第30話 追憶の屋上―2


「おい――」


 どうしたんだよその腕。

 そう続けようとした言葉は、甲高い声に遮られた。


「本当はたいしたことないんでしょ? これ見よがしにギプスなんてしちゃって。

 ちょっと小突いたくらいで大げさに倒れちゃってさ」


 クラスメイトの一人が、彼女に向かってにやにやと笑いながら言う。

 しかし彼女はそれをまるで聞こえていないかのように無視をして、歩みを止めなかった。


「ねえ、なんとかいいなよ」


 もう一人の派手な女子が、苛立ったように彼女の肩を押す。


 一瞬、何が起こったのか分からなかった。

 彼女はわずかに顔を歪めてよろけたものの、すぐに体勢を立て直す。

 周囲のクラスメイトたちは、小さく笑い声を上げたり、さげすむような顔で彼女を見ていた。


 ――こんなあからさまな場面を見てしまったせいで、俺は彼女の事情をなんとなく察してしまった。


 今までの彼女の様子と合点がいく。なぜ屋上以外の場所で会うことがなかったのか。なぜ今まで人と話しているところを見たことがなかったのか。

 一気に頭に血が上ったのは、目の前の光景以上に、何も気づかず脳天気に過ごしていた自分に対しての苛立ちのせいだった。


「何してんだよ!」


 語気を荒げて歩み寄ると、彼女がびくりと身を震わせて俺を見上げた。

 そしてすぐに視線を背け、俺の脇をすり抜けて廊下を走っていく。


「あっ、おい……!」


 反射的に追いかけようとしてから、その前に言うべきことがあると思い直してクラスメイトたちに向き直る。


「やめろよ、ああいうの」

「な、なによ急に。ちょっと話しかけてただけじゃない。行こ」


 茶髪の言葉が終わらないうちに、彼女を追いかける。

 追いついたら沢山話をしなくてはいけない。

 何も知らなかった自分のことを謝って、彼女の話をきちんと聞かなくてはいけない。

 いつものように浮き世離れした話じゃなく、現実で彼女自身に起きていることについて――。


 急いた気持ちで彼女を追いかける俺を、今現在の俺は冷ややかに見下ろしている。


 これは、俺が正義感に酔って間違いを犯した瞬間だ。

 俺はこの日この時間に廊下を歩くべきじゃなかった。

 例え彼女がいじめられている現場を見てしまっても、声をかけるべきじゃなかった。


 すべてを間違えている俺は、彼女がいじめっ子たちのせいで傷ついているに違いないと決めつけて彼女の後を追い、階段を駆け上がっていく。

 どこに行くかはもうわかっていた。

 あの屋上だ。

 わずかに開いたままになっているドアを開け、彼女の後を追う。


 屋上に出ると――彼女は、いつも通り柵の向こう側にいた。


「おい……」


 その背中になんと声をかけていいのか、俺は急にわからなくなった。

 彼女が振り向く。

 柔らかな髪が屋上を吹き抜ける風に煽られ、彼女の表情を半分隠した。


 耳に届いた声は、不気味なほどに穏やかなものだった。


「ここは私にとっての聖域だった。みじめな私を知る人はいない。

 君はなんだか自分のことにいっぱいいっぱいで、私の事情には興味ない。

 でもそれでよかったんだ。

 隣のクラスでみっともなくいじめられて不登校になってる私を知らない、ただの君だから、聖域に立ち入られても許せた。なのに」


 風が再び彼女の髪を乱し――潤んだ瞳と、白い頬、ゆるく弧を描いた桃色の唇があらわになった。


 透明な表情は、俺が見た彼女の顔の中で、一番綺麗なものだった。


「……もう、だめだね。私の居場所は、この世界にはないみたいだ」


 彼女の体が、まるで蝶が飛び立つような自然さで、空に投げ出される。

 その光景を、俺はまるで映画を眺めているかのような非現実感を味わいながら眺めていた。

 そして、彼女を最後に傷つけたのはあのいじめっ子たちではなく自分なのだと、どこか他人事のようにそう思った。


 その後どうなったかというと。

 幸い、下の階の庇と、背の高い植木にひっかかったことで、彼女は奇跡的に助かった。

 いや本当に、嘘みたいな話だと思う。

 世界びっくりニュースの類いに選ばれてもおかしくはない。

 けれど当然のごとく、彼女はもう二度と学校に来ることはなかった。

 彼女がその後どうなったのかは知らない。

 知ろうとすることもできなかった。

 俺はその記憶を心の奥底に沈めることで、また元のような学生生活を送り始めた。

 進路希望用紙を提出し直した上で。

 かくして、俺の未熟で恥ずかしい夢は、彼女の存在ごと、俺の中から消え去ったのだった。


 それからの俺は、周囲の大人たちの期待に添って生きた。

 彼女のことを思い出すことは避けていても、自らの未熟さを思い知った傷みだけは、生々しく残っていた。

 俺に正しい選択なんてできない。

 あんなに身近にいた友人を助けることができなかった。

 話を聞くことさえできなかった。

 それどころか、むしろ…………とどめを刺したようなものだった。


 自分がいかに独りよがりな人間だったのかを思い知って、俺の中の世間に対する正義感は燃え尽きた。


 でも、なぜだろうか。

 人に望まれるまま生きようとしても、人生がイージーモードになるわけじゃなかった。


 むしろ、どんどん困難さが増していき――俺は、気づけば望まない場所で、望まない仕事をしていた。

 世の中の苦さを知って、折り合いをつけ、うまく生きることで、自分は大人になったのだとどこかで満足していた。

 心を麻痺させて、人生なんてこんなものだろうと。


 でも……本当に、これでいいのか?



 忘れていた過去の夢から、ゆっくりと意識が浮上する。

 コーヒーの匂いが鼻先をかすめ、おっとりとした声が上から降ってきた。


「おはようございます。ずいぶんうなされてましたね」


 ゆっくりと目を開ける。

 すると、夢見がベッドの側に立って俺の顔をのぞき込んでいた。

 眠る前、キッチンにいる時に問答無用で夢の中に引きずり込まれたような気がするが、どうやらベッドに運ぶことくらいはしてくれたらしい。


 それにしても、ずいぶん長いこと現実に帰っていなかったような気がする。


「どれくらい眠ってたんだ……?」

「1時間、というところでしょうか。

 城の中に閉じ込められたり、ゾンビに追われたり、ずいぶん盛りだくさんな内容の1時間でしたが」


 俺にはそれに加えて、その後自分の黒歴史を見せられるという、文字通り悪夢のような時間があったわけなんだが。

 あれだけ長い期間夢の中で過ごしても、現実はそんなものなのか。

 夢の内容と相まって、ぐったりと疲れ切ってしまった。


「マイは?」


 聞いたそのとき、隣のベッドから小さくうなるような声が聞こえてきた。


「うーん、よく寝た」


 マイが上半身を起こし、伸びをしている。


「おい……大丈夫か」

「ん? 何がー?」


 のんびりした声が返ってきた。


「なにか変な夢見たような気はするけど、久しぶりにすっきり眠れたかも」

「それはよかったな」


 シンプルにうらやましい。

 俺も今すぐ二度寝したい。


「あっ、やば!!」


 マイは急にそう叫ぶと、バネの要領で勢いよくベッドを起き上がった。


「どうかしましたか?」

「今日中に事務所に台本取りに来いって言われてるんだった」

「台本って……もしかして、ドラマかなにかか?」

「ううん。いつも通りバラエティ。バラエティにもちゃんとあるんだよ、台本」


 そう言いながら、マイは部屋に備え付けてある姿見に向かい合い、手早く乱れた髪を整えた。


「タクシー呼ぼ。ちょっと外で電話してくるね。

 あ、そうだ、待ってるあいだ夢見さんのコーヒー飲みたいな」

「かしこまりました。用意しておきますね」


 マイは店の外に出て、俺と夢見はキッチンのあるホールに向かった。


「……ん?」


 いつの間にか、カウンターにタブレットが立てて置いてある。

 なにかバラエティのような番組を再生しているらしく、笑い声が聞こえてきた。


「ああ、幸世さんが二階から持ってきたんですよ。

 さっきまで見てたんですけど、そのまま帰っちゃったみたいですね」

「最近の座敷童はタブレットを使うのか?」

「幸世さんはああ見えて新しもの好きですからね。最近は映画やテレビ番組の……ええと、サブスク配信? にもハマってるって言ってましたよ」

「もはやただの現代っ子じゃねえか」


 きっとそのうちyoutubeばかり見るようになるぞ。

 別に悪いこととは思わないけど。


 ぼんやり画面を眺めていると、司会者からゲストへとカメラが切り替わった。


「……! マイ……」


 そこに映っていたのは、アイドルの愛沢マイだった。ふわふわの服を着て、砂糖菓子のように甘い笑顔を浮かべている。

 素顔とは、全く違う表情。


 司会者と他のメンバーをざっと見ただけで、マイに与えられた役割がわかった。 

 とんちんかんな受け答えをして、説明を促す役だ。


『んーと、もっかいルールいいですか? これが-?』

『いやだから、さっき説明したでしょ!』

『ごめんなさいっ☆』


 芸人の突っ込みに、テレビの中のマイはぺろっと舌を出して明るい笑顔を浮かべる。

 空気を停滞させるけれど憎めない、絶妙な受け答えだった。

 きっと、CMに入る前に説明された番組のルールを聞き逃した視聴者にも、これで伝わったことだろう。

 マイは完璧に自分に求められる『役』を演じていた。

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