第31話 アイドルVSストーカー、そしてお礼のキス

「あれ。雨が降ってきましたねえ」


 夢見がふと気づいたように窓の外を見やる。

 雨粒に濡れ始めたガラスのむこうには、まだ電話を続けるマイの姿があった。


「……電話、長引いてるみたいだな」


 もしかしたら、これから台本を取りに行く事務所にも電話をかけているのかもしれない。


 ――仕方ねえな。


 俺は鞄に入っていた折りたたみ傘を取り出すと、貸してやるために店の外に出た。

 細かな雨粒のうっとうしさに目を細めながら、マイに近づく。


「おい、これ使え」


 小声で言って、電話中のマイに広げた傘を差しだしたその時――


「お、おまえなんなんだよ! マイちゃんに馴れ馴れしくしやがって!」


 電柱の影から、見知らぬ男が飛び出してきた。


「は……?」


 マイの知り合いか?

 そう思ってマイの方を見たが、マイはどこか緊張した面持ちでスマホを耳から外した。

 異様な雰囲気の中、フードを目深に被った男が、ふらりふらりとした足取りでこちらに近づいてくる。


「俺は、マイちゃんのことずっと見てたのに。こんな夜遅く、冴えない男と二人でなにしてんだよ!」


 俺はふと、今日店に来る前にマイが話していたことを思い出した。


 『最近誰かにつけられてる気がする』


 もしかして、こいつ……。


「だ、誰ですかぁ? もしかしてあたしのファンの人?」


 動揺を隠しきれないまま、マイがアイドル仕様の笑顔を浮かべる。


「応援してくれるのは嬉しいけど、こんなところで急に声かけられるとびっくりしちゃうな」

「うるさい!」


 男の怒鳴り声に、マイがびくっと肩を跳ねさせた。


「裏切りやがって。俺はずっとマイマイのことが好きだったのに……!」


 男が右手をこちらに出す。

 そこには鈍く光るナイフが握られていた。

 ついに現実でもナイフを向けられる日が来ようとは……!


 しかし男は、俺の覚悟とは裏腹にマイの方に向かってその手を振り上げた。


「危ない!」

「きゃっ……!」


 とっさにマイを庇ったと同時に、右腕に鋭い熱を感じる。

 どうやらナイフがかすったらしい。

 見ると、シャツが猫に引っかかれたように破けて、うっすら血がにじんでいた。


「ちょっ……大丈夫!? 刺された!?」

「平気。かすっただけだ」


 ナイフを持ちかすかに震えている男から視線を逸らさないまま、マイにそう答える。


 110番しよう。

 そして警察がやってくるまで、この男を逃がさないようにしなくては。

 夢見と二人がかりでならなんとかなるかもしれない


「マイ、店の中に入って夢見を呼んでこい」

「……」

「……マイ?」


 マイが、ふらりとした足取りで俺の前に出る。

 止める間もなく、すごみのある声で男に告げた。


「ねえ、さっき『ずっと見てた』って言ったよね? それってなにを?」

「え? だ、だからマイちゃんを……」 


 ……あ。まずい。

 俺は直感的にそう感じた。


 いつの間にかマイの瞳に剣呑な光が宿り、唇にはかすかに皮肉気な笑みが浮かんでいる。

 初めてこの店でマイを見かけた時、夢見を詐欺師だと思い込んで罵倒してたときの顔だ。


「あたしを? テレビの中のあたしを? あんな、馬鹿そうでふわふわした女を?

 実際のあたしもあんな風になに言われてもなにされても笑っていられると思った?

 あんたが見てたのはただの虚像だよ!」


 低い声で怒鳴られて、今度は男の方がびくりと身を震わせた。

 マイは悲しみと怒りの入り交じった声で言葉を続ける。


「……あたしはずっと、アイドルのあたしを好きでいてくれる人に感謝してた。本当は違うことがしたかったけど、でも、癒やされるとか、かわいいとか、そう言ってもらえるのは嬉しかった。だって誰かの心を動かせたっていうことでしょう? あたしが、誰かの希望になれてるかもしれないっていうことでしょう?」


 マイの瞳から、ぽろっと一粒涙が流れた。


「そ、そうに決まってるじゃないか! 俺だってマイちゃんのおかげで……」

「マイ、これ以上相手にしてやる必要は……」

「二人とも黙って!」


 ええ!? なぜか俺まで叱られた。


「もしあたしがあんたの希望になれてたなら、あんたはこんなことしなかったよね。どうして私を刺そうとしたの?」


 マイは男に一歩歩み寄る。

 男の手からナイフが落ち、乾いた音を立てて地面に転がった。

 それを追うようにして、男もがくりと地面に膝をつく。


「それは……だって、アイドルは恋しちゃいけないんだろ? だから俺はこうやって見てるだけで満足してたのに……なのに、その男に、親しげに呼びかけられるのを許して……」

「それだけ? 本当に? たぶん違うよね。あたしそういう目してる人知ってるもん」

「え……?」


 男の虚ろな瞳が、マイを映した。


「自暴自棄になってる目だよ。自分のことも、周りのことも、どうでも良くなってる目。世の中のなにもかもに見放されたと思ってる目。

 それにこれ、お酒の匂いだよね? 酔った勢いでなら殺せると思った?」


 男は呆然とした後、急に顔を歪めて真っ赤にした。


「う……うう、うるせえ! お前みたいな馬鹿なアイドルが知ったような口きくんじゃねえよ! 俺の気持ちなんてわからないくせに!」

「そうだよぜーんぜんわかんない、わかって欲しいなら説明して今すぐ!

 でもって謝れ! 昭博にも謝れ!」

「……すみませんでした」


 素直か。

 男は小刻みに震えながら、しょぼくれたように語り出す。


「……リストラされたんだよ。

 借金もあるし、アル中だし、離婚してまだ小さかった娘にももう会えない。

 テレビで見る元気でお馬鹿なマイマイだけが生きがいだった。

 こんなみじめな男に生きてる価値なんてあるか?」


 まさかの子持ちかい。しっかりしてくれ。

 マイはさらに男に歩み寄ると、自らもしゃがんで目線を合わす。


「もしあたしに励まされたことがあるなら、まっとうに生きて。

 あんたこんなにしつこくあたしのこと張るなんて根性あるよ!

 仕事だってきっとすぐ見つかる。

 今はそう思えなくても、ちゃんと生きてれば機会が巡ってくるよ」

「マ、マイちゃん……」


「世の中辛いこともあるよね。わかるよ。

 思い通りになんてならないよね。自分がひとりぼっちのような気にもなる。

 でも人を傷つけようなんて思ったらだめだよ。お酒に逃げるのもよくない。

 ね、一緒に頑張ろうよ……」


 すん、とマイが鼻をすする。


「マイちゃ……いえ、マイさん……っ!」


 なにか話が妙な方向に転がってきた。

 男が逆上しないか警戒してたが、もうそんな心配もなさそうだ。

 マイさんすげえ。

 ……やっぱり、強い子だよな。


「治療費払います。いや、払わせてください」

「や、たいしたことないんで。次の仕事見つかるといいですね」

「ありがとうございます……ううっ……」


 つい空気に飲まれて励ましちまった。

 男が泣き崩れ、マイに向かって何度も謝る。

 警察に連れていこうか迷ったが、俺の傷はたいしたことないし、なによりマイが『できれば帰してあげてほしい』と頼んできた。

 心配ではあるし、この男がしようとしたことは許されないが、この様子だとまたマイをつけ回すようなこともしないだろう。

 もうこいつにとってマイは『お馬鹿で明るい』だけの女の子じゃない。


 そこで、金輪際マイに近づかないよう約束させ、再び見かけたら迷わず通報することを告げたところで、ちょうどよくマイが呼んだタクシーがやってきた。


 男はぺこぺこしながらその場を去り、マイはタクシーに乗る。

 そして窓を開け、俺に顔を向けた。


「ごめんね。ありがとう。傷は本当に大丈夫? 病院一緒に行こうか?」

「絆創膏はっときゃ治る程度だ。それより事務所行かなくちゃいけないんだろ?」


 本当だったらそんなことをしている場合ではないと思うのだが、マイがけろっとしている以上、過度な気遣いは余計なものに思えた。


「うん……。本当にありがとう」


 マイはまだなにか言いたげにしているが、言葉が見つからないらしい。

 もごもごとなにかを呟いた後、急に俺のネクタイをつかんで引き寄せた。


「は……!?」


 頬に触れた柔らかな感触に目を見開く。


「かばってくれたお礼! アイドルからのちゅーなんて、貴重でしょ?」


 マイがウインクをしたのと同時に、窓が閉まる。

 タクシーが発進していく。

 俺は怒濤の展開についていけないまま、立ち尽くしてタクシーを見送った。



 呆然と立ち尽くす昭博から、数メートル離れた場所で。

 記者の男は、スマホの録音アプリを閉じた。


「……良いネタになりそうだな」


 今度は画像フォルダを呼び出し、撮ったばかりの写真を拡大する。

 そこには、地面にひざまずくストーカー男と、鬼のような形相で男を罵る愛沢マイの姿が納められていた。

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