不可能犯罪/最初の事件

ミステリーの冒頭には死体を転がせ

 ミステリー小説の冒頭では死体を転がせ。これは読者の興味を惹くためのテクニックの一つである。ところが、僕と関ヶ原町子さんとの物語は、まさに一つの死体から始まったのだ。


 あれは四月一日の午前五時くらいのことだった。世間は(なぜか)二、三日前からエイプリルフールと騒いでいたけれど、まだギリギリ春休みで学校も始まっていない僕にしてみれば、もはや関係のない話だ。その日も日課の早朝ランニングに励んでいた。部活としてのスポーツはもうとっくに引退した僕だけれど、それでも健康のために体力つくりだけは続けている。いや、単に身に着いた習慣が抜け切れていないだけかもしれないけれど。


 ところがその日はいつもと違うことがあった。ランニングコースの一部が工事のために二日ほど前から通行止めになっていたのだ。必然僕はコースを変更することになった。いつもは公園の脇を抜けるのだが、その日だけはその少し手前の住宅街を突っ切ることにした。そしてそれが結果として今回ののきっかけとなったのである。


 早朝の住宅街は人気が全くと言って良いほどない。だからと言うわけではないけれど、不思議と街を独り占めしているような気がして、何だかいつもより空気が清々しく感じた。ところがそんな空気が一瞬にして凍り付いた。数メートル先の路上に、一人の男性が倒れていたのだ。


「あの、もしもし。大丈夫ですか?」


 駆け寄った僕は親切心から彼に声をかけた。打算などしている余裕はない。きっと重病人なのだと思ったのだ。だから僕はバクバク緊張する心臓を抑え、おそるおそるその男性に声をかけたのだった。


 見るとまるで浮浪者のような格好の男性だ。うつ伏せに地面に倒れ込んでいるからよくは見えないけれど、身に纏う服は上も下もボロボロで、辛うじて服としての形を保っているように思える。頭にかぶったお釜帽子はよれよれで僅かにのぞく髪の毛は白髪交じりだ。僕はその髪の毛を見て結構歳のいった男性なのかと思った。


 僕の呼びかけに、男性は答えない。再度声をかけてみるも反応はない。


「あの! 大丈夫ですか⁉」


 いよいよ大変だと思った僕は、最悪の事態も想定しながら男性の肩を揺すった。しかしやはり男は動かない。僕はゴクリと唾を呑んだ。


 死んでる! 警察を呼ばなくては。いや、救急の方が先か。そんな混乱ともいえる思考が一瞬の内に脳内を駆け巡った。


 その時、僕はあるいは男性の死よりもショッキングになるかもしれない事態に気が付いてぎょっとした。


 男性の頭の方に投げ出された右手――そこは人差し指と親指を除いた三本の指が欠如していたのだ。そろりと左手の方にも目をやると、そちらはなんと五本の指全てが存在していなかった。しかも恐ろしいのは、彼の欠如した指というのは明らかに先天的なものではなく、ある日突然、しかもつい最近切断されたというのが、断面にうっすらと浮かび上がる骨と肉と血によって素人の僕にでも判別できるものだったのだ。


「うわあ!」


 僕は思わずニ、三歩跳び退き、尻餅をついた。こうなればもはやパニックである。震える手でポケットから携帯電話を取り出し、110番のダイヤルを入力する。何か事件を直感していた。しかしガタガタと揺れる手では入力がかなり難しかった。はやる気持ちを抑え、何とか一つ一つの数字を入力していく。


 ところがその時、後ろから「おい!」と声がかかった。


「え?」


 振り返るとそこには屈強なスーツ姿の男性が二人、すごい勢いで駆け寄ってくる。


「お前、そこで何をやっている!」

「え、あの、いや」


 僕は上手く答えることができなかった。それほどまでに頭の中がぐちゃぐちゃになっていたのだ。


「こいつは……」


 年配の方の男が死体を見て顔をしかめた。そしてきっとこちらを見る。


「お前がこれをやったのか!」


 僕は小刻みに首を横に振った。。つまり僕がその男性を殺したのかと、駆け付けたスーツの男が投げかけてきたのだ。そんなことは断じてない。僕は人殺しなどしていない!


「違いますよ! 僕はただ通りかかっただけで……」

「こんな時間にか?」

「早朝のランニングが日課なんです!」

「しかしこんな住宅街をランニングコースに選ぶかね?」


 年上の方の男性がずいりと僕に迫る。強面だ。屈強な肉体も相まってある種特殊な迫力を醸し出している。連想するのはヤクザか警察といったところだが……。


「あの、その前にあなた方は……?」

「俺たちはな」


 二人の男たちが示し合わせたように同時に懐に手を差し入れる。そして取り出したのは予想した通り、警察手帳だった。


「警察だよ。通報があって来たんだ。だから嘘をついたらただじゃおかねえぞ!」

「嘘なんてついてないですよ! 本当にたまたま通りかかっただけなんです!」


 ああ、まったくどうして僕の人生はいつもこうなるのだろう。何かあれば真っ先に疑われるのはなぜか僕だ。僕は何もしていないのに。まあ、流石に殺人容疑をかけられるのはこれが初めてだけれど……。


「とにかく、話は署で聞くから」


 そう言って若い方の警官が僕の腕を掴んで立たせる。


 冗談じゃない! ランニングをしていただけで連行されるなんて!


 そう思った時である。路地の入り口から、カラカラとタイヤがコンクリートの上を転がる音が聞こえてきた。僕や二人の刑事さんたちが振り返ると、どうやら何者かが旅行用のキャリーケースを引きずってきているようだった。朝霧にぼんやりと浮かぶシルエットは、真っ直ぐに僕たちの方へと向かってくる。やがては僕たちの目の前で立ち止まった。


「つかぬことをお伺いしますが、菅原さんのご自宅がこのあたりだと聞いたのですが、どこかご存知ないでしょうか」


 その女性は、大きな黒縁眼鏡を僅かに上げてそう切り出したのだ。白のワイドパンツにストライプ柄のシャツというシンプルだが小洒落た出で立ちは、二十代前半、もしくは十代後半くらいの彼女の素の美しさやスタイルの良さをより強調しているように見える。だがしかし、僕や刑事さんたちにはそんなファッションなど目に入っていなかった。


 女性は徐に帽子を脱ぎ、胸の前まで持ってくる。露わになったショートボブの髪の毛――僕たちの視線は、まさにその頭部に集中していたのである。何を隠そうその小洒落た女性の頭髪は、ちょうど真ん中で綺麗に赤と銀に分かれていたのだ。


「菅原さんの家なら」


 若い刑事が僕の背後の住宅の表札を一瞥して、そこを顎で指した。


「ここだが」

「ああ、なんだここでしたか。ご面倒をおかけしました」


 女性はそう言い、ぺこりと赤銀のメタルカラーの頭を下げると、僕たちのことなどまるでお構いなしのように――というより、注目すべき男の死体すら無視してその菅原という人の住む家へと足を向けた。


「あ、あのっ」


 僕は思わず彼女を呼び止めていた。いや、何かを言おうとしたのではない。むしろ彼女の纏う異様な雰囲気に呑まれ、僕も刑事さんたちも明確に何を口に出せば良いのか分からない状況だった。死体も霞む眩しさである。


 僕が言葉を探していると、女性はようやく地面に倒れている男性を見た。


「ん? やや、これは死体のようですね。それも、見たところかなり変わった死体のようだ」


 まるでわざとらしく言ったかと思うと彼女がぱっと顔を上げる。するとそこには人懐っこい笑みがあった。


「お二方は刑事さん――ですよね? お聞かせ願えますか、何があったのか」

「ぶ、部外者に言えるか! 大体、お前は何者なんだ!」


 年配の刑事が怒鳴り声にも近い口調で答える。女性は僅かに唇を尖らせ、少し何かを考えたかと思うと、今度は徐にポケットからスマートフォンを取り出し、どこかにメールを始めた。それも数十秒で済み、彼女はスマホをポケットに戻すと、再び僕たちにニコニコとした表情を向けた。


 二人の刑事さんたちと僕が怪訝そうに女性の動向を見ていると、年配の刑事さんの懐で携帯電話が鳴った。「何だこんな時に」とぶつくさ文句を唱えながら、彼は電話に出る。すると今の今まで怒りによって真っ赤になっていた彼の顔が、みるみるうちに青く変わっていくではないか。


「け、警視総監殿でありますか⁉」


 刑事さんが素っ頓狂な声を上げる。


 警視総監? っていうと、あの警視総監だよな……と、僕はミステリー小説やサスペンスドラマに登場する警察の役職を想像する。しかしその警視総監がなぜこのタイミングで連絡を……? まさか、と思い僕は再度女性に目をやった。すると彼女はイタズラめかしたようにぱちりとウインクしてみせると、


「実は警視総監とはちょっとしたメル友でさー」


 と、実に軽々しく答えた。


「メル友って、そんなミステリー小説じゃあるまいし」

「嫌だなー、大マジだよん、少年君」


 そう言って彼女は僕の頭をガシガシと撫でまわす。初対面なのに遠慮のない人だな、と僕は少し嫌になった。


 やがて年配刑事が電話を終えると、改めて女性に目をやった。実に悔しそうな表情で、今にもその手に握る携帯電話を地面に叩きつけそうな様子だ。


「警視総監命令だ! お前に協力しろってな!」

「どうもどうも。あっ、私、趣味で探偵をやっている関ヶ原せきがはら町子まちこって言います。どうぞお気軽に町子さんって呼んで下さいね」


 そして趣味探偵を自称した彼女は実に楽しそうに、再度足元の死体へと視線を向ける。まるでゲームの始まりのように。


 何が何だかよく分からないけれど、とにかく僕は自分がこの事件の犯人ではないことを伝えようと思った。


「あのっ、僕は、」

「ああ、分かってるよん。君は犯人じゃあない」

「え……?」

「とはいえ私の推理を確定させるためにはもう少し状況を整理してみないとね」


 そして彼女は僕たち三人の顔を見渡す。


「さて、私にこの現場を預けて頂いたということは、皆さんには謎を解き明かす協力をしていただかないといけません。お聞かせ願えますか、詳しいお話を」


 こうして、エキセントリックな髪色を携えた名探偵と、僕――犬山いぬやま城太郎しろたろうの最初の事件が幕を開けたのであった。

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