幸世のゆきいろキャンディー 後編

 それ以来、ユキは冬が来るたびに家族でこの旅館にやってきた。


 私はユキの訪れを察するたびに姿を隠した。

 他の客には相変わらず私の足音や気配だけは時折伝わるようだったが、はっきりと私の姿を見られるのはユキ以外にいない。

 しかも、ユキは勘が鋭い。

 ユキは私が隠れている場所を毎回的確に当てて来た。


 この年も、また同じだった。

 庭の木の上に陣取っていた私はあえなくユキに見つかり、渋々隣に降り立った。


 なぜ無視できないのか、自分でも不思議で仕方ない。

 でもこの子がやってきた時だけは、いつまで続くかも分からないこの耐えがたい退屈が薄れる。


「今年も会えたね」


 嬉しそうにそんなことを言うユキの背は、とうに私を越している。

 顔つきもずいぶん年頃の娘らしくなって、無邪気さの中に憂いを含んだ表情をするようになった。

 長い髪は上半分だけゆるく後ろで縛っていて、サイドに細い三つ編みが施してある。

 こうしてあらためて見てみると、時の流れは早いものだと実感する。

 でも、これは当たり前のことだ。人間は成長するものだから。


 永遠に子どものままの私とは違って。


「今年は父親とあなただけなのね」


 私は仕方なく会話を続ける。

 あくまでも、仕方なくだ。


「……もう、母さんはいないから。亡くなったの。今年の初めに」


 それを聞いて、私は幾分驚いた。


 ユキの母親はもうずいぶん前から病気をしていて、夏頃に亡くなったらしい。

 この旅館に来ていたのも、たんなる家族旅行ではなく、冬に疼痛が酷くなる母親の湯治を兼ねていたのだと、この時に初めて知った。


「ふうん、そう。私の知ったことじゃないけど」


 興味のないそぶりで相づちを打つ。

 ユキは怒るか、あるいはこの場を去るだろう。

 母親のことを語る瞳は、まだ存分に傷みを残しているように見えたから。

 けれどユキは、軽く微笑んだだけだった。


「あなたとは、もう長い付き合いだよね。座敷童って本当?」


 不思議なことに、ユキが座敷童のことを話題に出したのはこのときが初めてだった。


「嘘に決まってるでしょ。怨霊よ」


 端的にそう答えると、ユキは堪えかねたように笑い始めた。


「怨霊? ぜんっぜん見えないわ!」

「見えなくても怨霊なの。それ以上笑ったら呪ってやる」

「そしたらお母さんと同じところに行ける?」


 私を笑った時とまったく同じ気楽な声音で落とされたその一言は、一瞬内容が理解出来なかった。


「たまに、たまによ? もういいかなって思うの。

 そんなことないのに、この先もう辛いことしかないような気がして」


 ユキはそう言って、その場にしゃがむ。

 目の前には、鯉が泳ぐ小さな池がある。

 冬の寒さに凍てついた池に、ユキはためらいなく指先を浸した。


 ユキの表情は変わらない。

 刺すような冷たさなんて、まるで何も感じていないように。 

 ユキの周囲に、なにかよくないものが集まっていくのが見えた。

 霊感が強いユキは、怪異を呼び寄せやすい。

 心が弱っている時ならなおさらのこと。


 私の胸に、正体の分からない焦燥感が広がっていく。

 ユキは不幸に見える。

 私が、勝手に座敷童に祭り上げられたこの私が、隣にいるのに。


「どうしてお前は幸せじゃないのかしら」


 気づけば、そんな言葉が私の口から零れ出ていた。


「え?」


 ユキは呆気にとられたように私を見る。


「私の足音を聞いたり、声を聞いたりした者は勝手に幸せになる。

 それなのに、どうしてお前にはなんの効果もないのかしら」


 この旅館を訪れ、私の存在に気づいたような反応を見せた人間は、ほぼ例外なくこの旅館に手紙を送ってくる。

 やれ宝くじに当たっただの、やれ子どもに恵まれただのと言って。

 座敷童宛にと、忌々しくセンスのない子供用玩具を送りつけてくることだってある。


 でもユキは、こうして会う限り全くそんなことがあった風には見えなかった。

 ユキは、会話が出来るほどに私の存在を認識しているのに。

 ユキは冷たい池から自分の手を引き上げると、うーん、と曖昧に唸りながら首を傾げた。


「私にとって、あなたは座敷童じゃなくて友だちだから、かしら」


 その単純明快な答えに、私は虚を突かれたような気持ちになった。


 もう何百年も私を『ただの人』として扱う人間なんていなかった。

 自分自身さえも。

 ユキの眼差しは、怨霊でもなく、座敷童でもなく、幽霊でもなく――紛れもなく、『私』に向いている。


「私は毎年あなたと遊べるのを楽しみにしているもの」


 無邪気にそう言われて、私は気づいてしまった。


 ――私はきっと、もうずいぶん前からユキを特別な存在として見ていた。

 ユキが私をただ『私』として見ていてくれていることに、無意識に気づいていたから。


 文句を言いつつこうして会話に付き合っているのが何よりの証拠だ。

 私は自分の気持ちを素直に認められるような性格じゃない。

 けれどこの時にはっきりと思い知らされた。


 私は、初めて幸せになって欲しいと思った子のことを、この先もきっと幸せにしてはあげられないのだということを。


 偽物の座敷童である私は、座敷童と認識されなければ力を持つことはない。

 そしてユキは、私のことをきっとこの先も『友だち』と認識し続ける。

 私が座敷童としての在り方を望んでいないと知ってなお、無理に幸せを運ぶ妖怪の名前を押しつけることはしないだろう。

 黙り込んだ私に何を思ったのか、ユキはそのまま言葉を続けた。


「私を幸せにしてくれなくてもいいから、名前を教えて欲しいわ。

 こんなに長い付き合いなのに名前すら知らないなんて、絶対に変」


 ユキは、前にも数度私に名前を聞いている。

 そのたびに私は『お前に教える気はない』と答えてきた。

 実のところ、名前などとうに忘れている。

 だったらせめて、適当な名前を答えてやればいい。


「幸世」

「幸世ちゃん? 本当に?」

「幸せな世の中にするって言われている妖怪……ということに今はなっているから、幸世よ」


 あと、ユキと少しだけおそろいだから。

 心の中でだけ、こっそりそう付け足す。


「今日からそう名乗る」


 そっぽを向いたままそう言った私に、ユキは嬉しそうに笑って、出会ったあの日のようにあめ玉をひとつくれた。


 ◆

 

 ユキは成長してからも毎年この旅館にやってきた。


 やがて、父親と、それからもう一人の若い男を連れてくるようになった。

 夫婦になったのだと言う。

 私に話しかけるユキを、何もない空間に話しかけているように見えるユキを、温かく眺めているような優しい男だった。


 ユキは幸せそうに見えた。

 だから私も数百年ぶりに穏やかな気持ちを思い出した。

 ユキが嬉しいと、なぜだか私の心も明るくなる。

 もちろん、そんなうすら寒いことを口に出して伝える気はないが。


 ただ、他者の存在そのものがどうしようもなく愛しくなることもあるのだと、私は長い生の中で初めて知った。


 私は、いつしかユキを、まるで自分の子どものように思っていたのかもしれない。


 けれどある日、急に旅館が閉鎖されることになった。

 それは、新しく旅館を継いだ経営者が『座敷童なんて馬鹿馬鹿しい』と発言した後のことだった。


 私はまた居場所を失い、冬が訪れてもユキに会うことは出来なくなった。



 それから何十年もの時が経った。 


 座敷童になってよかったと思えることはただひとつだけ。

 座敷童という新しい役割を無理矢理与えられたことで、私は怪異としての寿命を延ばし、それなりの霊力をたくわえた。

 こうして実体化できるようになったのもそのおかげだ。


 今の私は、昔のように人に姿を見せないことも出来るし、スーパーで買い物をすることも出来る。

 この年齢ではお金を稼ぐことは困難だが、幸い【BAKU】に雇ってもらえたおかげでそこそこ自由に暮らしている。


 私は仕事終わりにスーパーに寄ってから、今の家に帰ってきた。

 ビニール袋を抱えながら、古びたアパートの階段を上り、2階の3番目のドアを開ける。

 薄暗い玄関で小さな靴を脱いでいると、奥からしわがれた声が聞こえてきた。


「おかえりなさい、幸世ちゃん」

「ただいま。……ユキ」


 ユキはちゃぶ台の前に座ってテレビを見ていたらしい。

 こちらを振り返ったユキは、あの頃とまるで変わらない優しい笑みを浮かべていた。


 少し皺が増えて、腰が曲がって一回り体が小さくなっていることなど、私にとっては些細なことだ。

 私はキッチンに袋を置くと、ユキの側に歩み寄った。

 畳の部屋に入り、右側に仏壇が見える。


 遺影に映っている人の良さそうな老人は、ユキの夫だった。

 ユキと再会した時、ユキは夫に先立たれたばかりだった。

 子どもはおらず、この小さなアパートで二人慎ましくも仲良く暮らしていたのだと言う。


 再び会ったあの日、ユキはまるで母を亡くしたあの年のように今にも溶けて消えてしまいそうだった。

 雑多なビルがそびえ立つ街中で、どうして偶然ユキを見つけられたのかは分からない。

 もしかしたら、神様なんていう存在が引き合わせてくれたのかもなんて、私らしくないことを考えた。


 ユキは私を見て、笑顔を浮かべると、『もしかして、私は自分でも気がつかないうちに死んでしまったの?』と言った。

 たぶん私の仲間――死者になったからこそ再会できたのだと思ったのだろう。

 そうじゃないことを説明し、幻覚を見ているわけでもないことを理解してもらうにはそれなりの時間がかかった。


 ユキの体は少しずつ朽ちていっている。

 生きるものの定めに従って、日に日に死に向かっている。

 だから私は、ユキの側でそれを見届けようと思った。


「ユキが好きな飴も買ってきたわ。ほら」

「もうあめ玉が好きな子どもじゃないのよ」 

「私にとっては子どもよ。いつまでも」

「……その言葉、そっくりそのままお返しするわ」


 ユキはなにも変わらない。


 この奇妙な同居生活の中で、座敷童の私が、彼女から幸せをもらっている。 

 私はそっと枯れ木のようになったユキに手を伸ばした。


 この先は私が支えてあげる。

 幸せには出来ないかもしれないけど、見届けることは出来る。


 形があるものは脆いもの。

 でも形はユキの本質じゃない。


「……幸世ちゃん?」


 私に頬を触れられたユキが、不思議そうに私の名前を呼ぶ。

 幼いあの日のように。


 私の大切な子。愛しい子。

 しわくちゃになっても、私の名前を呼べなくなっても、目があまり見えなくなっても、体が腐敗しいずれ消え去っても――

 ずっとずっと、大好きよ。

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