまだ名前を聞いていなかったね」
町子さんが言った。
「僕は、
「犬山、ね。それじゃあ君はワンコ君だね。君にはこれをあげよう」
差し出されたのは一枚の名刺だった。そこには関ヶ原町子という名前と、携帯の連絡先が書かれている。
「これも人の縁ってやつだ。何か困ったことがあったら連絡しなさい」
そう言うや否や彼女は僕の頭をぐしゃぐしゃと撫でまわし、優しい笑みを浮かべた。そしてカラカラと音を立てながらキャリーケースを引っ張って、坂道を登っていった。彼女のメタルカラーの髪の毛が、柔らかな朝日を反射させていた。
これが、僕と名探偵の出会いだった。
関ヶ原町子の髪色は 冬野氷空 @aoyanagikou
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