拒絶

 ツバキから預かった部室の鍵を職員室に返して校庭へ出ると、何やらテニスコートの方が騒がしかった。見ると十数人の生徒たちがネット越しにコートに注目している。我が校のテニス部は、所詮ごくありふれた一般的な進学校のテニス部である。注目を集めるほどの選手なんていないはずだけれど……。


 と、思ったところで、一人の人物を考え付いた。思えばこんな光景は、中学時代から何度か見たことがある。それにコートを囲んでいる生徒は女子が大半だ。試しに確認してみると、僕の予感は的中していた。


「ゲームセット、アンドウォンバイ、カウント6、4」


 やっぱりね。


 女子生徒たちの歓声の中、対戦相手であるテニス部部長とにこやかに握手を交わしているのは一人の男子生徒。180㎝を超える恵まれた体格と、運動神経抜群、成績優秀というステータスを持ち、この学校で一番カッコイイとさえ言われる人物。脚光を浴びているそのヒーローは、何を隠そう僕の親友――牧村進士であった。


 しかし、やれやれ、まったくあの彼女持ちは。というより、シンジに彼女がいるということはかなり周知されていると思ったのだけれど……この人気は一体何なんだ? 腹立たしいことこの上ない。


 そんなことを考えていると、シンジもこちらに気付いたようで、実に爽やかな笑みを浮かべながら駆け寄ってきた。男の僕から見てもカッコイイな、コイツ……。


「よっす、文学少年! 今帰りか? いつもより早いけど」

「よっす、クソイケメン。今日はツバキに用事があるらしくてね」

「そうなのか、あいつも地味に忙しそうだからな。ただな、シロ、俺がイケメンなのは認めるが、頭にクソは付けんでくれ」


 シンジはそう言って苦笑してみせた。自分のことを“イケメン”なんて言っておきながらまったくもって嫌味たらしくないのが、彼の魅力だ。とはいえ、僕の小さな反抗くらいは許してもらいたい。こちとら彼の言う通り冴えない文学少年。対して向こうは勉強もスポーツも顔の造詣も、とても同じ生き物とは思えないほど完成された人間だ。おかげでなぜ僕のような平凡な人間が、シンジのようなスーパースターと親友なのか、と陰口を叩かれることもあるくらだし。


「それで、テニス部でもないシンジがなんで試合を? しかもテニス部の部長なんかと」

「んー、まあ、練習試合ってところかな。ちょっとお願いして相手してもらってたんだ」

「それにしても、何も部長を引っ張り出してこなくても」


 しかも勝ってしまうのだから、相手としては立場がないだろう。


「そう言うなよ。それにこれはお前のためでもあるんだぜ?」

「僕の?」

「おうよ。もしも俺が負けたらお前がテニス部に入部するって条件で試合を受けてもらってたからな」

「ちょっ……! そんな勝手な条件でやってたの⁉」

「良いだろう? 勝ったんだから」


 いやいや、負けてたらどうするつもりだったんだ!


「まあまあ。俺がお前以外の奴に負けるなんてあり得んだろう?」

「確かにそうかもしれないけれど……」


 事実、先程審判が宣言したカウントではシンジが試合を有利に進めたのだろうといことが窺えた。ラストマッチしか見ることができなかったけれど、シンジとあのテニス部長とでは頭一つ分ほどの技力差があるだろう。


 それにしても、文芸部(ほぼ帰宅部)のシンジがどうして練習試合なんて……?


 と思ったが、その答えにはすぐに思い至った。


「ああ、球技大会か」


 そう言えばゴールデンウィーク明けにはそんな行事もあった。まだ出場競技は決まっていないけれど、シンジのことならどんな競技に選ばれてもおかしくはない。むしろクラスメイトからすれば全ての競技に出てもらいたいところだろう。それに、テニスは他のチームでやる球技と違って経験の有無が戦力に直接影響してくる競技だ。カバーの効かない分、シンジが選ばれる可能性はかなり高いと言える。


「まあ、うちのクラスからは俺とお前で決定だろうけどな」

「僕は別にどんな競技でも良いけどね。ほどほどに楽しむだけのつもりだし」

「お前なぁ、せっかくの青春なんだから、何でも一生懸命やらなきゃ損だぜ?」

「勉強もスポーツも?」

「おうよ!」

「恋愛も?」

「もちろん!」

「じゃあ、彼女さんの相手もしっかりするんだね」


 僕はそう言って小さく顎でコートの反対側を指した。そこには小柄な女子生徒がコートを囲う金網に不安げに指をかけながらこちらを見ていた。学校で一番可愛い女子だ、この距離でも見間違えることはまずない。あれはシンジの恋人だ。


「やっべぇ……俺、ちょっと行ってくるわ!」


 折角彼氏のことを応援したのに、真っ先に男友達の元に行ってしまわれては、彼女が浮かばれない。まあ、シンジのファンや、あるいはその恋人に想いを寄せる他の男子からすれば、二人の関係が悪化するのはありがたいことかもしれないけれど……それでも、僕はシンジの友人であり、彼の恋を応援する立場にある。そんな僕がいつまでも彼を会話に留めておくことはできない。


 慌てて駆け出したシンジだったが、三メートルほど進んだ位置まで行くとピタリと立ち止まった。そしてこちらを振り向く。


「どうよ、この後一戦」

「文学少年相手に冗談言うなよ」

「文学少年兼元天才テニス少年だろうが」

だよ。それに――」

「それに?」


 僕はツバキに嘘はつきたくない。


「今日は家に帰ってテスト勉強する予定なんだ」




 シンジの制止を振り切って帰路につく。人気のない住宅街の中を進みながら、ふと遠くの空を見上げた。西の空はまだ僅かに紅く染まってはいるけれど、空の大半には概ね夜が訪れ始めていた。夏が近いとはいえ、五時過ぎともなればもうこの暗さだ。


「さて、と」


 ツバキとの話じゃあないけれど、帰って本当に真面目に勉強でもするか。

 そう思った次の瞬間――


「――ッ⁉」


 後ろからすごい強さで両腕を抑え込まれた。相手は複数の力の強い男だ――それを直感した時にはもう既に手遅れに等しかった。僕の口元にはハンカチを被せられ、薬品か何かを嗅がされたかと思うと、僕の意識はみるみるうちに肉体から離れていった。


「な、に……を」


 呂律の回らない口で言葉にもならないようなことを呟きながら、僕は意識を失った。




「さて、答えを聞こうか」


 光の中で、その女性が最終通告を下す。


 もしもこれを断ればどうなるか。自称・宿は僕をどうしようというのか。いや、まったくもって考えたくもない。


「その前に、一つ訊いても?」

「良いだろう」

「なぜ僕なんですか?」


 確かに僕は町子さんに二回ほど頼ったことがある。けれど少なくとも、彼女のスパイを任命されるほど親しくはないはずだ。


「簡単だよ。彼女が君を気に入っているからさ。それに、彼女には友人が少ない」

「そうなんですか?」


 ちょっと意外だ。町子さんは色々なところに顔を出しているようだから、友人は多いと思っていた。


「基本的に彼女は同じ人間からは依頼を受けないんだ。ルールというわけではないが、普通の人間は彼女を満足させられるほどの謎を、いくつも用意できないからね。そういう意味では、君は特殊と言わざるを得ない」


 二回の依頼は、僕としては少ないと思っていたけれど、しかしどうやらそれは逆のようだった。町子さんと話すのは楽しいけれど、しかしそれも僕の不幸体質が成せる業なのかと思うと、嬉しいような悲しいような……。


「つまり君はまた関ヶ原町子に頼る可能性がある。二度あることは三度あるというやつだよ」

「なるほど。ちなみに、もしも僕が断ったら?」

「君の代わりはいくらでもいるが、こうして話したことを他所でペラペラと話されるわけにもいかないからね。もしも断れば――」


 ステッキの上に重ねられた左右の手から、右手だけが徐に引っ込み、そして懐からを取り出した。いよいよまさかの展開だ。そんなもの、およそドラマや映画でしか見たことがない。シルエットでも分かる。彼女のその小さな右手には、一丁の拳銃が握られていた。


 影だけだから、それがどんな銃なのかは分からない。見えたところで種類が分かるとも思えないし、分かったところでこんな状況では何の意味もないのかもしれないけれど……。


「もしも断れば、私はこれを使わざるを得ないだろう」

「それって本物……?」

「私は嘘や冗談が嫌いだ」


 いよいよもって悪の組織だ。だがしかし、僕の答えはもう決まっている。


「お断りします」

「即答だね。知り合って間もない彼女に義理立てかい」

「そんなんじゃありません。ただ、僕は――」


 正義の側にいたい。それだけだ。主人公にはなれなくても、役名すらないモブキャラでも、悪の道に落ちず光の側でいられたらそれで十分じゃないか。


「ならば金をやろう。一介の高校生には多すぎる額だ」

「お断りします」

「意外と強情だね、君は」


 ここまで冷静であり続けた彼女の声が、初めて僅かに動揺したように感じた。おそらくこれまで交渉してきた相手は金をかけ合いに出した時点で引き受けていたのだろう。だがそれは、僕には通用しない。


 僕は黙って、銃口を見つめている。たった数グラムの弾丸で人は死ぬ。知識では知っていても実感は湧かなかったけれど、今の僕なら容易に想像することができる。僕はここで死ぬ。


 思い残すことがないと言えば嘘になるけれど、それでも誰の為でもなく、正義のために死ねるなら本望だ。


 僕は静かに両目を閉じた。


 ……。


「……?」


 十秒ほど経過した。銃弾は飛んでこない。多分、僕はまだ生きている。


 僕は僅かに瞼を開いた。


「どうやら、今日のところは時間切れのようだ」


 そう言って、彼女は拳銃を元通り懐に戻す。


「時間切れ……?」

「関ヶ原町子だ。やはり油断ならざる相手だよ、彼女は」


 女性は小さく肩をすくませると、顎で僕の方を指した。


「手錠の鍵なら制服のポケットに入れてある。彼女にはそう伝えたまえ」


 そして身を翻したかと思うと、カツンカツンと杖をつく冷たい音を鳴らしながら倉庫の外へ消えていってしまった。それと同時に僕を照らしていたライトが一斉に消灯する。光の直射を受けていたのはほんの数分くらいだったと思うけれど、今度は唐突に訪れた暗闇が僕の視覚を惑わせる。何事もあまりに大きな落差というのは良くない。


 そんなことを考えていると、先程誘拐犯が消えていった扉が再度開かれた。そして光が――先程までのライト群とは比べ物にならないほど小さな光が近づいてくるのが見えた。


「おろ? 誰かと思ったらワンコ君じゃあないか」

「……どうも、こんばんは」

「どうしたんだい、こんなところで」

「まあ、色々あったんですよ、町子さん」


 スマートフォンの小さな灯りを頼りにやって来たのは、頼れる名探偵・関ヶ原町子その人だった。


 町子さんは今晩はやや冷えるということなのか、Gジャンの上にトレンチコートを羽織っている。服装だけなら実に探偵らしい格好ではあるが、とはいえエキセントリックな髪色は相変わらずで、今日は二種類のが彼女の頭を覆っていた。頭頂部は濃い青で、毛先にいくにつれて薄く透明感のある青に移り変わっている。自然に落ちたような変化には見えないから、おそらく意図的に二つの青に染め分けているのだろう。綺麗ではあるけれど、暗転した直後でも見分けがつくくらい派手な髪色である。


「君はつくづく面白いことに巻き込まれるねぇ」


 ケタケタと無邪気に笑いながら彼女は僕の背後に回り込む。そして手錠を見るや否や僕の制服の胸ポケットに手を突っ込み、中から手錠の鍵を取り出した。


「ありがとうございます……ところで、どうしてこの場所が? それに手錠の鍵のことも」

「探偵には独自の情報網というのがあるものだよ、ワンコ君。とはいえ、今回は私の不徳の致すところだ。部外者の、それも未成年の君を巻き込んでしまった。まったく情けない限りだよ」

「それは、いいんです。こうして無事だったわけですから……でも、町子さんは、が誰か知っているんですか?」

「敵でしょ? 私の」


 手錠を外しながら、彼女はあっさりとそう言いきってしまった。やはり彼女は、僕とは違う世界に住んでいる存在なのかもしれない。


「とはいえ、向こうが人質を傷つけないという確信もあったけどねぇ。推理――というより、経験則に近い」

「つまり僕の他にもこうやって脅された人がいたってことですか?」

「連れ去られた人はいるよ。そこから先のやり取りが脅しか交渉かはそれぞれだろうけれど……ちなみに向こうは何て?」

「町子さんのことをスパイしろって」

「でも君は断ったってことだよね、こうして手錠をされたまま放置されたってことは。それはなぜ?」

「それは……」


 自分の信じる正義のためだ。


 そう言いたかったけれど、何となく気恥ずかしくて、僕は答えることができなかった。僕は主人公やヒーローに憧れている反面、彼らのように正面から格好をつけることができないのだ。それを改めて認識して、自分のことが情けなく思えて仕方なかった。もしもここで答えるのがシンジやツバキだったなら、その信念や論理的理由を胸を張って答えていただろう。


「単純に、僕が町子さんのことをあまり知らなかったからです」

「そうかな?」

「僕が知っているのは町子さんが大学生で弁護士の卵だっていうことと、連絡先と、推理が得意なことと、あといつも派手な髪色をしているってことくらいです」

「それだけ知っていれば十分だよん。今度は受けなよ、私へのスパイ。そんで儲けは山分けってことでさ」

「何言ってるんですか、もう」


 僕が呆れてそう返すと、町子さんはイタズラめかしたように舌を出してみせた。まったく、こっちは命をかけて断ったというのに、この人ときたら……。


 そう思った刹那、不意に僕の携帯が鳴った。


 誰だ? こんな時に。


 画面を見る。日付は四月二十五日。時刻は午後六時半。驚くことに僕が意識を失ってから僅か一時間ほどしか経過していなかった。


 着信の相手はツバキだった。確かに僕は彼女に恋愛相談をされることが多かったけれど、電話超しでされたということはこれまで一度もない。僕と彼女が電話で話すのは、僕が彼女に勉強を聞こうとする時くらいだ。それ以外の用件では、少なくともツバキの方から連絡をとってくるというのは皆無だった。そんな彼女が、一体どうしたというのだろう。


「もしもし、ツバキ? どうしたの?」

『シロタロウ?』


 次の瞬間、僕はまるで悪魔に心臓を掴まれたような気分になった。銃を向けられた時よりもはるかに大きな不安と恐怖が、一瞬にして僕の心を覆っていく。


 親友、椿木葵は悲痛な緊急事態宣言エマージェンシーを告げた。


『お願い、今すぐに来て。名探偵と一緒に……!』

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