消えた百冊の本

「へぇ、百冊の本が消えた、か。面白いね」


 そう呟いたかと思うと町子さんはニヤリと笑みを浮かべてみせた。まるで隠されたおやつを発見した子供のようだ。


「いやはや、ワンコ君、君はつくづく幸運のようだね。君一人に限らず友人にまでこんなに面白い謎が降りかかるなんて」


 不幸体質を自称している僕だけれど、町子さんの言う通り、どうにも今日ばかりは運が良いようだった。いや、誘拐された時点では間違いなく不運だっただろう。それを町子さんがタイミングよく助けにきてくれたことが幸運なのだ。彼女が来てくれたから、僕は親友のピンチに可能な限り最速で駆け付けることができた。


 ツバキからの電話で指示された場所は学校の図書室だった。学校では僅かに残っている生徒もいるようだったけれど、大抵の部活は終了時刻を迎え、校内に人気はなかった。それは図書室も例外ではなく、僕たちが到着した時に入れ替わる形で最後の生徒が帰ったところだ。


 僕の拘束されていた倉庫はあの誘拐犯の言う通り、学校からそう離れていなかった。タクシーを呼ぶまでもなく、走って十五分くらいだ(もっとも町子さんの足が遅いのであって、僕一人ならもっと早く着いただろう)。正確にはではなく、地元では割と有名なの一部のようだった。


「それで、私が呼ばれたということは、ありふれた盗難事件ではないのでしょう? ぜひ聞かせてもらいたいものです。ええと……」


 ツバキを何と呼ぶべきか迷ったのだろう、町子さんが戸惑いの視線をこちらに向けてくる。そう言えば彼女たちの紹介がまだだった。


「こちら、僕の親友で椿木つばきあおいと言います。文芸部員にして図書委委員」


 続いて僕はツバキに向き直り、今度は町子さんを紹介することにする。


「ツバキ、こちらは関ヶ原せきがはら町子まちこさん。町子さんって呼んであげて。前にも話したけれど、何度か僕を救ってくれている名探偵だよ」

「いやぁ、名探偵だなんて照れるなぁ。よろしくね、J


 町子さんは相変わらずの人懐っこい笑みを浮かべながらツバキに右手を差し出した。ツバキは「どうも」と軽く頭を下げながらその手に応える。


「あの、町子さん、そのJというのは?」

「彼女のあだ名だよ。賢そうだし、何より元の名前にピッタリだ」

「はあ……?」


 一体Jというアルファベットのどのあたりが賢そうで、どのあたりがツバキの名前と関連があるのだろう。


「Jは椿を表すJaponicaのJだよ。まあ、Camelliaが一般的だけど。それと賢そうっていうのは、多分、ジャポニカ学習帳から来ているんだと思う。シロタロウも子供の頃に使ったことくらいあるんじゃない?」


 あの表紙に植物やら動物やらの写真が使われている学習帳なら、確かに僕も使ったことがあるけれど……。


 ツバキは「そうですよね?」という答え合わせを期待する眼差しを町子さんに向けた。町子さんはニコニコとした笑みを浮かべたまま、その青い前髪をクルクルと指に絡めながら、ヒュウと口笛を吹いてみせた。


「お見事! 実に素晴らしい慧眼だね!」

「当たっているんだ……」


 町子さんにしてはいつもより手の込んだあだ名だった。しかしジャポニカ学習帳が賢そうって判断する辺り、分かってはいたことだけれど、彼女には子供らしいところが多いみたいだ。


「さて、それではJちゃん、消えた本の話――詳しくお聞かせ願えますか?」

「はい。その前に見て頂きたいものがあるのですが」

「ん? 何かな」

「こちらです」


 歩き出すツバキの後を追いかける。書架の中に分け入っていきながら、僕は口を開いた。


「でもツバキが無事で良かったよ。電話がかかってきた時は何事かと思った」

「ごめん、急に呼び出して……でもまさか本当に来てくれるとは思わなかったよ」

「親友のピンチなら駆け付けるに決まっているじゃないか」

「それはマキムラが相手でも?」

「勿論。逆にシンジの奴もツバキからあんな連絡が来たら飛んできてくれると思うよ?」

「そう、かな……そうだと良いけど」


 ツバキはそう言って僅かに微笑んでみせた。シンジの奴なら確実に迷いなく助けに来てくれるだろう。それはツバキのピンチもそうだし、僕のピンチだってそうだ。アイツはそういう奴だ。


 僕たちがそんな会話をしているとツバキが徐にその足を止めた。そしてすぐ目の前の書架を指さした。


「ここです」

「ほほう。これはこれは」


 またもや町子さんがヒュウと口笛を吹いてみせる。


 文庫本が並ぶその書架からは二段分――およそ百冊ほどの空白があった。


「私が図書室に来た時、ここにあった文庫本がごっそり消えていました」

「なるほどなるほど。詳しくお聞かせ願えますか」

「ええ」


 頷いて、ツバキが事件内容を語り出した。彼女の証言をまとめると以下の通りである。


 ツバキが図書室を訪れたのは僕と別れ、文芸部室を後にした直後である。図書委員の仕事というのは当然、本の貸し出しや本棚の整理なのであるが、交代制で十六時半から十七時、そして十七時から十八時までのシフトとなっていた。これは部活に所属している生徒への配慮なのだとか。


 ツバキの場合に限って言えば部活に所属はしていてもそれほど活動がハードというわけでもないので、基本的に開いている時間帯にシフトを入れることにしていたようだ。


 十七時――ツバキが図書室に到着。いつも通り書架の整理から取り掛かる。返却された本を、元あった場所へと戻すのだ。そしてその過程で事件が発覚することになる。


 事件の舞台となったのは、歴史小説や時代小説の文庫本が多く並ぶ書架だった。ジャンルがジャンルということもあり、その本棚から本が借りられるというのは稀であった。しかし珍しくその棚から貸し出された本の返却があったので、委員であるツバキがそこへ足を運んだことで事件が発覚した。本来ならば文庫本がびっしりと並び、埃を被っているはずのその書架から、およそ百冊ほどの本が消えていたのである。


「他の委員や先生が整理のために移動したとか?」


 僕が尋ねると、ツバキが頭を振った。


「私もそう考えたから確認したよ。数冊程度ならまだしも、百冊近い文庫本が消えたんだから、書棚の整理と思ったからね」

「でもそれは違ったんだね?」


 相変わらずご機嫌な様子で話を聞いていた町子さんが尋ねる。


「はい。委員はもちろん、司書の先生や、授業の資料に使いそうな国語教諭、歴史教諭には一通り話を聞きましたが、事情を知っている人間はいませんでした。それを確認していたからシロタロウに相談するのがこんな時間になってしまったわけですけど」


 つまり、関係のない生徒あるいは教師が無断で持ち出したということだろうか。しかし一冊や二冊ならともかく、百冊も同時に持ち出すなんてことがあるだろうか?


「状況を整理したいんだけどね、Jちゃん。本が一体いつ消えたのか、具体的な時刻は分かるかい?」

「少なくとも昨日の放課後以降かと。部活が終わってから借りていた本を返しに来たんですけど、その時は本棚に空白なんてありませんでした。一冊や二冊ならともかく、これだけの本が消えていたら流石に気づきます」

「だよねぇ。つまり犯人は昨日の夜から今日の放課後にかけて犯行に及んだわけだ。図書室の管理状況はどんなもんだい?」

「完全下校時刻の十九時を過ぎたら、司書の先生が鍵をかけにきます。鍵は基本的に司書の先生が保管しているので、複製することは難しいでしょう。そして図書室の鍵が再び開かれるのは、翌日の一時間目の授業が始まる頃です」

「なるほど、実に素晴らしい情報収集能力だね。ワンコ君にも見習って欲しいところだよ」


 僕は依頼人にこそなれど、別に探偵助手になったつもりはないのだけれど……。さりとて気の回しようで僕がツバキに劣っているのは確かである。今後自分のトラブルを解決するためにも、状況を整理したり必要な情報を集めたりする能力は見習いたいところだ。


「つまり犯行は今日の朝から放課後までに行われたことになるね。昼休みのここの様子はどんな感じかな?」

「委員が貸し出しをやっています。聞いてみたところ、本棚までは見ていないが特に異常はなかったそうです」

「えっと……つまりどういうこと?」


 聞き返したのは僕だった。町子さんがやれやれと肩を竦める。


「百冊もの本を持ち出そうっていうんだよ。その犯行はとても目立つ。図書室に他に誰かがいたのなら、少なからず気付くはずだ」

「でも一度に持ち出した確証もありませんよね? もしかしたら毎日少しずつ盗み出したのかも」

「書架の整理は定期的に行われていたんだ。他の誰ならいざ知らず、ここにいるJちゃんが見落とすはずがないよん。最初の数冊ならともかく、十冊も抜かれれば気付くはずさ」


 確かに、町子さんの言う通りだ。ツバキほど優秀な人間なら気付いて然りである。それがなかったということは、一度か二度か――とにかく、かなり短いスパンで本は持ち出されたとみて間違いないだろう。


「他に何か気付いたことは?」


 町子さんがツバキに尋ねる。ツバキが当事者だっていうのは分かるし、優秀なのも理解しているけれど、もう少し僕にも期待してくれても良いんじゃないか?


 問われたツバキは考え事をするように虚ろな眼差しで空白の書架を見つめていたのだが、すぐに焦点を取り戻し、口を開いた。


「これは私見ですが、構いませんか?」

「とりあえず何でも言ってみてよ」

「実は情報収集の最中、教師の何人かがおかしな態度をとっていました」

「ほう! 興味深いね」


 町子さんが話しを続けるように促す。


「具体的にと言われても説明に困りますけど、何となく話しづらいような、何かを隠しているような感じがしました」

「その隠し事に関して心当たりは?」

「ありません。相手は授業を受けたことがない国語教諭や歴史教諭なので、そこまで交流があるわけでもありませんので」

「なるほどねぇ」


 町子さんは何度か頷いたかと思うと、今度は空いた書架を注意深く観察し始めた。といっても、素人の僕からすればそこに特異な点を見出すことはできない。至って普通の、空いている本棚だ。


「ここにあった本の正確な冊数は分からないんだよね?」

「ええ、申し訳ありませんが。普段はそこまで注意して見ているわけでもないので」


 まあ、確かに……と僕は小さく頷く。残っている他の本のタイトルを見る限り、あまり高校生の僕たちに縁があるようなラインナップには見えない。というか、なぜ高校の図書室に歴史小説がこんなに大量にあるんだ? 需要ないだろう。


「私が高校生の頃はよく読んでいたけどねぇ、歴史小説」

「そうなんですか?」

「ミステリー以外なら大体のジャンルが好きだよん」

「はあ。ミステリーは読まないんですか。少し意外ですね」


 その割りには会話の節々にミステリー小説の気配を窺えるけれど。


「まあ、大方の話題が通じるくらいには読んだよ。けれどどうしてもね、楽しめる代物じゃあなかった」

「あんなに謎が好きなのに」

「だからさ! 小説に登場する謎は退屈すぎる。現実の事件を相手にしている方がよほど楽しめるよ。事実は小説よりも奇なりってやつだね」


 そういうものだろうか? 不幸体質を自負する僕にしてみれば、現実の謎は困ってしまうだけだ。救いのあるフィクションの方が数倍マシだ。


「ところで、ここまでの情報を踏まえて、Jちゃんはどう思う?」

「そうですね……」


 ツバキは考え事をするように、その虚ろな眼差しで空白の書架を見つめ、そのまま数秒固まったかと思うと、やがて口を開いた。


「昼休みや放課後に犯行が困難であった以上、やはり犯行は各授業の間の休み時間に行われたと思います」

「休み時間っていうと、時間は……」

「十分です。一度に持ちだすのは不可能だと思うので、おそらく何度かに分けて運び出したのでしょう」

「ふぅむ……」


 町子さんは少しだけ唇を尖らせる。そして右手を顎にあて、そのまま人差し指でくいとその大きな黒縁眼鏡を上げた。


「残念ながらその説は却下だね」

「何か不備や矛盾がありましたか?」


 自分に完璧を求めるツバキの性質故の質問だろう。その問いかけに、町子さんは真剣な表情で答えた。


「確かに図書室から持ち出すということは、Jちゃんの言う方法でできると思うよ。けれどね、盗んだ本を一体どこに隠しておくつもりだい? モノは百冊もの文庫本だ。そうそう隠せる場所なんてありはしない。別々の場所に隠すにしては時間がかかりすぎるしね」

「……なるほど」


 休み時間は十分で四回――一度の休み時間で少なくとも二十五冊は持ち出す必要がある。それだけの本を一か所に隠すのは難しい。かと言って十分しかないのだから、別々の場所に隠すというのは物理的に不可能に近いだろう。


 それにしても――


「犯人は本を盗んで一体どうするつもりだったんですかね?」


 モノは百冊の歴史小説。しかも図書室に置かれていたものだから、転売するにしてもそれほど価値はないだろう。商業的なルートをとらずに個人で売りさばくとしても、歴史小説は需要が少ない。


 ならば動機は怨恨なのだろうか。図書委員や司書の先生に何らかの恨みがあって、それを晴らすために――つまり彼女らに迷惑をかけるために犯行に及んだという線はないだろうか。


「なくはないけれどね、労力に見合わないよ。文庫本と言えど百冊もあればかなりかさばるし。だが――」


 町子さんの手が僕の頭に伸びる。そしてまるで犬でも相手にするようにグシャグシャと撫でまわした。


「お手柄だ、ワンコ君」

「はあ……何がです?」

「フッフッフ……今回の事件を解決する鍵はだね、まさに君の言う通り、犯人の動機にこそ隠されているんだよ!」

「もしかして、何か分かったんですか⁉」


 不敵な笑みを浮かべる町子さん。


「うん、勿論だよ! いやぁ、面白い事件だ!」

「勿体ぶらずに、答えを教えてくださいよ、町子さん!」

「ああ、良いとも! 謎解きスタートだ!」

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