脆く儚く美しき者たちへ――6

 崇めることと貶めることは時に表裏一体です。


 神秘の恩恵を受けられなければ、それはすなわち『これは本当に神なのだろうか』という疑念を生むことに他ならず、墜ちた神は祓うべき悪として扱われます。

 恐怖を煽られる状況に置かれているのならなおのこと、その理不尽な八つ当たりじみた心理は急速に伝播していきます。


 ゆりさんが座敷牢に表れたのは、数日後の夜のことでした。


「もう来てはいけないと言ったでしょう。それになぜあなたが鍵を――」


 ゆりさんは格子窓の向こう側ではなく、開け放たれた蔵の扉の前にいました。


「そんな約束を守っている場合ではないの!」


 ゆりさんは青年に駆け寄り、その頬に触れました。

 青年はまるで恐怖を感じたように後ずさります。素早く夢の中に逃げ込んだ私は、姿を見せぬままその様子を眺めていました。


「村のみんなが……あなたこそ、病の原因だって」

「え……」


 青年は一瞬虚を突かれたような顔をしました。

 けれどすぐにいつもの穏やかな表情を取り戻します。


「それが、あなたがここに来た理由ですか?」


 ゆりさんはこくこくと頷き、もどかしそうに青年の手を取りました。


「お願い、私と逃げて!」

「っ……落ち着いてください、どうしてそんな――」

「みんなはあなたを殺す気なの」


 憤りをあらわにしたようなゆりさんの言葉に、しかし青年は動じませんでした。


「……そうですか」

「どうして驚かないの……?」

「そう突飛なことではありません。よくわからない存在に対する恐怖は、病に対するそれとよく似ているでしょうから。それにここで死ぬとしたら、それは私の運命だったのでしょう」


 ゆりさんは茫然としたように青年を見上げていました。

 けれどすぐに我に返ったように、青年の手を引きました。


「時間がないわ。鍵を盗んだことに気付かれる。逃げましょう、私と」

「駄目です」

「っ、どうして……」


「私は生涯外に出るつもりはありません。興味もありません。……正直に言うと、あなたと同じ名前を持つという花は、一目見てみたかったですけど」


 冗談めかしさえして、青年は言葉を続けます。


「私はいつまで生きることが出来るかもわかりません。男としても非力ですし、生活能力もありません。仮にあなたの手を取ったところで、居場所をなくしたあなたを守ることはできない」

「そんなこと……っ。一緒に生きていてくれさえすればいいの。だって、私はずっと前からあなたを――」


 言葉が終わる前に、青年はゆりさんを抱き寄せて口づけました。

 ゆりさんの両手を掴み、そのまま乱暴に壁に押し付けます。


「っ、なにを……」

「では、最後の思い出として私に抱かれてください。構いませんよね? あなたはあんな最低な男に身体を許していたのですから」


 冷たい笑みを浮かべ、青年は乱暴にゆりさんの着物を乱そうと手をかけました。

 ゆりさんは信じられないとでも言うように目を見開き、青年の頬を平手で打ちました。

 青年は煩わしそうに身体を離し、彼女を見下ろしました。


「なにをするんですか」

「あなたは……そんな人間を演じてまで、私を拒絶したいの。私……私は――」


 言葉の代わりに、ゆりさんの瞳から大粒の涙が零れました。

 彼女が身を翻し、扉の向こうに走り去ったことを確認してから、私は姿を現しました。


「わざとか」

「さあ、どうでしょうか。どさくさに紛れて最低な形で思いを遂げようとしたのかもしれませんよ」


 青年はいつもの超然とした態度をかなぐり捨てて、苛立ちを隠そうともせずそう言います。


「人間は愚かでどうしようもない存在だ」


 現実にやってきて、しばらく青年の側にいた私は、人間に対してどうしようもない嫌悪感を抱き始めていました。


「……あなたがそう言うのもわかります」


 青年は自らの苛立ちを沈めるように、長く息を吐きました。

 そして、壁に背中を預けて、冷静さを取り戻した様子で私を見つめました。


「でも、愚かなことは悪じゃない」


 わずかに変わった口調に、私は彼が人間として本音を話していることを悟りました。

 ここまで酷い扱いを受けてなお、人間の善性を信じていることに、私は憤りさえ感じました。


「お前もどうしようもなく愚かな生き物だな。なぜそんな風に思える?」


 聞いてみると、青年はどこか遠くを見つめました。

 まるで、今までの決して長くない人生を思い返すように。


「……私はこの座敷牢の中での暮らししか知りません。でも、人と全く接触がないわけでもありませんでした」


 青年は、今までの人生で出会った人たちについて、私に話してくれました。

 子どもの頃、いつも無言で食事を運んでくる自分の祖母らしき人が、祭りの夜にこっそり飴をくれたこと。

 ゆりさんの他にも、自分のことをそれとなく気にかけてくれる人がいたこと。


 ある日この村の長が尋ねて来て、こんな所に閉じ込めてすまないと頭を下げたこと。


「愚かといえば愚かかもしれません。私たちは合理的な判断だけで社会を作って生きていく事は出来ませんから。そして私も、愚かな人間のひとりです。つまり――」


 青年はいったん言葉を切って、自嘲をはらんだ笑みを浮かべました。


「一度はただ息をすることさえ許されず、狭い世界に閉じ込められて生きてきた私は、ほんのわずかな優しさしか与えられていなかったとしても、それを生涯忘れられません。まして、ゆりさんのような人に出会ってしまったら」


「このまま死ぬつもりか」

「どちらにしろ遠くないうちに死にます」


 青年は、欠陥のある体が限界に達するという意味でそう言ったのでしょう。

 けれど私は、それよりも前におそらく傷んだ悪夢が青年を蝕むであろうことを知っていました。

 


 翌朝、青年が目覚めると格子窓の側に何か白いものが落ちているのを見つけました。

 青年は起き上がり、それを拾います。


「これは……」

「人間が百合と呼ぶ花だな」


 私は後ろから青年の手元を覗き込んで言いました。

 ゆりさんが夜のうちに格子窓の隙間からこの花を落としたことを、私は知っていました。


「ゆりさん……。あんな無体を働こうとした私を許してくれたんでしょうか」


 青年の瞳が、感極まったように揺れます。


「……あなたが私にどんな気持ちを抱いていたのか――どんなことを伝えてくれようとしてくれたのか、私はきっと生涯知ることはありません。でも、私にはこれで充分です」

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