第12話 朽ち果てた書店-4

「っ……」


 マイの顔がくしゃっと歪む。

 自分でも破れかぶれなことを言っている自覚はあるが、どうやらマイの心の琴線には触れたようだ。


 ――ええい、ダメもとだ!


 無抵抗で刺されるよりも、説得を試みた方がいい。逆上される可能性もあるが、その時はその時だ。


「俺はアイドルには興味ないし、お前がどんな思いで仕事してるのかもわかんねぇ。でも、同僚にもいるんだよ、テレビの中のお前のことが好きだって奴。

 俺と同じようにクソみたいな会社でクソみたいな上司に怒鳴られてても、お前の撮影に偶然行き会っただけでニコニコしてんだよ。

 お前が嫌いだって言うお前は、沢山の人を励ましてるように見えるけどな。

 それならもう、存在するだけで褒められてもいいようなもんだろ!

 こんな風に、ナイフでめった刺しにされるようないわれはないはずだ」


 そんなことは、おそらく俺にわざわざ言われなくてもわかってるはずだ。

 けれど、マイは茫然としたように俺の言葉を聞いていた。納得してもらえたのか、それとも感情を逆なでしているのか、さっぱり分からない。


 俺はごくりと喉を鳴らし、マイの言葉を待った。


 やがて形の良い唇が震えて、擦れたつぶやきを零す。


「あたし……そうだ。どうしてわかんなくなっちゃってたんだろう。

 あたしは、あんたじゃなくちゃいけなかったんだ。あんたじゃなくちゃ、出逢えなかった人がいっぱいいるんだ。

 あたしは、あたしのままじゃ生きられなかったから、あんたを作ったのに……」

「うわ!?」


 急に抱き着かれて、思わず悲鳴じみた声が出る。

 石鹸のような清潔な香りがした。

 中学生のような姿をしたマイに抱き着かれるアラサーの図は犯罪じみているような気もするが、でもまあ、たぶん、問題はない。なぜなら、今の俺は愛沢マイ自身だからだ。虐殺されていたマネキンたちと同じ。


「あんただって、あたしの一部で、あたしのために作られたものだったのに。……ごめん。勝手なのは私だった」


 なんのことなのかさっぱりだが、マイの中で何か変化があったらしい。

 揺れる声から泣いているのがわかって、背中に腕をまわしそうになったものの、すんでのところでこらえる。


 ――言っておくが、この衝動は下心から生まれたものじゃない。


 今のマイは、自分の心をむき出しに晒すことしかできない、幼い子供のように見える。

 もしかしたら、夢の中では皆そうなのかもしれない。

 生きる上で少しずつ重ね着してきた鎧が剥ぎ取られ、他人に見せるための仮面も外されて、素のままの姿で心もとなく悪夢の中をさまようことしか出来ないのかもしれない。誰にも見つけられず、助けてもらえないまま。


 ……だとしたら、人生はなんて孤独なのだろう。


 でも、そう思うからこそ、何の事情も知らない俺が、訳知り顔でマイを励ますことは出来なかった。

 人に必要以上に踏み込むと、ろくなことがない。

 無遠慮な共感や正義感は、相手を深く傷つけてしまうこともある。それを俺は嫌というほど知っていた。

 時に取り返しのつかない事態に発展してしまうということも。


 それなのに、ほとんど知らない他人、それも自分とは遠い世界で生きているアイドルなんていう存在を無責任に慰めたくなってしまったのは、夢の中にいるせいで感情の抑制が出来なくなっているせいかもしれない。


 やがてマイがゆっくり俺から体を離す。


「――やっぱり、あんたのこと、嫌いじゃないよ」


 潤んだ瞳を彩るように、涙の雫が光っている。その一粒が、俺の頬にも降ってきた。

 すっきりしたような笑みを浮かべた顔に、もう殺意はない。

 俺の顔の横に刺さったナイフが、マイの手によってゆっくりと引き抜かれた。


 ……ふう。とりあえず、これで刺される心配は去ったようだ。


 それにしても、マイのこの変わりようはなんなんだ。

 テレビの中での姿とも、プライベートで会った時の気が強そうな姿とも違う。格好や雰囲気も、繊細で、揺らぎやすい内向的な少女のように見える。

 この現実の印象との乖離と、『悪夢』のイメージが、愛沢マイというテレビの中の一個人に上手く収束していかない。


 単純に推測するなら、メディアに求められる『愛沢マイ』が嫌になった、というところだろうか。特殊な世界での出来事だ。

 けれどその反面、人間とは誰しもこういう存在なのかもしれないとも思う。

 心のうちなんぞ誰にも分からない。愛沢マイが、人知れず自分を殺し続ける悪夢を見ていたように。


 マイはそっとナイフを自分の方に引き寄せると、その切っ先を俺の方に向けた。


 ……俺の方に向けた?


「ありがとう。でも、だからこそ……さようなら」

「は!?」


 笑顔のまま、俺の首筋めがけてマイがナイフを振るう。


 ――いや、受け入れたんじゃなかったのかよ!?


 視線を逸らすこともできないまま、ナイフがスローモーションで俺に迫る。

 その銀の軌跡が俺の皮膚に到達するよりも早く、体全体が浮遊感に襲われた。

 霞がかったように、視界が白んでいく。


「――お疲れさまでした。目覚めの時間です」


 意識が霧散していくその間際、夢見の穏やかな声を聴いた。


 助かった……。


 やがて視界は白で埋め尽くされ、禍々しい空間は消えた。夢見の姿も、マイの姿もなく、ただ安心感のある白だけが広がっている。


 けれど今度は息が上手くできない。そう認識したとたんに、あたりが深い海の底のような濃紺に包まれた。

 おかしい。刺されてはいないはずなのに……!

 海で溺れた時のように、口からぶくぶくと泡が零れ、上に向かいながら俺の顔にまとわりつく。

 それは、目覚めの寸前に見る悪夢に似ていて――


「……ふがっ!?」


 暖色系の明かりに照らされた天井。

 たった今眠りから覚めたばかりの俺の顔を、ぱっちりとした瞳の童女が覗き込んでいた。幸世だ。

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