第2話 ネコ科のなにか
「まったくお前は本当に駄目な人間だな!!」
怒鳴り声にはっとする。俺は部長のデスクの前に立たされていた。
「資料作りもまともにできない。これじゃ誰も買いたくならんだろ。もっといい売り文句を考えろ!」
俺はさっき、あのカフェのベッドで眠ったはずだ。
……ということは、これは夢なのだろう。
現実と寸分変わらない部長が唾を飛ばしてわめいている。
「これじゃノルマの達成なんかできないだろ。おいどうするつもりだ? どうするつもりだって聞いてんだよ!」
「はあ。すんません」
現実では上半身を直角に折り曲げて謝るところだ。
場合によっては、「もう一度チャンスをください」と言うかもしれない。
部長はこういう熱血小芝居が好きなのだ。だから部長が望む通りに振舞えば、逆に評価が上がる。
正直に言ってしまえば、新しい契約が取れないのは、なにも俺だけじゃない。
大手企業が健康志向の客層向けウォーターサーバーに次々と参入している今、うちのような小さな会社は契約が取りにくくなっている。
……俺はいつまで、くだらない売り文句の水を売り続けないといけないのだろうか。
しかし俺はちゃんと分かっている。
もういい大人だ。
毎日がつまらないからって、目の前のことから安易に逃げるわけにはいかない。
仮に転職するとして、すんなり次が見つかったとしても、いずれきっと同じような不満を抱くようになるだろう。
……そもそも、俺がやりたいことって何なのだろう。
人は誰しも夢を持っているのだとメディアは言う。
芸能人が夢を叶えてくれる特番なんかを見ていると、まぁ世の中には色々な夢があるものだなあと感心してしまう。
しかし俺には、どうしても叶えたいと思うような夢がない。
まだ見つかっていないのか、それとも以前はあったのに、忘れ去ってしまったのか。
ただそこそこの大学に入り、必死で就活をして、当時一番条件が良かったここに入った。
一番条件が良かったのがこんな会社だった時点で、俺の市場価値はたかが知れている。
今のままじゃ、きっとどこに行ってもやっていけない。
そんな諦念が、いつも俺を今いる場所へと縛り付けていた。
「ったくてめえはよお! ぼーっとすんじゃねえよ!」
おお。いつの間にか部長は一人でヒートアップしていたようだった。
俺の頭をはたこうと、部長が手を振り上げたその瞬間。
――グルルルル。
遠くから、妙なうなり声が聞こえた。
犬のものではない。
もっと獰猛な何かの鳴き声。
それに気を取られたのは一瞬のことだった。
すぐに振り上げられた部長の手に意識を戻す。
指の短い不格好な手が、スローモーションで迫ってきた。
現実でもこうしてどつかれたことは何度もあるが、俺はこの瞬間が大の苦手だった。
夢であるから痛みはないものの、独特の不快感を伴う衝撃がある。
例えるならそれは、肉体ではなく魂への打撃だった。
現実なら肉体の痛みとして誤魔化される何か--相手の苛立ちや失望が、直接伝わってくるような感覚がある。
目をつぶってやりすごそうとしたその時だった。
俺の横をかすめるようにして、突然大きな獣が飛び出し、部長へと飛び掛かった。
――グルルルル。
さっきよりもはるかに大きな唸り声。
腹の底がびりびりとするような音だった。
俺の目の前で、純白の毛並みが波打つ。
神々しいほどの美しさに目を奪われた。
獣が大きくその顎を開く。
びっしりと生えた獰猛な牙が、部長の頭を襲った。
次の瞬間訪れるはずのスプラッタな光景を想像して、俺は思わず目を背けそうになる。
しかし――
頭に鋭い牙を立てられたその瞬間、部長は穴を開けられた風船のようにプシューとしぼんでいった。
……なんだこれ。
しわしわと手のひらサイズの薄い膜になった部長を摘まみ上げる。
両眉を下げた情けない表情に、俺は思わず噴き出した。
いや、夢なんだからありえない展開なんてない。
そもそも夢なんて荒唐無稽なもので、辻褄なんかあったものではないのだ。
でも、現実とよく似た夢を見ている間にこんなことがあるのは、覚えている限りでは初めてだった。
白い獣がゆっくりとこちらを振り向く。ネコ科のようにしなやかな肢体。
小さな耳とスマートな体は、豹かチーターか。俺にその見分けはつかなかった。
青く澄み渡った瞳が俺を見上げる。なぜか恐怖は感じなかった。
そこに知性が宿っているように見えたからかもしれない。
『それ、私にください』
「ん!? 今、お前喋った?」
『はい。それ、ください。そういう怒りっぽい人って、なかなか苦味がきいていて美味しいんです』
白い獣は、どうやらおやつに部長を所望のようだ。夢だし別にいいだろう。
「ああ、こんなので良ければやるよ。俺はいらないし」
『ありがとうございます』
獣はどこか弾んだ声でお礼を言うと、餌をねだるように大きく口を開けた。
びっしりと生えた鋭い歯に気後れするが、これだけ礼儀正しいのなら急に俺の手に噛みつくようなこともないだろう。
獣の口内に恐る恐る部長を投げ込むと、部長は細い悲鳴を上げてざらざらとした舌の上に落下していった。
ゆっくりと味わうように咀嚼した後、獣の喉が鳴る。
ぺろりと舌で唇を舐める様子は、昔動物園で見た肉食獣の食事風景そのものだった。
今日の夢はどうも趣向が変わっている。
次にどうなるのか想像がつかなくて、少しだけわくわくした。
『……さて。それでは、おやすみなさい』
改めて白い獣に見上げられて、俺はふと違和感に首を傾げた。
獣の柔らかな声を、どこかで聞いたことがあるような気がする。
そんなことを考えたのも束の間。
誰の声だったか思い出す前に、俺の意識は温かく居心地の良い闇へと飲み込まれていった。
――右手がブルブルする。
そういえば、手首に貸し出し用のデバイスをつけていたっけ。
俺は繭のような天蓋の中でゆっくりと目を開いた。
デバイスのモニター横についている小さなボタンを押し、振動を止める。
「……ふわあ」
まだ1時間しか経っていないはずなのに、朝の目覚めよりもはるかに気持ちよかった。
こんなに熟睡したのはいつぶりだろう。
途中まではいつものように会社で部長に怒られる夢を見ていたが、あの変な獣が出て来てからは夢を見ることなく眠っていたようだ。
にしても、夢に出てきたあの獣。
たぶん、看板やドアに書かれてた謎の生き物だよな。
俺はあの生き物の正体が、夢に見るほど気になっていたらしい。
白いチーターや豹なんて聞いたことがない。おまけに瞳は青だ。
特に意味があるとも思えないが、あとであの店員にこの店のキャラクターのモチーフを聞いてみてもいいかもしれない。
俺はひとつ伸びをすると、名残惜しさを感じながらウォーターベッドから離れた。
ドアを開けてカフェエリアに行くと、コーヒーの匂いとあの店員が迎えてくれる。
「おはようございます。眠れましたか?」
……あ。獣の声、この人だ。
柔らかくて特徴的な、おっとりした声。
あの獣の姿といい、さっきの夢はこの店のあちこちから要素を拝借していたらしい。
「どうも。よく眠れました」
「それはよかった。ええと、コーヒーでしたよね?」
「はい」
俺はカウンター席に腰かけ、コーヒーを淹れる店員の男を改めて眺める。
歳は30半ばくらいだろうか。いや、俺と同じ20代後半にも見える。けれど時折40代くらいにも見えた。
誤解がないように補足しておくと、見た目はとても若いのだ。
ほんわかとした柔らかな雰囲気も相まって、微笑むと少年のように見えることもある。
しかし、その身にまとうどこか老練な雰囲気が違和感となり、男の見た目年齢をぐっと押し上げていた。
なんとなく、女性にモテそうなタイプの優男だ。
細いフレームの眼鏡も、理知的な雰囲気によく似合っている。
ちらりと名札が見えて、俺はなんとなく目をやった。
そこには『
平安ものの小説を書いていそうな名前だ。ていうか本名か? それ。
そんなことを考えているうちに、目の前に湯気の立つコーヒーカップが置かれた。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます。……あの」
「……? どうかしましたか」
気になることは、早く聞いてしまうに限る。
コーヒーを飲む前に、俺は唇を開いた。
「看板とか、あそこのドアとかにある動物って、なんですか?」
「ああ。あれですか」
返って来た答えは、予想外のものだった。
「バクですよ。ご存じですか?」
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