第3話 夢を食む獣、その名はバク
「バク……?」
いつか動物園で見た、鼻が長くて、のっそりとしたシルエットの動物を思い浮かべる。
「バクって、アリクイみたいな形の動物じゃないんですか?」
「それは、奇蹄目バク科バク属、現実産のバクですね」
「げ、現実産……?」
「この看板に書かれているのは、夢の中で生まれ、夢を食べて生きる『獏<バク>』です。特に悪夢をよく食べて、人間を病気から守る善良な生き物なんですよ」
まるで実在しているかのような口ぶりだ。しかもなぜか誇らしげに胸を張っている。
冗談の一種なのか、それともメルヘンの国の住人なのか。目の前の男は、どうにも読めない。
「想像上の動物、ですよね」
そう返すと、店員はかすかに眉根を寄せて、困ったような顔をした。
「そう言われていますね。動物園にいるバクとは違って、こちらのバクは滅多に現実に姿を現しませんから。たしかに実在はしていますが、人間がそれを感知することは出来ないのが悲しいところですね。夢の中の出来事は忘れてしまう方が大半ですし、バクに出会ってもその記憶はほとんど残りません」
……あ、この人やばい人だ。
これは早くコーヒーを飲んで撤退するべきかもしれない。
「へ、へえ……そうなんですね」
曖昧に頷いて、カップに口を付ける。
コーヒーの香ばしさと、わずかな酸味が舌の上に広がった。
砂糖を入れていないのに、少し甘味がある。好みの味だ。
あえてさっきの話を聞かなかったことにし、コーヒーを味わうことに集中する俺を、店員はどこか不満そうに眺めている。
「まあ、いいんですけどね。人間に存在を認識してもらえないのは、今に始まったことじゃありませんし」
……気まずい。
ひたすらカップを傾けていると、ふいに入り口のドアが開いた。
涼やかなドアベルの音を聞いて、店員が顔を上げる。
「ああ、
どうやら店員その2、『さちよさん』が来たらしい。
なんとなく俺もそちらに目を向けると――
「すみません、店長。少し用事があったもので」
小学校高学年くらいの、ぱっちりとした瞳の女の子がいた。
シックな色合いの、着物のような服を着ている。しかし下はスカートになっていて、現代風にアレンジされているようだった。
胸を逸らし、唇を軽く引き結んだその表情は、まるでもう自分のことを大人だと思っているかのように見える。
こんな小さいのに店の手伝いをしてるのか? 良い子だな。
微笑ましく見守っていると、女の子が俺の視線に気づいた。
そして、すたすたとこちらに歩み寄り、カウンターにけだるげに片手をつく。
「おまえ、この店初めて?」
「お、おまえ……?」
あどけない容姿とは不釣り合いな呼びかけに、一瞬耳を疑った。
「ねえおまえ、なに呆けてるの? 聞こえてる?」
「は、初めて、です……」
思わず小学生に敬語を使ってしまった。
カウンターに手をついてこちらを眺めるそのさまは、まるでアメリカのTVドラマによく出てくる、モーテル近くのバーのマダムのようなふてぶてしさがあった。
さては人生3周目だな。
「こら幸世さん、お客様がびっくりしてますよ」
「知りませんよ。私、物わかりの良いような顔して被害者ぶってる人間、きらいです」
俺を一瞥して、ふん、と鼻で笑う。
もしかして俺のことを言っているのだろうか。一体俺が何をした。
というか、よくすらすらと難しい言葉が出てくるな……。
少女はカウンターの中に入ると、バックヤードと思しきドアを開けて姿を消した。
「……申し訳ございません。うちの者が失礼な物言いをしました」
「や、大丈夫です。その……賢そうな子ですね」
「ええ、そうなんです。この国のことに関しては、私よりもあの子の方が詳しいくらいで。いつも頼りにしているんです」
店員――もとい、店長の夢見獏はどこか嬉しそうに微笑む。
っていうかそれやばくないか。大人として。
……もしかしたらこの人は相当な天然なのかもしれない。
だとしたら、バクの話も天然トークの一環か?
むずむずしたものの、ツッコミを入れられるような関係じゃないので、俺は曖昧に微笑んでカップを傾けた。
あ。もう飲み終わっちまった。そろそろ出るか。
「お会計お願いします」
「かしこまりました。1200円です」
支払いを済ませると、わざわざ店長が店のドアを開けてくれた。
「ありがとうございました。……よかったらまた来てください。あなたの悪夢は、とっても美味しかったので」
は……?
俺は思わず去ろうとしていた足を止めた。
聞き間違いだろうか。
脳裏に夢での光景がよみがえる。
白く美しい毛並みの獣。
俺の悪夢である部長を美味しそうに食べていた。
「店長! 客にそういうこと話すのやめてください」
高い声がカウンターの奥から飛んできて、俺ははっと我に返った。
「ああ、はいはい。すみません、つい」
女の子に叱られて、店長が首をすくめる。
「とにかく、もし気が向いたらいらしてください。どうもありがとうございました」
……きっと、聞き間違いだ。
本当はなんと言っていたのか気になるが、まあ、聞き返すほどでもないだろう。
俺は小さく会釈をしてからその場を去った。
店員たちは変だが、なかなか居心地のいい店だった。ベッドを利用して、さっさとコーヒーを飲んで出るだけなら、たまに通うのも悪くない。
夜の街に明かりが灯り、沢山のスーツが赤提灯の店へと吸い込まれていく。
居酒屋の戸を開け、カウンターに座り、ビールを注文するその背中は、達成感や解放感に満ちていた。
――今日は俺もその中の一人だ。
「あーあ、やってらんねーよな!」
カウンター席の隣に座った青木が、大きな声を出す。
幸いこの焼き鳥屋はどこもかしこもうるさい。
どれだけ酔っぱらって声を張り上げても、他の席から聞こえてくる喧噪にかき消されていく。
「ああ、やってらんねえよな。本当」
来たばかりの3杯目のビールを一口飲んで、俺も青木の言葉に同意した。
同僚の青木は明るいムードメーカーだが、最近思うような成績が出せないでいる。
今日も皆の前で絞られていた。
俺はこりこりとした塩ハツの串を食べながら、青木をなぐさめるように言葉を続ける。
「まあ、厳しいよな。業界自体が。そもそも、あんな水飲んだって健康になるとは思えねえし」
「そうだよな! ホント、水道水と何が違うってんだよ。薬事法に引っかかって摘発されちまえ!」
会社から離れた店で飲んでいるせいか、それとも久々の酒が進みまくっているせいか、俺たちの口からは愚痴があふれ出た。
「俺もまたあの整体スタジオのおやじに呼ばれたよ」
「また!? 遠原、お前ホント運悪いな。たまには言い返したくならねえ?」
「なる。なるけど、言い返したってヒートアップするだけだろ」
ビールをまた一口飲んで応えると、青木は「ひゃー」だの「かぁー」だの変な声を出した。
「えらいなお前。ちゃんと割り切ってて」
「そうするしかないからしてるだけだ」
そりゃ1、2年前は、悔しさや情けなさで泣きそうになることだってあった。
でも人間、慣れる。
どんな暴言や罵声を受けようと、まともに受け止めなければいいのだ。
いずれ相手も疲れてくる。
それまでただじっと、機械のように待っていればよかった。
感傷的になって落ち込むのは、効率的じゃない。
「それにさ、今の世の中、遅くとも21時に帰れて、土日も大抵休みってそこそこ良い条件だろ。日付が変わっても帰れないような職場なんてざらにあるのに」
「だとしても俺には無理だわ。……転職しよ」
青木が、ぐでんと首を垂れて言う。
その表情は見えない。
……転職って、本気で言ってんのか?
俺は正体の分からない焦燥感に突き動かされるように、唇を開いた。
「……お前、そんなことじゃ他でもやっていけねえぞ」
その言葉が自分の口からこぼれた途端、嫌な違和感があった。
果たしてこの言葉は、今こいつにぶつけるべき言葉だっただろうか。
俺は今、なにか、八つ当たりのようなことをしなかったか。
胃がキリリと痛む。
けれど俺の心配をよそに、青木はけろっと頷いた。
「……ま、そうだよな! すみませーん! 生ひとつ!」
相変わらず元気な声にほっとする。
どうやら俺の考えすぎだったらしい。
それなら、この件に関してこれ以上気にするのは無意味だ。
俺は胸につかえた何かを勢いよく流し込むように、ビールを一気飲みする。
「お、良い飲みっぷり!」
「すいません、俺も生一つ!」
こうなってしまえば、もう終電を気にする気力もなくなる。
ひたすら飲んで、愚痴って、また明日から生きていくための糧を貪るだけだ。
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