第20話 沈黙の人魚姫-1
マイを見送ってから、夢見は慎重な手つきでケーキの箱を冷蔵庫へと仕舞った。
その様子を眺めていると、夢見が何かに気づいたようにベッドルームの方を見てから、俺に向き直る。
「マイさんが眠ったようです。では、私たちも行きましょうか。悪夢の中へ」
「ん……? ここでか?」
「今ベッドルームに入れば、寝入ったばかりのマイさんを起こしてしまうかもしれませんから」
「待て、せめて座って――」
夢見の指先が容赦なく俺の額に触れると同時に、ふっと身体から力が抜けた。
ぐるんと視界が反転し、天井が見える。衝撃はまだ来ない。
「……店長。人間は、後頭部を強く打つと死にますよ」
幸世がなんの感情もこもってない声でそう突っ込む
「大丈夫ですよ。昭博は見た目によらず強い子ですから」
「おい、おま」
唇が最後まで言葉を紡ぐその前に、俺は思いきり後ろから床へと倒れ込んだ。
◆
幸か不幸か、床に後頭部をぶつける痛みは、いつまで待っても来なかった。
その代わり、冷たい液体にゆっくりと沈んでいくような感覚に身体が支配される。
「ごぼっ……!?」
開いた口から、無数の泡が零れ、上へと昇っていった。
同時に塩辛い水が口の中に入ってきて、それが肺に向かう前に何とかして呼吸を止めた。
パニックになっている俺をあざ笑うかのように、鮮やかな黄色をした平べったい魚が目の前を悠々と泳いでいく。
ここは、海の中か……!?
もがきながら上を見ると、はるか遠くに光の射す水面が見えた。
息が苦しい。浮力のせいで手足がうまく動かせない。服を着たままの身体は驚くほど重く――いや、夢なんだからこれは気のせいだ。
理性はそう思うものの、すでに「服を着ると泳ぎにくい」ということを、俺は知識として知ってしまっている。
今口を開き、思い切り息を吸い込めば、もしかしたら地上にいる時と同じように呼吸ができるのかもしれない。
けれどそう信じ切る前に口を開いてしまったが最後、待っているのは溺死だ。
その時現実で眠っているはずの俺がどんな目に遭うのかは分からないが、もし適切なタイミングで夢から覚めることが出来なければ、呼吸困難により死亡、なんてことになるかもしれない。
可能性を天秤にかけるよりも先に、リアルな恐怖が頭を支配して、焦りのままにもがく。もがけばもがくほど体力が奪われ、身体は再現なく重みを増していった。
その時、ふいに上から巨大な白い毛玉がゆっくりと降ってきた。
――夢見!?
獣の姿になった夢見は、どうやら気絶しているようだ。俺は手を伸ばし、ふさふさとしたしっぽの先をなんとか掴む。
けれど自分自身の身体さえ引き上げられない俺が、獣状態の夢見の巨体を引き上げられるわけもなく――
「っ……!」
あろうことか、このタイミングで足がつった。
信じられない。夢の中でまでこんなことってあるか!?
なんとか夢見の尻尾は掴んだまま、俺はうつぶせに水底へと沈んでいく。
少し水を飲んでしまったかもしれない――そう思った瞬間、肺がキリキリと痛んだ。
ああ、もうダメだ。意識も朦朧としてきた。
このわけの分からない夢の中で溺れ、日頃の運動不足をリアルに思い出したせいで足がつり、もうあとはどうなるか分からない。
死ぬかもしれないし、水底に沈んで海のおともだちの仲間入りをするのかもしれない。
――そういえば、甲殻類は海に沈んだ人間の死体を食べるって話聞いたことあるな。
ぞっとしたその時、ふいに後ろから腹のあたりを細い腕で掬いあげられた。
なんだ……?
おぼろげな意識のまま、俺を水面へと連れて行くその人物の方を見る。
力強く水をかいて光の方へと向かうそのシルエットは、どう見ても細い女のものだった。
俺の視界を、まるで太陽の光のようにきらめく長い髪が遮る。
見覚えのあるグラデーション混じりの金髪だ。
……もしかして、マイか?
視線を下へと下ろしていくと、本来足があるはずのそこには、透き通るような色をした鱗に包まれたひれがあった。
――俺の意識は、その光景を最後に途切れた。
◆
目を覚ますと、そこは見知らぬ天井だった。
豪華なシャンデリアが飾られ、天蓋のあるどでかいベッドが置いてある部屋は、まるでテレビで見た高級ホテルのスイートルームのようだ。
嘘のように手触りの良い掛布団をめくる。着ている服は乾いていたが、磯の香りがしっかりとついていて、俺は思わず顔をしかめた。
これは――まだ、現実で目が覚めたわけじゃなさそうだな。
事態が把握できないまま、ベッドから身を起こす。
すると、床に敷かれたタオルのような敷物の上に夢見の姿があった。思った通り、現実での人間の姿ではなく、獣の姿だ。
「どこだ、ここ」
「少なくとも、まだマイさんの悪夢の中ですよ」
「悪夢って感じじゃないけどな」
さっきまでは、少なくとも俺にとっては紛うことなき悪夢だった。
だがこのパステルブルーを基調とした豪奢な部屋は、悪夢にはそぐわない。
前回見た景色とは全く違っていた。
「……何に恐怖するかは、人それぞれですよ。人間だって、まんじゅうこわいって言うじゃないですか」
「解釈間違ってるぞ」
あれは好物をわざと怖いと言って、周囲に持ってこさせる話だ。
「おや、そうでしたっけ」
「……落語なんて、どこで知ったんだ?」
「幸世さんにテープをお借りしました」
テープとはまたレトロな。
あのおしゃれな店内で、店長の優男と毒舌幼女が落語について語るところを想像する。
それは他の人から見れば微笑ましい光景になのかもしれないが、二人の正体を知っている俺にとっては、ただの一風変わった老人会だった。
「なるほど。『こわい』という言葉の意味が違うのですね」
俺の簡単な説明を聞いた後、夢見は、ふむ、と相槌を打った。
「それにしても、夢の中のみでは飽き足らず、現実でも様々な物語を創作しているなんて、人間はやはり興味深いですね」
「別に、夢は物語を作ってるわけじゃないだろ」
「似たようなものですよ。人が無意識に作り出す、自分の心を象徴する世界ですから」
夢見はそう言った後、敷物の上で、水遊びを終えた犬のようにぶるぶると身震いをした。
「海水……。しばらくべとつきますね」
すでに毛並みは乾いているようだが、違和感があるらしい。しょんぼりとする白い獣に、俺はため息をつく。
「なんでお前が溺れてるんだよ。夢はお前の領分のはずだろ」
「だからこそですよ。私にとっての夢は、いわばあなたにとっての現実と同じなので、突然の理不尽で命を落とすこともあるんです。なんでもありの夢の中を生き抜けるように相応の身体能力は備わっていますが、いきなり海の中に放り出されては抵抗の仕様もありませんし」
「……よく今まで生きてこられたな」
もっと無茶な夢は山ほどあるだろうに。
「普段はもっと安全な入口から入りますから。ですが、人間であるあなたを一緒に連れていくには、入口も出口も限られてしまうんです」
今回は運が悪かったですね、と夢見が続ける。
「あなたこそ、なにも私に付きあって溺れなくてもいいんですよ。あなたの場合、”たとえ海の中でも呼吸ができる。なぜならこれは夢だから”と強く思えば、それがここでの事実になるんですから」
「そうしようと試してはみたが……とっさにそんな風に思い込むのは、案外難しいもんだな」
子供の頃ならまだしも、アラウンド30まで生きていると、現実での物理法則が頭の奥深くにまでしっかりと刻まれているらしい。
「あなたなら夢の中でも自由に動けるかと思ったのですが……。夢を失くした大人というのは、厄介ですね」
「お前のその”夢の中こそ現実”って体質もな」
「……お互い、命は大事にしつつ頑張りましょうか」
さすがの夢見も、夢の中に入った途端海にぶち込まれて疲れたらしく、その声音にいつもの穏やかな笑みの気配はなかった。
「とはいえ、あなたも前回のように自己が曖昧になることなく、きちんと他人の夢に侵入できましたね。こちらの世界に慣れてきた証拠です。きっと、いずれ思うままに振る舞える時が来ますよ」
「うっかり死ぬ前にそうなれればいいけどな」
ベッドから立ち上がりそう答えたところで、突然部屋のドアが開いた。
小さな桶と布類を持って入ってきた少女に、俺は目を剥く。
「マイ!」
「……」
ひざ下まである、どこか時代錯誤なドレス(……と言っていいのか分からない。ワンピースと呼ぶには優美なデザインだが、ドレスというには装飾が少ないような気がした)を身にまとったマイは、ぼんやりと俺を見た。
そして、俺に向かって畳んだ布を差し出す。どうやら、シャツとズボンらしい。磯臭い服を着替えられるなら有難い。
「借りていいのか?」
マイはこくりと頷き俺に着替えを渡すと、今度は夢見の前に桶を置いた。
中には湯が入っているらしく、わずかに湯気が立ち上っている。マイは持ってきたタオルのようなものを中に浸すと、夢見の海水にこわばった毛並みを拭き始めた。
「おや、ありがとうございます」
嬉しそうに弾んだ返事を聞いても、マイはにこりともしない。
まるで俺たちのことを認識していないみたいだった。
「なあ。さっき溺れてた俺を助けてくれた人魚、あれはお前か?」
目の前のマイは普段と同じように二本の足で歩いている。
けれど水面ごしの太陽を浴びて浮かび上がったあのシルエットは、まぎれもなくマイのものだった。
しかし、マイは俺の問いかけに応えない。
一度ちらりと視線を上げたからには、声は届いているのだろう。
だがその視線はすぐに興味なさそうに逸らされてしまった。
マイは仕事の時と同じように結ったツインテールを揺らしながら、ひたすら夢見の身体を拭いている。
……明らかに様子がおかしい。
仕事の時の可憐さも、プライベートで会った時の苛烈さもない。
前回の夢で見た、不安定な表情ともまた違う。
ブルーでもグレーでもない、少し明るめの茶色の瞳は、おそらくカラコンを付けていないせいだろう。
前回は眼鏡に遮られてよく分からなかったが、これが本来の彼女の瞳の色らしい。
仕事ではブルー、プライベートではグレー。
どちらもマイの鎧の一部で、それがない今は、前回のように幼く見えることはないものの、どこかあどけなく儚い印象があった。
マイは夢見の毛並みを拭き終わると、俺に目もくれずに静かに部屋を出て行った。
「……どうやら前回のように私達のことを敵とは認識していないようですね。そこの鏡を見る限り、マイさんの夢に影響されてあなたの姿が変わっている、なんていうこともなさそうですし」
部屋にあるやたらと凝った装飾がなされた鏡台を見ながら夢見が言う。
「でも、そもそも俺たちのことなんて知らないようなそぶりだったぞ」
「夢の中ではどんな状況でも現実の記憶を引き継いでいるわけではありませんから。あなたのことが分かる時も、分からない時もあります。今回は後者なのでしょうね」
夢見は敷物の上で伸びをすると、しゃきっと四肢を伸ばして立ち上がった。
「さて。では、希望を探しに行きましょうか。すぐにもマイさんをお助けしましょう!」
「なんか前回よりもテンションが高くないか?」
「当たり前でしょう。なにせ、彼女は私にケーキをくださったのですから!」
白い獣の瞳がらんらんと輝いている。
「500円で買収できるとは、安い男だな」
「人間はよく言うじゃないですか。大事なのはモノではなく心なのだと。私は500円のモノに込められた心を汲み取り、有難く思ったのです」
夢見はかすかに顎を上げて、ぱたりと尻尾を振った。
ドヤ顔だ。それにしても表情豊かな獣である。
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