第33話 最後の夢の中へ
マイが再び店にやってきたのは、一週間後のことだった。
「マイさん! お久しぶりですね」
夢見は朗らかにマイを迎え入れたが、俺は気が気じゃない。
目深に被った帽子とサングラス。
表情はほとんど見えないものの、その口元はかたくなにきゅっと結ばれている。
それはそうだろう。
この一週間、世間でのマイの評判は散々だった。
ストーカーを罵っただけだったら、まだよかったのかもしれない。
けれどあの時のマイの発言は、切り取られた部分だけ聞けば、自分の仕事や、アイドル愛沢マイのファンを貶めるようなものだった。
俺は彼女の夢を通してだいたいの事情を知っていたものの、ファンにとっては寝耳に水、さぞやショックな出来事だっただろう。
SNSには暴言が並び、謝罪文を出すような事態にもなっていた。
仕事は当分新規の撮影を自粛すると聞いている。
さすがに落ち込まないはずはない。
俺はどう話しかけたものか迷ってから、隣の席を引いた。
「……まあ、座れよ。コーヒーでも紅茶でもジュースでもおごってやるから」
マイは少しうつむいたまま、カウンターにいる俺の方へと歩み寄る。
そして――サングラスと帽子を、一気に剥ぎ取った。
「あーせいせいした!!」
「は……?」
状況と不釣り合いな明るい声音に思わず呆気にとられる。
見ると、マイは清々しいまでの笑顔を浮かべていた。
「ごめんね夢見さん。お店も写真に映ってたから大丈夫かなって心配だったんだけど、しばらく出歩くなって言われてて」
「こちらは大丈夫ですよ。お気遣いありがとうございます」
「お、お前、お前こそ大丈夫なのか? せいせいって……」
あまりにも予想と違う反応に、ついこちらの挙動がおかしくなる。
「そりゃちょっとは凹んだけど、発言自体に関しては自業自得だし……。周りに散々迷惑かけちゃったからね。落ち込むのはかえって申し訳ないよ」
少しばつが悪そうに言って、マイは俺の隣に腰掛けた。
「それにね、良い機会だったと思うの。
裕美さんと今後のことについても話せたんだ。
このまましばらく芸能活動休止して、また一から出直そうって。
今度はアイドルじゃなくて、演技派女優目指して」
「……! じゃあ、これからは希望してた仕事が出来るんだな」
「今回のイメージを払拭するのに数年はかかるだろうし、本当にお芝居が出来るかどうかはあたし次第だけどね。
周囲が落ち着いたら、とりあえずいったん海外で演技を学んでこようと思ってるの」
「なんでわざわざ海外に?」
語学の勉強ならわかるが、あまりピンと来ない。
「今から目指すならグローバルな女優にならなくちゃ!
それに、アメリカで何個かいい学校見つけてさ。スタニスラフスキー・システムががっつり学べるところとか」
「ス……スタスタスタスキー?」
なんだそのシルベスタ-・スタローンより言いにくい名前は。
戸惑う俺をよそに、マイは楽しそうにしゃべり続ける。
「今回のことについては反省してる。
あんな風に道ばたで本心をぶちまけるのは良くなかったよ。いくら緊急事態だったとしても、あたしを応援してくれてる人たちを侮辱する行為だった。
でもさ、あたし、この出来事を通して自分がどんなに周りに恵まれてるのか思い知ったんだ。
あたしにがっかりして、ひどい言葉を投げかけてきた人もいたけど、あんなあたしの発言聞いても応援してくれるっていう人もいた。
だから、恩返しのためにも前に進まなくちゃ。
いつか倍にして、あたしがもらったものをみんなに返していくんだ」
「よかったですねえ、マイさん」
夢見がマイに向かって朗らかな笑みを浮かべる。
「はい!
あ、そうだ。ねえ夢見さん、このあいだのケーキすごく喜んでくれたよね?
今日もお詫びを兼ねておすすめのお店のケーキ持ってきたんだけど……」
「わあ、ありがとうございます!
防腐処理のための薬剤を追加で買わなければいけませんね」
「ううん、食べてください」
マイが笑顔のままツッコミを入れる。
さすがにちょっと引いてるのかもしれなかった。
「本当に大丈夫なのか?」
俺はたまらずにそう問いかけた。
「だから平気だって。さっきから心配しすぎ」
明るく笑って、マイが俺の背中をぽんとたたく。
けれど、さっきから心配しているのにはきちんと理由がある。
――マイの顔色が、蒼白だったからだ。
この店に入ってきた時からそうだった。
声も表情も明るいのに、まるで血の気が失せている。
自分でも気づいていないようなその様子に、言いようのない不安を感じた。
「なにか飲みますか? それとも、先に仮眠を?」
「ごめんなさい、今日はちょっと。お店の様子が心配で見に来ただけだから」
「ご丁寧にありがとうございます。でも、少し休んでいかれた方がいいのでは?」
夢見もマイの顔色に気づいているらしい。
いつも通りの穏やかな物腰だったが、その口調はいつもより強い調子だった。
「そうしたいところだけど、まだそこまでのんびりできないんだよね」
マイがカウンターにケーキの箱を置き、椅子を立つ。
血の気の失せた顔で、それでもまだ笑顔を浮かべている様子に、さすがに心配になった。
「なあ、あまり無理するなよ。身体壊しちゃ元も子もないだろ。
今は難しいかもしれないけど、休める時はちゃんと休んで――」
「あたしは大丈夫だってば! 放っておいてよ!」
マイは顔から笑みを消し、まるで悲鳴のような声でそう叫んだ。
静寂が訪れる。
呆気にとられていると、マイはすぐにはっと我に返ったように眉を下げた。
「ごめん。心配してくれたのに、あたし……」
「いや。こっちも無神経だった」
他人に触れられたくない傷みもある。
俺は昔それを嫌と言うほど思い知ったはずなのに。
「とにかく、今日はもう帰るね。また近いうちに――」
マイがドアの方に向かう。
けれどふいにその後ろ姿が不安定に揺らいだ。
長い髪が広がったと思うと、ぐらりと後ろ向きにマイの体が傾く。
「おい!」
俺はとっさに椅子を立ち上がり、すんでの所でマイを抱き留めた。
マイは意識を失っているらしく、ぐったりと瞳を閉じている。
やっぱり相当無理してたんじゃねえか!
「夢見、救急車を!」
「……いえ。これは病院でどうなるものではありません」
もったいぶった言い方に、苛立ちが募る。
いったいどういうことなのか尋ねかけて――俺は、口をつぐんだ。
視線の先で、マイの手が指先からゆっくりと黒く染まっていくのが見えた。
白い肌が、少しずつ闇に浸食されていく。
「な、なんだよこれ」
「あなたにも見えますか?
普通は人間には見えないはずなのですが……しばらく私の側にいた影響かもしれません」
夢見がエプロンを外しながらカウンターを出る。
一陣の風が吹いたと思うと、夢見は一瞬のうちに白い獣の姿となった。
「これは、痛んだ悪夢に身体まで蝕まれ始めた証です。
今度こそ、マイさんの夢に入る最後の機会です。失敗すれば彼女の命はありません」
「なんでだよ。この間の悪夢で終わりだったんじゃ――」
「マイさんは今まさに絶望の中から希望を見出そうとしています。
となれば、人の心を蝕む夢はそれを拒み、抵抗するはずです。……行きましょう」
夢見が店の奥にあるベッドルームへと向かう。
俺は慌ててマイを抱き上げ、その後を追った。
「なあ。お前の話じゃ、人は希望があるから絶望して、傷んだ悪夢の餌食になるってことだったよな」
奥の部屋のドアをくぐり、マイをベッドに横たえながら、そう聞く。
「ええ」
「……だったら、最初から希望なんて持たなきゃいいんじゃないか?」
それは、ここに来て数回、マイの夢の中に入るたびに、俺がうっすらと感じていたことだった。
身に余る希望を持つから絶望する。
表裏一体になっているのなら、それはこの上なく残酷なことだ。
「そういう選択もあるでしょうね。それを生きていると言えるなら」
夢見はマイのベッドに歩み寄って、黒い鼻先で落ちそうになっているマイの片手をそっとシーツの上に押し上げた。
「ですが、人間の生は一瞬です。にも関わらず希望も持たず、ただ呼吸するだけだなんて、無意味だとは思いませんか?」
「それは危険な考えだろ。希望を持てない人間に死ねと言ってるようなもんだぞ」
「希望の定義はあなたが思っているよりも規模の小さいものです。
部屋に閉じこもって好きなだけコーラを飲みながら惰眠を貪るというのも、その人が本当に望んでいるのなら、その人にとって何よりも輝かしい希望ですよ」
人間とは違う基準で夢見は語る。
そんなことが許されるのなら、とっくに社会は立ちゆかなくなっているはずっだ。
「話は後です。今はマイさんを」
「わかってる」
今度は夢見に無理矢理昏倒させられる前に、自らベッドに横になる。
マイは、売れっ子アイドルとして間違いなく人に希望を与えていた。
先日のストーカーだって、もしかしたら素顔のマイと接し、励まされたことで、これからの未来に希望が持てたかもしれない。
裕美さんとの関係もうまくいき、絶望する必要なんてひとつもないように見える今、いったいなにがマイの希望を蝕んでいるのかはわからない。
こうして何度も夢の中に入っていても、正直マイのことは少ししかわからない。
やっぱり俺とは違う世界に生きる人間だ。
でも俺は、個人的な感情で、この子を悪夢から救いたい。
言っておくが、頬にキスされたからって惚れたわけでは断じてない。
ステージの上で輝いているはずの、俺とは違う存在であるはずのこの子が、なにに絶望しているのかを知りたい。
この子の芯の強さでは退けられないほどの悪夢が本当にあるのか知りたい。
そして――
一生懸命にあがき、誰かの糧になろうとした人が、また歩きだそうとした矢先に傷んだ悪夢なんてわけのわからないものに理不尽に貪られているのなら。
そんなものむしり取って神様とやらの口に突っ込んでやりたかった。
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