第29話 追憶の屋上―1
一番最初になにかを諦めたのは、思えばあの時だったのかもしれない。
進路希望調査の用紙を遅れて提出しに行った、放課後の職員室。
担任が椅子を回してこちらを振り向き、俺が差し出した紙を受け取る。
「児童保育学科? 意外だな」
笑い混じりの声に、顔が熱くなる。
ある程度予想していた反応ではあったのだけれど。
「なあ。これは個人的なアドバイスなんだが……」
そう前置きして、担任は言いにくそうに言葉を続けた。
「これって保育士の資格がほしいってことだろ? 男が保育士なんて、なあ?」
この担任は50代だった。おそらくその年代にとっては当たり前の考えだったのだろう。
「お前はそこそこ成績もいいんだし、もう少し考えてみたらどうだ。とりあえず今回はこれでもらっておくよ」
俺は曖昧に返事をして、早々に職員室を出る。
そのまま階段を最上階まで登り、屋上へと向かった。
そう、こんな反応をされるだろうことなんて予想していた。
父にも母にも苦い顔をされたし、判子をもらう際も『まあ、今時点での希望だしね』などと自分を納得させるようなことを言っていた。
好きなことを見つけろと大人は言う。
そして、自分の適性を見極めた上で将来を決めろと大人は言う。
けれどそれは、あらかじめ想定された範囲内でのことだ。
父親も、いくら息子が年の離れた妹や親戚の子どもたちの面倒をよく見ていたとしても、保育士になりたいと言い出すとは思っていなかったのだろう。
当時の俺としては、ただの思いつきじゃなく、それなりに考えて出した答えのつもりだった。
性別で就ける職業が決まるなんて馬鹿らしい。給料に問題があると言うのなら、なおさら変化を起こす要素が必要だ。
それに、大勢の子どもたちと接するからには、力仕事も必要になってくるだろう。だったらむしろ男の方が適している場面だってあるはずだ。
普通はそういう道を選ばないと言われても、『だったらこれから世の中を変えればいい』くらいに思っていた。
『普通』なんて漠然とした価値観を押しつけられて生きるのはまっぴらだと思ってた。
進路調査用紙を提出したら、クラスメイトにだって話してみるつもりだった。
初めは冗談交じりに打ち明けることしかできないかもしれない。
でも、自分で決めたことだ。きっと周囲の目に怯えることなく意思を貫けると思っていた。
――それなのに。
担任の反応を目の前にして、考えを何一つ口にすることすら出来なかった。
急に、細い鉄骨の上を歩いているような気持ちになったのだ。
周囲の大人は、俺が『正しい判断』を下すことを期待してる。
選択を誤れば、真っ逆さまに落ちてしまう。
世間が求める『普通』から、逸脱してしまう。
担任の苦笑いは、困った子どもに対するそれだった。
正しい判断を下せないうちは、大人にはなれない。
……とまあ、これは当時の俺の思考だ。
今思えば、俺は妙にこじらせた思春期特有のプライドを勝手にくじかれて、傷ついていたのだろう。
夢の中であるとはいえ、青くさいガキだった頃を追体験をするのは枕に顔を埋めて叫び出したくなるほど恥ずかしかった。
こんなの精神的拷問だろ!
しかしまだ夢から覚める気配はない。
俺は逃げられない。
実を言うと、この先に待っているはずの記憶にはあまり覚えがなかった。
夢見が言っていた、「それなりに深い階層」という言葉が頭によぎる。
高校生だった俺は、学校の階段を上へと上っていく。
階段を上りきった先の屋上のドアには、古びた南京錠ががかかっていた。
だが、実は鍵がかかっているわけではなくて、錆び付いているせいで開けるのにコツがいるだけだと知っていた。
以前ダメもとで引っ張ってみたら、運良く開いてしまったのだった。
知っている生徒はどのくらいいるのだろう。
少し右方向に引っ張って、南京錠を外す。
にぶい音を立てるドアを開くと、大きく広がる青空に迎えられた。
今日も他の生徒の姿はない。
大股で手すりまで歩いて行き、俺は肺が音を上げるまで息を吸い込んだ。
「クソが!!!」
ぼんやりと浮かんでいるひとつの雲に向かって、やけくそで吐き捨てたそのとき――
「君、おとなしそうに見えるのに。そんなことを叫ぶなんて意外だな」
「え……?」
姿は見えないのに声が聞こえた。
低めで落ち着いているけれど、紛れもなく女子の声だ。
「ここだ。ここ」
柵の向こうから、ひょこっと小さな手が上がる。
――柵の向こう!?
ふと横を見れば、一足の靴が丁寧にそろえておいてある。まるで身投げをした形跡のように見えた。
「ちょっ……どうしてそんなところに……!」
「大丈夫だよ。君の懸念はもっともだが、別に自殺しようとしてたわけじゃない」
にゅっと二本の腕が伸びてきて、柵を掴み、鉄棒の要領で彼女は上半身をあらわした。
よいしょっ、と小さくかけ声をかけながら、小ぶりな両足が柵のこちら側に着地する。
「柵の向こうはすぐに絶壁になってるわけじゃない。段差があるんだ。
そこにいれば、屋上からも地上からも見えない。
誰にも見つかりたくない時には最適だよ」
まるで学者かなにかのように落ち着いた抑揚で、彼女が言う。
柔らかな猫っ毛のボブヘアに、子鹿のように大きな瞳。
だいぶ衝撃的な登場の仕方だったというのに、どことなくお嬢様然とした上品さがある。
頬に貼られたやんちゃ小僧のような絆創膏が、やたらに似合っていなかった。
◆
彼女は隣のクラスの子だった。
……というのは本人の口から聞いたことだったが、廊下で会うことも滅多になく、俺は少なくとも数週間のあいだは、幽霊かなにかと話してるんかじゃないのかと疑ったものだ。
彼女が話すことはいつも浮き世離れしていて、そのことも彼女の少し変わった雰囲気を助長させていた。
俺はあれからなんとなく屋上に行くことが多くなった。
しばらく青空を見上げていると、鬱屈した気分が少しは晴れるような気がした。
もちろんクラスメイトにはそんな感傷に浸っていることなど知られるのは恥ずかしく、いつもこっそりひと気がない時を狙って階段を上る。
彼女と鉢合わせするのは、週に2回ほどだった。
俺の足音を聞くと、彼女はいつも手すりの向こう側からひょっこりと顔を出す。
彼女はいつも、最近読んだ哲学の本についての話題を俺に振った。
人間は何を求めて生きているのか。
不変の美しさというものはどこにあるのか。
死とは何なのか。
正直よくわからなかったので、俺は適当に相づちを返していたような気がする。
それでも彼女は俺の反応を気にすることなく、囀るように喋っては、やがて満足してどこかに去って行くのだ。
浮き世離れした、とらえどころのない子だった。
今思えば、あれは中学二年生あたりに罹患するというあの病の発露だったのかもしれない。
でも俺は、他人や世間のことなど気にもしていないという振る舞いの彼女のことを、少しだけかっこいいと思っていた。
俺はいつも自分のことで手一杯なのに、彼女はいつもなにか大きな概念について考えている。
自由な子だな、というのが第一印象だった。
お互いのことについてはあまり喋らない。
俺は彼女の話を聞くだけ。
いつしかその時間が心地良いものになっていた。
今こうして振り返れば、俺は確実に、彼女に恋なんぞという甘酸っぱいものをしていたように思う。
そんな日々が、3ヶ月ほど続いた頃だろうか。
いつの間にか屋上を吹く風はすっかり肌寒くなった。
彼女とあまり顔を合わすことがなくなったのは、その寒さが原因だろうと思っていた。
気楽なものだ。
廊下で会うことも、隣のクラスの前で見かけることすらなかったというのに。
彼女がなぜいつも屋上にいたのか、その理由に気づいたのは、ある雨の日のことだった。
昼休みに廊下を歩いていると、向かい側から彼女が歩いてきた。
珍しい。
しかも友達らしき複数のクラスメイトと一緒だ。
でも今はそれよりも、彼女の腕にギプスが巻かれていること、それから人形のように堅いその表情が気になった。
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