第36話 孤独の城――マイの追憶B

 裕美さんは一見厳しい人だったけど、優しい人だった。

 エキストラや子役の仕事をいくつかこなした後、あたしの適性を見抜いて、アイドルとして売り出すことを決めてくれた。


 あたしはただにこにこしてそれに従った。

 自分の本心なんて喋れなかった。


 『あたし』自身はこの世の中に必要とされていないけれど、裕美さんが作り上げてくれた『あたし』は、きっと愛してもらえると思ったから。


 そんな風にして、今まであたしはずっと無責任に生きてきた。

 本当は演技がしたい、演技で大好きな物語を伝える仕事がしたいと思いながらも、アイドルとして必要とされていることが本当は嬉しかった。


 時折頭に浮かんだのは、お母さんとのあのやりとりだ。

 お父さんが亡くなって以来、お母さんが初めてあたしに見せてくれたあの笑顔。

 あたしが歌うのは、馬鹿みたいに無邪気なふりをするのは、本当は全部お母さんに愛してもらいたかったからだ。


 ファンの人たちから、代わりになるような愛情を向けてもらおうと必死になってた。

 どれが自分の本心なのか、やりたいことなんて本当にあるのか、次第にわからなくなっていた。

 忙しい日々を過ごしてぐったり疲れているはずなのに、いつの間にかうまく眠れなくなっていて。

 矛盾する気持ちに挟まれてピンボールみたいに右往左往しているうちに、弾かれて奈落の底へ落ちていってしまいそう。


 そんな矢先、あたしは自業自得の窮地に陥った。

 あたしがストーカーを罵り、アイドルとしての仕事を貶めるような発言をしている音声がスクープされ、ネットやテレビに流されたのだ。

 

 あたしは――怖い。

 怖くてたまらない。これから歩んでいく道が。

 言い訳は許されない。

 誰かのせいにもできない。


 今から歩んでいくのは、初めて本当に自分で選んだ道だ。

 たとえストーカー相手でもあんなことを発言すれば、今後アイドルとして活動できなくなるだろうことはわかってた。

 このところ、あたしのスキャンダルを狙った記者がよく後をつけてきていたことも知ってた。


 あたしはアイドルを辞める理由を周囲に作ってもらったようなものだ。

 やむを得ないからアイドルになったように、やむを得ないから芸能活動が出来ないのだという現実を作ろうとしていた。

 そうすればもう自分でも訳のわからない思いに葛藤することもなくなる。


 あたしは夢も職も失って、必死で就職して、やりたくはないがやらなければならない仕事をし、やっと身の丈に合った人生にたどり着くのだろう。


 でも、あたしの周囲にいる人たちは優しすぎて、あたしを許してしまった。

 絶対に反対すると思っていた裕美さんですらも、冷却期間を置いて芸能活動に復帰することに賛成してくれた。


 あたしは自由になって――そして、逃げ場を失った。


 アイドルじゃない『あたし』はこの世に必要とされていない。

 きっとまたひとりぼっちになる。


「マイ! いるのか?」


 ふいに誰かの声が聞こえてきた。

 テレビのあるリビングの方。


 あたしは再び幼い頃のあたしの家に戻り、恐る恐る一歩を踏み出す。

 お母さんがお酒を飲みながら泣いている和室から、リビングの方へ。


「マイ!」


 大人の男の人の声だ。

 覚えがあるような気もするし、ないような気もする。


 あたしの世界に無遠慮に飛び込んできたイレギュラー。

 苛立ちが募ってナイフを向けてしまいたいような気持ちになるけれど、同時にすがりたいような気持ちにもなる。


 あたしのことをアイドルでも有名人でもなくて、ただのわがままな年下の女の子のように見てくれる人。

 目の下にいつもくまを作っていて、自分のことなんて諦めきったような顔をして。

 でも、まるで義務かなにかのように、毎回あたしを助けてくれる人。

 あたしを助けているようで、自分を助けようとしてる人。


 そこまで考えてから、幼いあたしは首をかしげる。

 それって……誰だっけ。


 ああ、足元に闇が広がっていく。

 底の見えない闇が。

 全てこれに飲み込まれてしまったら、あたしはどうなるんだろう。

 もしかしたら、そこには安らぎがあるのかもしれない。

 もう個として生きなくてもいいという安らぎが。

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