第37話 孤独の城――2



「うおっ! いてて……」


 急に床が抜け、落ちた先はまるでアパートの一室のようだった。

 ちょうど玄関に尻餅をついていた俺は、電気もついていない薄暗く古びた部屋に身震いをしながら立ち上がった。

 さっきまでいた城のエントランスとは全く違っていて、生活感が漂っている。


 でもここに暖かみのようなものはない。

 玄関のすぐ側にあるキッチンの廊下には、無数の酒瓶が転がっていた。

 俺は恐る恐る立ち上がると、廊下を歩く。

 暗い中でも辺りが見えることを不思議に思ってから、リビングに続いているらしいガラスがはめてあるドアからぼんやりとした明かりが漏れていることに気づいた。


 砂嵐の無機質な音も、リビングとおぼしき方向から聞こえてきている。


「マイ! いるのか?」


 返事は聞こえない。

 でもきっとドアの向こうにいるのだろう。

 確かな予感を胸に俺はドアノブに手をかけた。

 きしむような音を立てて開いたドアの先に、なにかがいた。


 なにか、としか形容できなかった。

 人の形をしている。

 まだ小さくて、10歳になるかならないかというところだろう。

 髪は肩までかかっているように見える。

 それ以外には何もわからない。


 なぜなら、顔がなかったからだ。


 目の前にいるのは、人の形をした砂嵐だった。

 テレビの中に映っている砂嵐と同じ。

 まるで繊細すぎる切り絵のように、髪の一本まで、暗がりにちりちりとした輪郭となって浮かび上がっている。


「マイ……?」


 人の形をした砂嵐は頷くこともせず、テレビの前にちょこんと座り込んだ。

 俺は少し戸惑ってから、その隣に腰を下ろす。

 テレビの前には、水のペットボトルと、コンビニのおにぎりの包装、それから何冊かの本が積み重ねられていた。

 まるで、1日中ここから離れずに過ごしたような痕跡だった。


 ふいに奥の部屋からうめき声が聞こえてきて、身が竦む。


「ううっ……ああっ、どうして……!?」


 すすり泣き混じりの声は、制御の利かない感情に支配されている気配があった。


「あの声は?」


 ぞっとしながら聞くと、テレビの砂嵐がぱっと消え、ちゃぶ台の上に突っ伏した女性が映し出された。

 今度はテレビの中から声が聞こえてくる。


『あなたがいないのに生きていくなんて無理。

 それにあの子……マイが、いつも私を恨みがましい目で見るの。こんな親に育てられるなんて嫌なんでしょうね。でももう限界。

 私自身生きていく自信なんてないのに、どうして子どもの面倒まで見なくちゃいけないの?』


 女性は誰かの写真を眺めながら、酒をあおっている。

 次の瞬間、まるでドラマのカットのようにカメラが切り替わり、手元の写真がアップになった。


「この人が、お前のお母さんなのか? 写真の人がお父さん?」


 そう聞いてみると、子どもの形をした砂嵐が、こくりとうなずく。

 それからテレビの映像は次々に切り替わった。


 幼いマイが母親にすがりつき、頬を張られて泣いて、その後に抱きしめられているシーン。

 裕美さんの面影がある若い女性に手を引かれて家を出て行くシーン。

 初めての芸能界の仕事で、エキストラとして顔も映らない子どもとして使われているシーン。

 演技が思うように出来ずに監督に怒鳴られ、家に帰って深夜まで練習しているシーン。

 アイドルとして売り出すことを告げられ、一瞬戸惑った後、すぐにそれを完璧な笑顔で塗り替えて頷くシーン。

 多忙なスケジュールの中、まだ薄暗い中起きて鏡の中をのぞき込み、自分の頬を両手で叩くシーン。

 休日のショッピングで、強くなりたいと願いながら思い切って豹柄の服を買ったシーン。


 マイが辿ってきた人生のすべてが画面の中にあった。


 それは華やかさとはほど遠くて、意外なほどに泥臭く、マイの心は笑顔の下でいつだって危うく均衡をたもっていた。


 俺の隣にいる小さなマイは無言でそれを眺めている。

 相変わらず顔の部分は砂嵐を映していて、表情は読めない。

 異様な姿にも関わらず、なぜか俺は怖いとは思わなかった。


「辛かったか?」


 そう聞くと、小さなマイは慌てたように首を横に振った。


「……本当に?」


 今度は俺の言葉を肯定するように首を縦に振る。


 ――でも、これじゃあ本心はわからない。

 前回の悪夢の中で人魚だった時、マイは自分は声を出せないと思い込んでいた。

 今は、声を出さなくても済むように、きっとわざわざこの姿を選んでいる。


 自分の意思を伝えたいというあのときの言葉は本当だったのだろう。

 実際に、人魚の夢を脱した後、マイは現実で自分の本心をぶちまけた。

 けれど悪夢はなおも彼女を蝕んでいる。 


 俺の手は、まるでマグリットの絵画のように異様な姿になったマイの頭に自然と伸びていた。

 髪があるはずの部分を撫でると、砂嵐のくせにきちんと柔らかな感触があった。

 俺の隣に腰を下ろしていた子どもの姿のマイは、戸惑ったように後ずさる。


「もう今更だ。本音全部言っちまえよ。お前は覚えてないかもしれないが、俺はもう何度もこうしてお前の夢の中に入ってるんだから」


 すると、人の形をした砂嵐がぐにゃりと歪み――視界がぶれたと思った瞬間、幼い女の子の姿が鮮明に現れた。

 やけに大人びた瞳はいつものマイの面影があったが、今は怒りに燃えている。


「もう、放っておいてよ!」


 マイがたたきつけるようにそう叫んだ。

 夢に入る前、カフェで同じ台詞を口にした時と同じように。


「あたしは幸せだった! いつだって誰かが助けてくれた。運も良かった。

 あたしの周りの人の方がずっとずっと大変だったと思う。お母さんや、裕美さんも」


 強気のまなざしは、まるでいつものマイのようだ。

 けれどそこに怯えが潜んでいることも、今ならわかる。


「周囲の人は大変だったかもしれないけど、だからってそれと比べて自分は幸せっていうのは違うんじゃないか?」

「それは……」


 マイが、なにかを堪えるような表情で黙り込む。

 そしてぐにゃりと顔を歪ませて、吐き捨てるように言った。


「あたしは、そんな風には思えない。アイドルを演じている自分じゃなくて、自分自身が嫌いだから。いっそ生まれてこなければよかったのに」


 今までマイの過去の映像を映していたテレビの画面が、ぷつんと途切れる。

 暗闇の中で、マイの呟きは底知れぬ響きを持っていた。


「きっと本当はここにいちゃだめなの。本当は誰にも必要とされてないのに、誰かに必要とされたいなんて願って。アイドルの仮面を被ってでもちやほやされたいって。

 どうしてだろう。どうしてそんな厚かましいことを願っちゃったんだろう。

 本当のあたしは、お母さんを悲しませて、『哀れで世話をしてあげなくちゃいけない女の子』として周りの人たちを困らせることしかできないのに」


 怒りに満ちた呟ききは、次第に途方に暮れたようなものへと変わっていく。


「必要とされるあたしがいるなら、それを演じないと。……そうじゃないと、あたしが生きていく許可はもらえない」


 なんてこった。

 俺はこの時やっとマイの絶望の正体に気付いた。

 マイはきっとこんなに小さい子どもの頃から、今までずっと、自分自身の存在を否定してきたんだ。


 テレビの中でうまく振る舞って、プライベートでは強くあろうと努力して――

 本当のマイは、きっと幼いまま、心の奥底に放っておかれていた。今までずっと。


「なあ……」


 なにか声をかけようとして、けれどどんな言葉も見つからずに俺は口を閉じる。

 どうにかしてマイの希望を見つけなければ、マイは傷んだ悪夢に飲まれて現実でも命を落としてしまう。


 助けるにはどうすれば?


 ――いや。俺に誰かを助けることはできない。

 それは卑屈じゃなく、純然たる事実だった。

 俺に出来ることなんてたかが知れている。


 高校生の頃、『助けられなかった彼女』を助けられると思っていたこと事態が思い上がりで、間違いだったのだと、大人になった今振り返って改めてわかった。 

 『彼女』はきっと、助けられることを望んでいなかった。

 誰かに恩着せがましく助けられて、ヒーロー面なんてされたくなかったはずだ。

 なぜなら、精一杯強くあろうとしてたから。


 マイもきっと同じだ。

 気の強い言振る舞いも、武装するようにヒョウ柄を好む意味も、今なら全部分かる。


「なあ、マイ」


 今度は力を込めて呼びかけると、幼い双眸が俺を見上げる。

 怒りと戸惑いと、それから諦めに暗く沈んだ瞳で。


 ふとマイの手元に視線をやると、夢に落ちる前に見た光景と同じように、その指先からが少しずつ黒いものに浸食されていっていた。


 タイムリミットが近い。


 


 それでも、伝えるべきことを伝えなければ。

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