脆く儚く美しき者たちへ――1

 こんにちは。初めまして。


 ……おや、獣が人間の言葉を喋るのは不思議ですか?

 ここはあなたの夢の中です。

 ですから、少々不思議なことが起こったとしても驚くことはありませんよ。


 あなたの悪夢は私がすっかり食べ尽しました。

 今日は悲しいことでもあったのですか?

 それとも、心身ともに疲れるようなことが?


 どちらにせよ、あなたが毎日頑張って生きている証拠ですね。

 安心してください。もう今夜は怖いことなど起こりませんから。


 けれど……困りましたね。


 あなたの悪夢を食べ尽してはみたものの、目覚めの時間はまだ先のようです。

 そこにあった溶けかけのテーブルも、びりびりに破れたソファも、部屋の窓からあなたを覗いていた殺人鬼もすべて美味しく頂いてしまいましたから、随分殺風景になってしまいましたね。


 これでは目覚めの時間まであなたを退屈させてしまいます。

 私は親切で良いバクなので、夢の中では出来る限り人間をもてなすことに決めているんです。

 こうしてお喋りしているだけでは、とてもあなたを楽しませることなんて……と思ったのですが、存外楽しそうですね。


 私のような大きな獣がお好きですか?

 それとも、この自慢の白い毛並みを気に入っていただけたのでしょうか。


 ……肉球? いいですよ、好きなだけ触ってください。

 ふふ。人間はこの感触に弱いようですね。


 思い出しますね。

 昔、あなたと同じように私に肉球を触らせることを要求した人がいました。

 不思議な人でしたよ。

 なにひとつ世界を知らないのに、全てを知っているような人でした。

 興味を惹かれましたか?

 では、あなたが目覚める時間がやってくるまで、私の昔話をしましょうか。

 あなたの暇つぶしくらいにはなるといいんですけど。


 ◆


 私は、どこにでもいるなんの変哲もないバクでした。


 夢から生まれ、群れることなく孤独に生き、素敵な食糧庫である人間を愛で――

 おっと、そんな風に申し上げると少し齟齬が生じますね。


 今も昔も、人間を愛でていることに変わりはないのですが……昔の私は、人間のことなど知っているようでなにひとつ知らないようなものでした。

 ですから、それは牧場の牛さんを可愛がるような気持ちによく似ていたのでしょう。


 人間の悪夢の中は興味深く、愚かさも浅ましさも、小さい生き物の不安や恐怖ゆえだと思えば可愛らしく思えました。

 侮っていたのです。自分と違う生き物である人間のことを。


 私たちよりもずっと早く生死のサイクルを終える人間たちが苦しむさまを見ても、気の毒に思いこそすれ、そういうものとしてただ淡々と眺めていました。


 ――あれは、まだ日本が大正時代を迎えたばかりの出来事です。


 当時の私は中国を縄張りとしていましたが、少しばかりテイストの違う悪夢を求めて、すぐ近くの日本へとやってきました。

 夢から夢へと渡り歩き、私好みの悪夢を持つ人間を探している最中に、先に日本に渡ってきていた同族と出会ったのです。


「こいつの悪夢はもう駄目だ。傷んじまってる。本人もそう長く持たないだろう」


 年老いたバクはそう言って、目じりの下がった瞳を細めました。

 悪夢が傷む現象は、ほぼ他者との交流を持たない私たちにも広く知られた現象でした。

 しかしその頃の私も、他のほとんどの同族も、『夢が傷む』ことの意味をあまり考えてはいませんでした。


 傷んだ悪夢は美味しく食べられなくなり、傷んだ悪夢に蝕まれた人間は、いずれ現実で不治の病に罹ったり、突然の事故で亡くなることがほとんどだということは知っていました。

 それはすなわち、お気に入りの餌場がひとつなくなるということです。


「それは残念だな。気に入りの悪夢だったのなら、なおさら」


 私は特になんの感傷もなくそう答えました。


 ――ああ、少しばかりややこしいかもしれませんが、今の発言は間違いなく私のものです。

 当時は今よりもいくぶん若かったので、誰に対しても生意気な口を利きたがったものです。

 人間も成長過程でそういう年頃を経ると聞いています。

 まあ、このあたりを掘り下げるのはさすがの私でも恥ずかしいので、当時はこういう口調で話していたのだなと思っていただければ。


 とにかく、あまり上手とは言えない相槌を打った私に、老獣は物憂げに瞳を細めました。

 

「俺が好きだったのはこいつの悪夢じゃない。こいつの心のありようだ」


 その頃の私には、老獣のその言葉があまりぴんと来ませんでした。


 人間の心とは、一体なんなのだろうかと。

 ちょうど人間が、美しい魚を愛でつつも、鱗に覆われたその小さな身体に果たして心は宿っているのだろうかと訝しむのと同じように。


 人間の悪夢に現れる不安や焦燥も、私たちから見れば本能に駆られた逃避にしか見えないのです。

 それは小鳥が一斉に捕食者から逃げ出す様子と同じで、私にはそこに宿る複雑な『心』を見出すことが出来ませんでした。

 しかしそれは、当時の私が他者を知ろうとしなかったからであり、他者にかける情を知らなかったからであり、一匹で強く生きていくために必要な条件でもありました。


 老獣と別れて、私はまた夢から夢へと渡りました。

 国が変わっても、ありふれた悪夢ばかりです。

 私は少々グルメなバクですから、そんな夢はもう中国で食べ飽きていました。


 ◆


 しかしある日のこと、私は特異な悪夢と出会ったのです。


 目の前には光で満ちあふれた光景が広がっていました。

 木々のようなものがあちこちで伸び伸びと枝葉を広げ、極楽鳥のように色鮮やかな鳥が羽を羽ばたかせて、空らしき頭上に広がる蒼から降り注ぐ光の粒を一身に浴びていました。


 端的に言って、現実離れした光景です。

 まるで、少しばかり前にフランスで栄えていた印象派の絵画のようで、一見悪夢のようには見えません。

 まるで、人間が想像しうる美しいものを、夢をキャンバスとして描いたように。

 けれど、どこか奇妙でした。


 全てが漠然としているのです。


 木々のようなものと表現したのは、おおよそ現実の木とは思えなかったからです。

 枝は縦横無尽にうねり、木の肌にもどこか違和感があります。

 細部が光でぼやけているのは、光の屈折を表しているというよりも、まるで知らない、想像できない部分を人間の脳が補っている状態のように見えました。


 私は光で満ちた悪夢を食みながら、夢の主を探しました。


 たいていの場合は、なんらかの形で夢の主も夢の中に具現化しているものです。

 人間とは限らず、木であったり、家の壁なんていう場合もあるのですけど。


 けれどいくら歩いても、夢の主の姿は見つかりませんでした。

 光に満ちた悪夢は複雑な味わいで、私を満足させるに足るものでした。


 悪夢を味わうほどに、夢の主への興味も強くなってきました。

 夢の中で姿を見ることが叶わないのなら、人間が『現実』と呼ぶ世界へと足を運ぶしかありません。


 人間にとっての現実は、バクにとって夢に等しいものです。

 自らの姿をそっくりそのまま保っておくことは難しく、確かな精神を持ったまま長く留まることも難しいのです。


 けれど幸いにして、私は少々特殊なバクでした。

 長く生きたおかげもありますが、元々現実への適正があったのです。


 それはまるで、最近私が出会ったあるサラリーマンと同じような具合なのですが……まあ、この話は長くなるので割愛しましょう。

 ともかく、私はこの日初めて夢から抜け出し、今まで一切の興味を抱くことがなかった現実へとやってきたのです。

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