第10話 朽ち果てた書店-2
「……どうやら、この夢の中でのマイさんは、今より幾分幼い姿をしているようですね。普段と随分印象が違いますが……おそらくこちらの方が、彼女の素顔に近いのでしょう」
夢見の暢気な声が気に障ったように、マイが表情を歪ませた。
しかしその視線は、真っ直ぐに俺を見つめている。
「なんであんたがまだここにいるのよ!」
どこか苦しそうに吐き出されたその言葉は、さっきと同じものだ。
――『まだ』?
その二文字が妙に引っかかったが、今はそれよりも確認したいことがある。
「おい夢見!」
「なんでしょうか」
鈍色に輝くナイフを持つ少女を前にして、なおも夢見はおっとりと答えた。
「……一応聞いておくけど、俺がここで刺されたとしても、現実には何の影響もないよな?
これはあくまでもマイの夢であって、その……『傷んだ悪夢』であったとしても、赤の他人である俺が喰われることはないよな」
夢の中であると頭ではわかっていても、その恐怖感は現実でナイフを向けられているのと変わりない。
だからこれは、あくまでも一応の確認だ。
もしそんなリスクがあるとするなら、さすがの夢見も事前に話――
「…………」
「……え? なんで黙るの?」
その溜めは普通に怖い。
「うーん、そうですねぇ。なかなか難しいところです」
「何が!?」
夢見はなにやら言葉を探すように首を傾けた。獰猛な獣という外見とはミスマッチな仕草だ。
そうしている間にも、マイはゆっくりとこちらに歩み寄る。
もちろん、ナイフの切っ先は俺の方に向けられていた。
「ひっ……」
いや。いやいや。落ち着け、俺。
恐怖を誤魔化すように、俺はふっと笑みを浮かべる。
そうだ。まだそのナイフを何に使うかは聞いてないじゃないか。
「おいおいおい、まさか人間を刺しはしないよな? そこのマネキンで、ちょっと猟奇的な遊びをしてただけで――」
俺が精一杯余裕ぶって吐いた台詞を、マイは鋭くぶった切った。
「ねえ……あたしのために死んでよ!」
「いや無理!!」
俺は踵を返して一目散に走り始めた。
後ろを振り返ると、マイが追ってきていた。細い指に握られたナイフが、ぎらりと物騒な光を帯びる。
「先ほどの話ですが……絶対に死ぬことがない、とは言い切れませんね。ノーシーボ効果という言葉をご存知ですか?」
夢見が並走しながら言う。
必死で走っている俺と違って、随分ゆったりと優雅に四肢を動かしていた。
いちいち腹立つな。
「知るか。端的に説明しろ」
「ノーシーボ効果というのは、思い込みがもたらす人体への影響のことです。
……こんな例があります。ある病院で、ガンと診断された患者が余命宣告を受け、ちょうどその時期に亡くなりました。しかし――亡くなった患者の体を解剖してみると、どこにもガンなんて見つからなかったんです。他にも似たような症例や実験結果が数個ありますが、いずれも『人間が思い込みで死ぬ可能性』を示唆しています」
限りなく嫌な予感がした。
「つまり――こうして明晰夢を見ている俺は、現実との区別がつかないゆえに刺されたら死ぬかもしれないってことか?」
「そういうことですね」
まじかよ!
「まあ、可能性はそう高くありませんから。大丈夫です。頑張ってください!」
獣なのににこやかな笑みを浮かべていると分かるのは何事か。
というか、『人間とは倫理観が違う』って、こういうこと!?
こいつ何のために人間救おうとしてるの!?
バクじゃなくて、実は悪魔か何かなんじゃないのか。
俺は奥歯をかみしめながら後ろを振り返った。
マイはまだ一目散に俺たちに向かって走ってきている。
無数にある本棚を使って撒けないかと考えてはみたが、障害物が多いこの場所では逆に追い詰められる可能性もあった。
こちとら成人した男と獣だ。
そう簡単に追いつかれることはないだろうが――夢の中だということが、この事態をややこしくしていた。
彼女がこうして走って俺たちを追いかけているのは、現実での物理法則が頭にあるからだ。
それはこれを夢だと理解していない証拠でもあるが、突然脈絡もなく現実でのルールが崩れるのも夢の特徴だ。
時速100キロで走ることも可能かもしれないし、瞬間移動だって出来るかもしれない。
――ん?
そうだ、ここは夢の中だ!
俺は今更、俺が持つアドバンテージに思い当たった。
明晰夢を見ている俺なら、夢に呑まれず、ある程度思い通りに行動することができる。
それに、夢では強く想像したものが具現化すると、夢見が言っていたじゃないか。
――よし。とりあえず、ナイフを防ぐものを思い浮かべるんだ。
えーと……盾とか……?
若干ファンタジーな発想で恥ずかしいが、刃を受けるために作られたものの方がきちんと機能してくれるだろう。
……思い浮かべた。でもここからどうすりゃいいんだ?
「た、盾、来い!」
一抹の恥ずかしさと共に、やけになって右手を掲げてみる。
次の瞬間現れたのは――
「な、鍋のフタ!?」
「昭博、あなたって想像力が乏しいんですね」
いつの間にか手近な本棚の上に飛び乗った夢見が、目を細めて言う。
笑ってんじゃねえ。
滑稽な茶番をしているうちに、マイは目前に迫っていた。
息を荒げたまま、俺に向かって素早く踏み込む。
「変なあがきはやめなさいよ!」
「っと……!」
繰り出されたナイフの一閃を、すんでのところで受け止めた。鍋のフタが。
「よかった、これちゃんと役に立つぞ!」
ありがたい。これからは重宝しよう、鍋のフタ。
「どうあっても死にたくないっていうの?」
鍋に当たるのも構わず、マイはめちゃくちゃにナイフを振り回した。
金属が触れ合う音が、耳障りな余韻を残す。
「死にたくないに決まってんだろ! むしろその死ぬのが当然みたいな発想はどこから来るんだよ!」
っていうか、何で俺がこんなに恨まれてるんだ!?
むしろ感謝をされてもいいくらいだろ。
そして、なぜか夢見にナイフを向けられることはない。
「おい、なに高みの見物決め込んでんだよ! 加勢しろ」
マイの攻撃をなんとか防ぎながら、本棚の上に立つ夢見を見上げる。
「そうは言いますが……私が食べたり、攻撃したりすることができるのは、夢の中で作られたものに限ります。
夢を作った張本人に牙を剥くと、この夢が消えてマイさんは目を覚ましてしまいますから」
……確かに、もっともだ。
だがそれは、今まさに殺されようとしている俺が考慮するべきことだろうか。
「じゃあ、死ぬ可能性があったとしてもこのまま大人しく刺されろって言うのか? っていうか、これじゃマイの『希望』とやらを探すこともできねぇだろ!」
「……仕方ありませんね。いったん引き上げましょうか」
マイに飛び掛かろうと、夢見は獲物を狙う猫のように背中を低くする。
――しぶしぶ、といったその様子に、なぜか嫌な予感がした。
どうもこのバクは、大事なことを言い忘れる癖があるらしい。
だったら、気になったことはなるべくその場で確認しておくべきだろう。
「夢から覚めたら、愛沢マイは次に悪夢を見るまで普段通りの生活が送れるのか?」
「……傷んだ悪夢は、決まって毎日見るものではありません。ですので――この機会を逃せば、マイさんはもう助からないかもしれませんね」
「は……?」
いとも簡単に告げられた言葉に、俺は目を剥いた。
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