第8話 夢の中へ
白い空間に、俺の意識だけがぽっかりと浮かんでいた。
何だこれ……? 自分を見下ろすが、体がない。
得も言われぬ浮遊感に包まれて、ここに、頼りなく存在している。
曖昧な自己。風が吹けばあっけなく霧散してしまうだろう。
――いっそそれも良いかもしれない。
ここには一切の苦痛がない。
このまま、白に融けていくことを望むだけでいい。
窓から差し込む陽に当たりながら微睡む幸せな午後のように、目を閉じて、心地よさに身を任せてしまえばいい。
それだけで、きっと俺の存在はゆっくりと消えていく。
そしてひとつになるのだ。
……何と?
それは分からない。
個の境目が消えた時、人はどうなるのだろうか。
その瞬間を想像すると、生暖かい心地よさを感じた。
不安になることなど何もない。
甘美なまでの誘惑に身を任せようとしたその時――
「昭博、いけません」
やんわりとたしなめるような声に、はっと意識が引き戻される。
いつの間にか、目の前に白く大きな獣がいた。
獣はネコ科に似たしなやかな体を反らして、俺を見上げる。
――夢見だ。
「……ふう。危なかったです。もう少しであなたの自我が崩壊するところでした」
「はあ!?」
のんびりと告げられたとんでもない言葉に、目を剥く。
「ただ夢の中に入るだけじゃなかったのかよ!」
「ただ夢の中に入るだけですよ。しかし、あなたの存在がそんなにも希薄なんて予想外だったもので。対応が遅れました」
そ、存在が希薄……?
今まで受けたものとは次元の違う悪口を言われているような気がする。
というかあんまりのことにうっかり『夢に入った』ことを即認めてしまった。
とはいえ、こうして動物の姿かたちをした夢見を前にしている以上、これ以上理性で否定しても仕方のないことなのだろう。
俺は、愛沢マイの夢の中に入った。――『人を喰う』悪夢の中に。
夢見は俺の沈黙をずいぶん単純に受け取ったらしく、おっとりと言葉を続けた。
「ああ、気を悪くしないでくださいね。
ここは特殊な場所なので、余計に存在を保つのが難しくなっているだけです。
現実において、人は他人と自分を相対的に比べ、自己を定義しています。
ペルソナと言われる仮面を被り、役割を演じることも日常的にしているでしょう。
しかし夢での自己の在り方はもっと根源的なもので――」
「いや、さっぱりわからないんだが」
「とにかく、慣れれば大丈夫ですよ。
……ほら、自分の体を見てみてください」
促されて、再び自分を見下ろす。
手がある。足もある。仕事用スーツもバッチリ着ている。何も異常はない。
……いつの間に元に戻ったんだ?
しょっぱなから混乱してばかりで事態が飲み込めずにいたが、どうやら本当に夢見に連れられて夢の中に入ってしまったらしい。
「さて。では、慣れていただいたところで出発しましょう」
悠然と隣を歩き始めた夢見を、慌てて追いかける。
「ま、待てよ! 本当に大丈夫なんだろうな。その、俺の自我が崩壊とかなんとか――」
臆病と言われようが、リスクがあるのなら知っておきたい。
「今のように気を確かに持っていただければ大丈夫です。
……普通の人に比べれば、まだ少し不安定ですけどね。
でも、今のあなたにとってその不安定さは有利に働きます」
「……どういうことだよ」
「なぜさっきのようなぼんやりとした状態になったかと言うと……現実のあなたは、自分の存在を極限まで薄めて――わかりやすく言うと、すべてを諦め環境に順応することで、自分を守っているのです」
「だから『存在が希薄』なのか?」
「ええ。でも、さっきも言った通り、有利な面もありますよ。日々の生活の中で希望を抱くことはないから、絶望することもない。希望と絶望の関係は、ちょうど光と影のようなものなんです。
そして絶望がなければ、悪夢が傷むこともありません。つまり、あなた自身の悪夢が痛み、『喰われる』可能性は、今のところ低いということです。
傷んだ悪夢に立ち向かうにおいて、これほど心強いことはありませんね」
淡々と告げられた言葉に、俺は何も返せなかった。
夢見の言うことに、心当たりがないわけじゃない。
惰性で会社に通い続け、何もかも諦めたように日々を生きている。
……だが、大抵の大人なんて、そんなもんじゃないのか?
「――まあもっとも、悪夢自体を見ないというわけではありませんが。
あなたの場合は明晰夢を頻繁に見るということが精神的な負担になっているようですし、このままですと寝不足で衰弱することもあるかもしれませんね」
しれっと言ってくれるな。
頭を掻きむしりたい気持ちをこらえて、俺は深くため息をついた。
ゆっくりと混乱を鎮めて、本来の目的を思い出す。
この非現実的な事態に関する尽きない疑問は、目的を果たしてから聞くことにしよう。
「それで……こんな真っ白な空間が、愛沢マイの『傷んだ悪夢』の中なのか? なんもないじゃねえか」
人の心を喰うような、凶悪な夢には見えない。
白くて広い空間は、どちらかと言うと安らぎを感じるものだった。
「いえ、ここはまだ、人の夢と夢を繋ぐ小道のような場所です」
「は……? 夢って、繋がってんのか?」
だとしたら、ものすごいプライバシーの侵害ではないか。
「ええ。ですが私たちバクの案内なしに簡単に行き来出来るものではないので、ご安心を」
パタリ、と夢見が尻尾を振る。
「そもそも夢と言うのは、人の無意識が具現化されたものです。
そして無意識は、奥深くで他の無意識と繋がり合い、集合的無意識を作り出しています。
おそらくあなたは先ほど意識が溶けて何かと一つになる感覚に襲われていたのではないかと推測しますが、それは集合的無意識の中にあなたという脆弱な個が溶けてしまいかけたせいです。
心理学者のユングは人類『共通』のものとして集合的無意識を語りましたが、正確には人類が『共有』しているものでして――」
「あ、いい。聞きたくない。これ以上はさすがに混乱する」
夢見は訥々と怪しげなことを語り始めたが、俺はそれを遮って辺りを見まわした。
これ以上非現実的なものをいっぺんに摂取すると、頭が痛くなりそうだったからだ。
目の前に広がる空間は、相変わらず白いばかりで何もない。
――いや。
俺は、何もない空間にぽっかりと穴が空いているのを見つけた。
トンネルの出口のようなそれは、近づくにつれて次第に大きくなってくる。
穴の先に繋がっているはずの場所は見えず、何やら不安が掻き立てられた。
「見えてきましたね。あれがマイさんの悪夢の入り口です。……もうすぐですよ、準備はいいですか?」
「準備って言ったって……そもそも、具体的には何をすればいいんだよ」
「マイさんの『希望』を見つけてください。絶望の影を退け、焼き尽くすほどの。絶望という糧がなくなれば、傷んだ悪夢も駆除できます。
さきほど言ったように、希望と絶望は表裏一体、光と影の存在ですが――今のマイさんの心は、根深い絶望に侵されすぎています」
「見つけるって、どうやって」
「さあ……。何を希望と感じるのかは人によって違いますからね。
あ、ちなみに夢では強く想像したものが具現化しますから、モノによって希望が見いだせる人の場合、形として見せてあげるのも手ですよ」
「漠然としすぎじゃねえか!?」
ほとんど知らない他人にとっての希望を見つけろって、どんな高難易度のクイズだよ!
それに売れっ子アイドルの心なんて一ミリも理解出来る気がしない。
絶対的に俺とは違う人種だ。
「まあ、なんとかなりますよ。少なくとも、私が一匹で立ち向かうよりもずっと効率がいいはずです。なんたって、同じ人間同士ですからね」
夢見は気楽な調子で言うと、前を見据えた。
「――さあ、頼みましたよ、昭博」
その声と同時に、穴が一気に拡大し、俺を暗がりへと引きずり込む。
淀んだ生臭い空気が、頬を撫でたような気がした。
「ひっ……う、うわああ!」
情けない悲鳴ごと吸い込まれ、俺は頭を庇うように腕を前に出した。
……。
…………。
辺りは、しんと静まり返っている。
耳が痛くなるほどの静寂に、俺は恐る恐る目を開けた。
薄暗い。どうやら、どこかの店か大きな倉庫の中のようだった。
……ようだった、というのは、メチャクチャに破壊されすぎていて原型を留めていないからだ。
整然と並んでいたであろう背の高い木製の棚は、ほぼ全て傾いたり、床になぎ倒されたりしている。
そこから本が溢れているのを見て、ここは図書館か本屋のような場所なのだと悟った。
天井は不自然なほどに高く、蛍光灯は割れ、コードのようなものがプランと力なく垂れ下がっている。
窓はなく、外の光もない。
それなのに、空間全体が、暖色の間接照明を当てられたような、不気味なうす明かりで満たされていた。
どこからか、錆びた鉄のような匂いが漂ってくる。
夢にしては強烈な印象があった。
「ここが、『傷んだ悪夢』の中です」
「……気味悪い場所だな」
「まるで広大な廃墟のようですね。傷んだ悪夢の内部は、夢の持ち主の精神状態を反映しています。……どうやらマイさんは、かなり辛い状態のようですね」
倒れている棚や、土を床にぶちまけた観葉植物の鉢を避けて、夢見と一緒に歩みを進める。
まるでお化け屋敷だ。
子どもの頃だったら、悲鳴を上げて一目散に逃げ出していたかもしれない。
「夢を見てる愛沢マイ本人もここにいるのか?」
「ええ、ここのどこかにいるはずです。でも、現実での姿そのままとは限りません」
「ああ……。子どもの頃の夢とか、鳥になる夢とか、色々あるもんな」
「……鳥になる夢? それは珍しい。ぜひ食べてみたいですね」
珍しいのか。
考えてみれば、日常生活において夢について話すことなんて滅多にない。
案外自分の見てる夢は、人にとっては随分奇妙なものなのかもしれない。
「それにしても……希望を探すって言ったって、そもそも本人に会えなきゃ探りようも――」
俺は途中で言葉を切らざるを得なかった。
右の本棚の下から、何か赤黒い液体が流れて来たからだ。
「っ……!」
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