脆く儚く美しき者たちへ――3
翌日も、私はただなんとなく青年の側にいることにしました。
やがて朝が訪れ、悪夢から出ると、誰かがこちらにやってくる足音が聞こえてきました。
さすがに他の人間に私の姿を見られると面倒なことになります。
私は夢の世界に身体を隠し、そのふちから現実を覗き込みました。
「あ……」
小柄な人影が格子窓の前に姿を現したその時、青年はかすかに息を呑みました。
青年は起き上がり、難しい表情でゆっくりと格子窓の側へ歩み寄ります。
「……もうここには来ない方がいいと言ったはずです」
「ごめんなさい。どうしても会いたくて」
かすかに責めるような色を帯びた青年の声音に、高く澄んだ声が申し訳なさそうに答えます。
若い女性でした。
青年と同じくらいの年齢――二十代前半といったところでしょうか。
繊細そうな面差しをしていましたが、ぱっちりとした瞳は意志の強さを表しているようでした。
今までは老婆や壮年の男性がここに食べ物を運んでくることがありましたが、若い女性が来たのは私が座敷牢にやって来てから初めてです。
食事を運びに来る人々は青年とろくに目を合わせようとしませんでした。
まるで青年の瞳の中に、自分の罪を見いだしてしまうことを畏れるように。
けれどこの女性は違いました。青年を見つめる瞳は、神でも異形でもなく、同じ人間を見つめる瞳でした。
今までとは逆に、青年の方が居心地悪そうに視線を逸らしました。
しかしふとなにかに気付いたように視線を戻すと、青年は格子窓越しに、女性の目元に手を伸ばします。
「怪我をしていますね。また、ですか?」
女性ははっとしたように顔をそむけ、半歩後ずさりました。
それは青年を避けてのことと言うよりも、痛々しい痣を見せてしまったことを恥じているような仕草でした。
「これは……たいしたことはないわ」
「先月幸せな結婚をしたばかりだというのに、あなたの夫はなぜ――そんなことを」
青年の声は激情を覆い隠すように揺らぎ、その言葉は着地点を見失ったようにぞんざいに吐き捨てられました。
「……あなたは相変わらず優しいわね。
私のことも、村のみんなのことも、心配して気遣ってくれる。
村のみんなは、あなたにずっと酷いことをしているのに。くだらない迷信なんかを信じてね」
哀しみを帯びた表情でそう言った女性は、やはり青年を生き神とは思っていない様子でした。
いえ、実際に本気で信じている村人はごくわずかなのでしょう。
彼はこの村を成り立たせるための贄のようなものなのです。
けれども彼は、女性の言葉に首を横に振りました。
「そんなことは気にする必要はありません。そもそも、私がまだここで生きていることは村人たちにとって想定外でしょう?」
青年は自分の胸元に手を当てます。ちょうど、心臓があるあたりに。
「私の身体は外も中も異常だらけです。
この年にまで生きることが出来たのは、私にとっても意外でした。
ですが、もしここから出ることが叶ったとしても、この弱い身体では労働力にもなれません。
むしろ養ってもらうためにもっと神様らしいことをしなくてはならないと焦りを覚えるほどです」
青年はそう言って微笑みました。
それは痛みを隠すためのものなのだろうと、当時の私にもわかりました。
女性は青年に、村での出来事を話します。
二人の会話から察する限り、女性は度々こうして青年を訪ねて来ては、外の出来事について話してくれているようでした。
「例の流行り病は、まだおさまっていないんですか?」
「ええ……。まだこの村はそこまでではないけれど、山をひとつ越えた集落は酷いものらしいわ」
どうやら、この辺りの村で伝染病が流行っているようでした。
けれどまだ差し迫った段階ではないと女性は言います。だからあなたは心配しないで、と。
青年は難しい顔で女性の話に耳を傾けました。
「ありがとうございます。久しぶりに外でのことが聞けてよかったです。でも――」
「ここには来るな、と言うのでしょう?」
「はい」
青年の眼差しは、女性の目元――痣のあたりに注がれていました。
女性はきっと眉を吊り上げ、青年を見つめ返します。
「あなたは私の友人です。会ってなにが悪いの」
結局、青年の説得に女性が首を縦に振ることはありませんでした。
青年は去っていく女性の背中を、切なそうな眼差しでいつまでも見送っていました。
私はそのさまを眺めながら、悪夢の中で得た人間に関する知識を思い浮かべます。
「お前はあの女のことが好きなのか」
夢から現実に身を滑り込ませながら問うと、青年は驚いたようにびくりとしました。
「なっ……! ……こほん。なんのことでしょうか。神は恋などしません」
彼は目に見えてうろたえていました。
神を名乗り超然とした態度を取っているわりには、可愛いところもあるものです。
「それに、あの人は人妻です」
「なにか問題があるのか?」
「あるでしょう、倫理的に。といっても、人間ではないあなたには伝わらないかもしれませんね」
青年は私に理解を求めても無駄だと察したようで、諦めたようにため息をひとつつきました。
当時人間のルールに興味の無かった私は、それよりもひとつの疑問が気になっていました。
「なぜあの女は、他の村人のようにお前を恐れない?」
「……あのひとは、子供の頃から親の目をくぐりぬけてよく私に会いに来てくれていたんです」
おそらく同年代の子供がこんな場所に閉じ込められていることを不思議に思ったのでしょう。
女性は子供の頃からことあるごとにこっそり青年に会いに来ては、いろんなことをお喋りしていったそうです。
「ここは、村のはずれにある古びた蔵の中です。普通の小さな女の子には、蔵も、私のような奇妙な外見を持つ者も恐怖の対象でしょうに、まったく勇気のあるひとですよね」
夢見るような口調で、青年が言葉を続けます。
「私の座敷牢の外に関する知識は、すべてあの女性から得たものです。あのひとがいなければ、私は動植物の名前も、村の様子も、なにもかも知らずに生きていたでしょうね」
そう聞いて、私はやっと、彼の悪夢で見た風景があんなにも美しく空虚で曖昧だった理由を知りました。
私はますますこの青年に興味が湧きました。
「名前は?」
「ゆりさん、です」
「……? それはあの女の名か? お前の名前を聞いたつもりだった」
首を傾げて聞くと、青年ははっとしたような顔をしてから、照れたように笑みを浮かべました。
「名前などありません。呼ばれる必要もありませんから」
神の化身ゆえに、人としての名前は与えられなかったということなのでしょう。
けれども私の瞳に映る彼は神などではなく、歳のわりに純粋すぎる恋をしている、ただの男でした。
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